かつてのアマゾンに大量の集落、従来説覆す
遺構「ジオグリフ」の分布から推定、アマゾンの森林は未踏の地ではなかった
スペインの侵略者たちに征服される前の南米では、遊牧民がささやかな集団を作り、アマゾン川の周辺に集まって暮らしていた。川から離れた広大な熱帯雨林は、太古から手つかずのままだった――。
果たして、本当にそうだったのだろうか?
最新の研究が示すのは、大きく異なる物語だ。アマゾン熱帯雨林にはたくさんの村や、儀式のために土を掘った溝があり、人口は従来の推定をはるかに超えていた。(参考記事:「アマゾンに広がる古代都市ネットワーク」)
地上に残された「溝」を求めて
ナショナル ジオグラフィック協会が資金の一部を援助したこの研究は、3月27日に学術誌「ネイチャーコミュニケーションズ」に発表された。この論文は、ヨーロッパ人到来以前のアマゾン熱帯雨林には人があまり住んでいなかった、という一般認識に異を唱えている。こうした認識は、大きな村落同士がつながりを持って存在していたという16世紀の記述などにもかかわらず、これまで根強く残ってきた。(参考記事:「アマゾンの「孤立部族」を偶然撮影、部族名も不明」)
「多くの人々が、この地域は手つかずの楽園だというイメージを持っています」。英エクセター大学の考古学者で、今回のプロジェクトに携わったホナス・グレゴリオ・デ・ソウザ氏は話す。アマゾン川流域の大半は未調査で、密林に覆われている。そこで営まれていた生活をもっと解明したいと考古学者らが考えても、これまでは容易に入れない場所だった。(参考記事:「アマゾンのヤノマミ族、希少な村に迫る「魔の手」」)
そこで研究チームは今回、衛星画像を使うことにした。ブラジルのマットグロッソ州にある未調査の地域に着目し、ジオグリフ(地上絵)と呼ばれる、儀礼に使われたとみられる古い溝の跡を探し出そうと試みたのだ。
ジオグリフとみられる痕跡を座標上に表すと、チームは現地調査に赴いた。この地域は、現在、広大な土地が農地となっている。予想に違わず、実際に訪れた24カ所の1つ1つが考古学的な遺構だった。「すべてつじつまが合いました」と、デ・ソウザ氏は話す。「ジオグリフのあるところが特別な区域だとわかったのです」
ある遺構を研究チームが詳しく調べたところ、陶磁器や木炭が出土。西暦1410年ごろに村があったらしいとわかった。
推定1300のジオグリフと村落
チームは研究室に戻ると、得られた情報をもとにほかの遺構がありそうな場所を予測することにした。標高や土壌のpH値、降水量などを加味したコンピューターモデルを作成し、シミュレーションしたところ、「標高が高く、季節や気温の変化の大きな地域」にジオグリフが作られている可能性が高いことが判明した。
同時に、ジオグリフの場所は川の近くに限らないということも示され、従来の想定を揺るがす結果となった。モデルによると、アマゾン南部の約40万平方キロの範囲に1300のジオグリフと村落が存在し、その3分の2が未発見だという。
しかもコンピューターモデルは、予想よりはるかに高い人口密度をはじき出した。今回対象とした地域はアマゾン全体の7%にすぎないが、研究チームはそこに50万~100万人が暮らしていたと考えている。アマゾン全域で約200万人しか住んでいなかったという従来の推計とは、まるで違う数字だ。
遺構がある場所の分布から考えると、西暦1200~1500年ごろ、防備を固めた高度な村落が東西約1800キロにわたって連なり、互いに結びつきながら繁栄していたとみられる。エクセター大学の考古学者で、論文の主著者であるホセ・イリアルテ氏はプレスリリースの中で、「アマゾンの歴史を見直す必要がある」と述べている。同氏はナショナル ジオグラフィックのエクスプローラーでもある。
では、熱帯雨林で生活していた人々に何が起こったのだろうか。デ・ソウザ氏は、ヨーロッパ人が一帯を征服したことで、住民たちは死に絶えたと話す。病気と大量殺りくでいくつもの集落が丸ごと消え、ほかの人々も農業をすっかり放棄してしまった。「彼らは絶えず移動する生活を余儀なくされました」と、デ・ソウザ氏。残された痕跡は、消えてしまった文明のほとんどがまだ謎に包まれていることを物語っている。