どうして落ち着いて考えるということができないんだろうか。
>はてなブックマーク - 河野美代子のいろいろダイアリー 日本は本当に姥捨て山になる。
殆どがデマだろ、デマ。煽り過ぎだっての。
中身をみると、47万人が「その他」―つまり路上死する、みたいなことが書かれているが、こりゃウソだろ。
厚生労働省が47万人の難民が出ることを知っていながら、「路上死しろ」と主張しているかの如く、一般人を誤認させる内容になっている。
本当にそんなことを言っていたんですか?>河野美代子氏(って、ところで何処の誰?)
まず、情報の出所を探した。
コレ>暮らし・後期高齢者医療制度は「団塊うば捨て山」 (2)2030年には47万人の終末期難民が出現
今年2月の記事だね。この「47万人説」を採用している人たちは、大体同じ情報源だろうと思う。河野氏はそういうのを繋ぎ合わせて書いた程度の内容でしかない。パクリン?(笑)ですか?
さも、自分が大発見したみたいに大袈裟に書いているが、全然ダメダメじゃないかと思うが。JANJANの方が詳しいよ。
資料自体は記事によれば「07年10月21日に青森市で開催された第16回青森県老人保険研究会の特別講演で配布された資料」ということだそうですので、厚生労働省が作成したかどうかは不明なんじゃないですか?というより、研究会関係の方が作成したんじゃありませんか?
河野氏は「その他」について、
『「その他」とは何ぞや。病院でも、自宅でも、施設でもない。参考までに、2005年の死んだ人の割合の中で「その他」とは、路上や公園などで死んだ人のことを指している。』
と書いている。
まるで野垂れ死にみたいに書いているが、多分違うでしょうね。
通常、死亡する場所が交通事故であったりすることは珍しくない。職場で急死することもあれば、産業事故もある。海水浴等の海での死亡、登山や雪崩等の事故もある。スポーツ事故なんかだと、グラウンドやプールなんかもある。そういう死亡数の方が、ホームレスみたいになって「路上や公園」で死亡する数よりも、恐らく圧倒的に多いだろう。別に姥捨て山みたいに、公園などの空き地に捨てられるわけじゃない。人々の恐怖心や不安を煽っているだけなのだよ。普通に考えれば、死亡する場所が自宅や病院ばかりではないことくらいは判るのだが、人々はついつい「路上や公園」という記述に囚われてしまうのだ。
大体、孤独死(餓死とか病死とか自殺とか)だって、通常は「自宅」死亡だろ。
こういう言説に引っ掛かりやすいのが世の常なのである。煽りには弱いのである。
元々の47万人の根拠というか意図としては、病床数を削減するのだから一般病院死を増やさないように仮定してみたらどうなるか、ということであろう。病院や介護施設や自宅でなければ、他はどうなりますかね、という提起をしているのであって、実際に公園や路上で死亡するということを意味するわけではないだろう。
統計資料はこちら>第5表 死亡の場所別にみた死亡数・構成割合の年次推移
ざっと言うと、100万人死亡数で、病院が80万人、自宅が13万人、施設+老人ホームが2.7万人、診療所が2.8万人、残りがその他2.8万人だ。医療機関での死亡が約8割、残りの大半である13%が自宅、あとはチョボチョボってことだ。今の病床数でこうなのだから、将来死亡者数が160万人以上になれば、その増加分(約60万人)の大半が「行き場がない」かもね(=47万人が難民化)、ってことを指摘しているのだが、そうであるとしても「自宅で死ねない」とかって話にはならないのは明白だ。
数字を見れば判るように、1980年には自宅死亡割合が38%あった。今の3倍くらい、ということ。病院死亡は約半分でしかなかった。160万人の4割が自宅死亡であれば64万人ということになり、ジャンジャンの資料で指摘する自宅20万人+47万人の合計くらいにはなるね。つまり、1980年頃と同じくらいにしていくようにしましょう、ということを想定しているのであって、自宅死20万人になれなかった人たちは路上死せよ、とか言っているわけではなかろう。
それから、前に書いたが、自宅出産の礼賛みたいな連中がいたと思うんだが、過去の数字をよく見るといいよ。
>サンバの幻想?
周産期死亡がかつては非常に高かった、って言ったろ?
