今年に入って以降、特に顕著であると思うが、ブログから距離を置いている。
どうしてか?
自分でもよく分からない。
ネットでの何らかのアクションというのは、自分にとってはかなりのマイナスのものでしかなかった。
何かが得られたか?
何かが達成できたか?
よく分からない。
後悔してるんじゃない。
それは全然違う。
だが、悪い連中に目を付けられたり(笑)、よからぬ工作活動などを受けたり、散々なことばかりだったように思う。
中には、訴訟をちらつかせて、発信者情報開示するからな、とか言って来られたこともあったしな。
ブログを始めたのが04年の10月だったから、もう少しで10年になる。
まだ10年は迎えてないから、総括とか反省とか、大した何かがあるわけではないけど、自分の中では、「惨敗」だった。
労多く、益なし。
というか、益なんか、最初から望んでいたわけでもなかったから。
少しでも、社会が変われるなら、とか、何かが良くなれば、とか、そういう「ウブ」な希望のようなものを抱いて、ひょっとしたら社会に影響を与えられるんじゃないか、みたいな、まさに中二病的な理想や希望のようなものを投影していたように思う。
それは、誤った自己過大評価のようなものだった。
錯誤の全能感に類するものだった。