病院ではなく、自宅出産だの、助産院だので出産していたから、死亡する確率は高かったのだよ。
上記人口動態資料では、助産院での死亡数は昭和35年で791人、昭和40年で774人だ。この数がどういう意味なのか考えて見るとよい。今と比べると、かなりの高率で死んでいたんだよ。昔はそれが普通だった。いちいち訴えたりはしてなかったけど。
出産は自宅推奨で、終末期は自宅じゃ無理だ、っていうのも、調子のいい主張に聞えますね。あっち系の人たちが、自宅で産めだの自然分娩せよだの、運動しているんだけれども、在宅死もそういう運動みたいなのと何ら変わりないんじゃないの?あっちだか、そっち系だかよく判らんけれども、自宅死を推奨しているような「患者側代表」?だか「国民の意見の代表」?だか知らないが、そういう「消費者側の視点」(笑)に立った「代表者」が頑張った成果が、「病院で死んだら高くつくから、自宅で死んでこい」という制度を生み出すのにかなりの貢献をしたことは間違いないでしょうな(笑)。
「姥捨て山だ」とか散々批判する人たちは、「そっち系の連中」を叩けばいいものを、何故だか政治家や官僚を憎むわけです。こういう制度の元を辿れば、大体はナントカ審議会だの有識者会議だの、そういう偉そうな肩書きを持つ連中の会議に行き着くわけで、そこから出されてこなければ官僚たちだって素案を組んだりなんかできんのですよ。強くプッシュする人たちがいるからこそ、こういう制度のたたき台が上がってくるわけで。何もないところからは、生み出せないですって。
また使ってみるか。
>みのもんたさん江
朝スバによく呼ばれる元宮城県知事の浅野氏ですけれども、彼は社会保障関係に詳しいらしく、知事時代なんかに審議会のメンバーによく選ばれていたりしましたので、是非とも彼のご意見を伺うといいのではないかと。浅野氏は後期高齢者医療制度を作り上げる過程に、深く関わっていたはずではないかと思いますので。制度を主導する役割を担っていたのは一体誰なのか、よく聞いてみて下さい。いつもは好きなことを言える批判側の立場でしょうけど、浅野氏が何と答えるか見てみたいです。
皆さん!安易に煽動されないようにご注意を。
まずは疑え、です(笑、冗談です)
ちょっと追加。
別に今の後期高齢者医療制度に大賛成しているわけじゃないけど。何遍もいいますが。
でも、ニセ情報に踊らされるのはよくないよ、っていうこと。
それと、自宅死の割合を1980年頃と今や将来とを同じ水準にしよう、というのは、数字が同じ位であっても社会情勢が当時と今とでは全然違う、ということを考慮するべきだと思う。
当時は、専業主婦がかなりの割合を占めていたこと、一人(一組)の親に対して子ども世代が多かった(兄弟が何人もいた)こと、同居世帯が多かったこと、などがあるだろう。
しかし、現在や将来見通しとしては、
・専業主婦が少ないので親の面倒をみることを期待するのが難しい(女性の就業率は将来上げていかねばならないので)
・少子化で一組の子ども世代が2組の親の面倒をみる、というような状況(実質的に負担が大きく難しいだろう)
・高齢者単独世帯が増加しているし、将来も増えるだろう(子ども世帯と親世帯は距離的に遠いことが多々ある)
ということで、高齢者世帯が在宅で取り残されてしまうことが起こり得る。
なので、在宅医療の方向に進めるのであれば、自分の子ども以外の社会資源を活用する以外にはないだろう。つまりは介護サービスや地域社会の人々(行政、警察、訪問看護、医療職等)の支えが必要。その為の対価を社会全体で分担することになるだろう。
金銭的に余裕のある人たちは、高齢者向けマンション等に入れるだろうが、余裕のない人たちは(運が良ければ)公的介護施設入所か自宅(当然借家や公的住宅含む)しかない。家族が自力で面倒をみない代わりにお金を払う(サービスを買う)か、お金を払えず時間を持つ人たち(仕事に就かずにいてお金を持たない人たち)は自分で面倒をみてもらうか、高齢者が単独で自力生活するか、というような選択を迫られるであろう。
そういう選択社会がいいかどうかは、国民に判断が委ねられる。
もしも多数派の人たちが、「過去に頑張ってこなかった人たちの老後まで面倒をみきれません」と言い出したら、やはり自力である程度頑張ってもらうしかない、ということ。お金を出せないのなら、家族で支えてあげてください、支える家族や親族がいなければ、自力でお願いします、ということかと。
これまで国保や介護保険料を滞納してきた高齢者は、少なからずいる。そのことをどうするか、ということもある。結構ニュースなんかでも指摘があるのだけれど、給食費や公立の授業料の滞納については、若年世代がバッシングに遭うわけだが、これが高齢者になると責任を問われずともいいのか?
日本の高度経済成長期を謳歌してきた世代であるはずなのに、道徳なんかも叩き込まれてきたであろう世代であるはずなのに、高齢者の国保納付率は高いとは言えないわな。だから天引きされるって話になるわけだ。そういう指摘を誰もできなかったんだよ。何かといえば、年寄りを苛めるのか、って話になるから。
いずれにせよ、よく考えるべき問題だと思う。
>はてなブックマーク - 河野美代子のいろいろダイアリー 日本は本当に姥捨て山になる。
殆どがデマだろ、デマ。煽り過ぎだっての。
中身をみると、47万人が「その他」―つまり路上死する、みたいなことが書かれているが、こりゃウソだろ。
厚生労働省が47万人の難民が出ることを知っていながら、「路上死しろ」と主張しているかの如く、一般人を誤認させる内容になっている。
本当にそんなことを言っていたんですか?>河野美代子氏(って、ところで何処の誰?)
まず、情報の出所を探した。
コレ>暮らし・後期高齢者医療制度は「団塊うば捨て山」 (2)2030年には47万人の終末期難民が出現
今年2月の記事だね。この「47万人説」を採用している人たちは、大体同じ情報源だろうと思う。河野氏はそういうのを繋ぎ合わせて書いた程度の内容でしかない。パクリン?(笑)ですか?
さも、自分が大発見したみたいに大袈裟に書いているが、全然ダメダメじゃないかと思うが。JANJANの方が詳しいよ。
資料自体は記事によれば「07年10月21日に青森市で開催された第16回青森県老人保険研究会の特別講演で配布された資料」ということだそうですので、厚生労働省が作成したかどうかは不明なんじゃないですか?というより、研究会関係の方が作成したんじゃありませんか?
河野氏は「その他」について、
『「その他」とは何ぞや。病院でも、自宅でも、施設でもない。参考までに、2005年の死んだ人の割合の中で「その他」とは、路上や公園などで死んだ人のことを指している。』
と書いている。
まるで野垂れ死にみたいに書いているが、多分違うでしょうね。
通常、死亡する場所が交通事故であったりすることは珍しくない。職場で急死することもあれば、産業事故もある。海水浴等の海での死亡、登山や雪崩等の事故もある。スポーツ事故なんかだと、グラウンドやプールなんかもある。そういう死亡数の方が、ホームレスみたいになって「路上や公園」で死亡する数よりも、恐らく圧倒的に多いだろう。別に姥捨て山みたいに、公園などの空き地に捨てられるわけじゃない。人々の恐怖心や不安を煽っているだけなのだよ。普通に考えれば、死亡する場所が自宅や病院ばかりではないことくらいは判るのだが、人々はついつい「路上や公園」という記述に囚われてしまうのだ。
大体、孤独死(餓死とか病死とか自殺とか)だって、通常は「自宅」死亡だろ。
こういう言説に引っ掛かりやすいのが世の常なのである。煽りには弱いのである。
元々の47万人の根拠というか意図としては、病床数を削減するのだから一般病院死を増やさないように仮定してみたらどうなるか、ということであろう。病院や介護施設や自宅でなければ、他はどうなりますかね、という提起をしているのであって、実際に公園や路上で死亡するということを意味するわけではないだろう。
統計資料はこちら>第5表 死亡の場所別にみた死亡数・構成割合の年次推移
ざっと言うと、100万人死亡数で、病院が80万人、自宅が13万人、施設+老人ホームが2.7万人、診療所が2.8万人、残りがその他2.8万人だ。医療機関での死亡が約8割、残りの大半である13%が自宅、あとはチョボチョボってことだ。今の病床数でこうなのだから、将来死亡者数が160万人以上になれば、その増加分(約60万人)の大半が「行き場がない」かもね(=47万人が難民化)、ってことを指摘しているのだが、そうであるとしても「自宅で死ねない」とかって話にはならないのは明白だ。
数字を見れば判るように、1980年には自宅死亡割合が38%あった。今の3倍くらい、ということ。病院死亡は約半分でしかなかった。160万人の4割が自宅死亡であれば64万人ということになり、ジャンジャンの資料で指摘する自宅20万人+47万人の合計くらいにはなるね。つまり、1980年頃と同じくらいにしていくようにしましょう、ということを想定しているのであって、自宅死20万人になれなかった人たちは路上死せよ、とか言っているわけではなかろう。
それから、前に書いたが、自宅出産の礼賛みたいな連中がいたと思うんだが、過去の数字をよく見るといいよ。
>サンバの幻想?
周産期死亡がかつては非常に高かった、って言ったろ?
病院ではなく、自宅出産だの、助産院だので出産していたから、死亡する確率は高かったのだよ。
上記人口動態資料では、助産院での死亡数は昭和35年で791人、昭和40年で774人だ。この数がどういう意味なのか考えて見るとよい。今と比べると、かなりの高率で死んでいたんだよ。昔はそれが普通だった。いちいち訴えたりはしてなかったけど。
出産は自宅推奨で、終末期は自宅じゃ無理だ、っていうのも、調子のいい主張に聞えますね。あっち系の人たちが、自宅で産めだの自然分娩せよだの、運動しているんだけれども、在宅死もそういう運動みたいなのと何ら変わりないんじゃないの?あっちだか、そっち系だかよく判らんけれども、自宅死を推奨しているような「患者側代表」?だか「国民の意見の代表」?だか知らないが、そういう「消費者側の視点」(笑)に立った「代表者」が頑張った成果が、「病院で死んだら高くつくから、自宅で死んでこい」という制度を生み出すのにかなりの貢献をしたことは間違いないでしょうな(笑)。
「姥捨て山だ」とか散々批判する人たちは、「そっち系の連中」を叩けばいいものを、何故だか政治家や官僚を憎むわけです。こういう制度の元を辿れば、大体はナントカ審議会だの有識者会議だの、そういう偉そうな肩書きを持つ連中の会議に行き着くわけで、そこから出されてこなければ官僚たちだって素案を組んだりなんかできんのですよ。強くプッシュする人たちがいるからこそ、こういう制度のたたき台が上がってくるわけで。何もないところからは、生み出せないですって。
また使ってみるか。
>みのもんたさん江
朝スバによく呼ばれる元宮城県知事の浅野氏ですけれども、彼は社会保障関係に詳しいらしく、知事時代なんかに審議会のメンバーによく選ばれていたりしましたので、是非とも彼のご意見を伺うといいのではないかと。浅野氏は後期高齢者医療制度を作り上げる過程に、深く関わっていたはずではないかと思いますので。制度を主導する役割を担っていたのは一体誰なのか、よく聞いてみて下さい。いつもは好きなことを言える批判側の立場でしょうけど、浅野氏が何と答えるか見てみたいです。
皆さん!安易に煽動されないようにご注意を。
まずは疑え、です(笑、冗談です)
ちょっと追加。
別に今の後期高齢者医療制度に大賛成しているわけじゃないけど。何遍もいいますが。
でも、ニセ情報に踊らされるのはよくないよ、っていうこと。
それと、自宅死の割合を1980年頃と今や将来とを同じ水準にしよう、というのは、数字が同じ位であっても社会情勢が当時と今とでは全然違う、ということを考慮するべきだと思う。
当時は、専業主婦がかなりの割合を占めていたこと、一人(一組)の親に対して子ども世代が多かった(兄弟が何人もいた)こと、同居世帯が多かったこと、などがあるだろう。
しかし、現在や将来見通しとしては、
・専業主婦が少ないので親の面倒をみることを期待するのが難しい(女性の就業率は将来上げていかねばならないので)
・少子化で一組の子ども世代が2組の親の面倒をみる、というような状況(実質的に負担が大きく難しいだろう)
・高齢者単独世帯が増加しているし、将来も増えるだろう(子ども世帯と親世帯は距離的に遠いことが多々ある)
ということで、高齢者世帯が在宅で取り残されてしまうことが起こり得る。
なので、在宅医療の方向に進めるのであれば、自分の子ども以外の社会資源を活用する以外にはないだろう。つまりは介護サービスや地域社会の人々(行政、警察、訪問看護、医療職等)の支えが必要。その為の対価を社会全体で分担することになるだろう。
金銭的に余裕のある人たちは、高齢者向けマンション等に入れるだろうが、余裕のない人たちは(運が良ければ)公的介護施設入所か自宅(当然借家や公的住宅含む)しかない。家族が自力で面倒をみない代わりにお金を払う(サービスを買う)か、お金を払えず時間を持つ人たち(仕事に就かずにいてお金を持たない人たち)は自分で面倒をみてもらうか、高齢者が単独で自力生活するか、というような選択を迫られるであろう。
そういう選択社会がいいかどうかは、国民に判断が委ねられる。
もしも多数派の人たちが、「過去に頑張ってこなかった人たちの老後まで面倒をみきれません」と言い出したら、やはり自力である程度頑張ってもらうしかない、ということ。お金を出せないのなら、家族で支えてあげてください、支える家族や親族がいなければ、自力でお願いします、ということかと。
これまで国保や介護保険料を滞納してきた高齢者は、少なからずいる。そのことをどうするか、ということもある。結構ニュースなんかでも指摘があるのだけれど、給食費や公立の授業料の滞納については、若年世代がバッシングに遭うわけだが、これが高齢者になると責任を問われずともいいのか?
日本の高度経済成長期を謳歌してきた世代であるはずなのに、道徳なんかも叩き込まれてきたであろう世代であるはずなのに、高齢者の国保納付率は高いとは言えないわな。だから天引きされるって話になるわけだ。そういう指摘を誰もできなかったんだよ。何かといえば、年寄りを苛めるのか、って話になるから。
いずれにせよ、よく考えるべき問題だと思う。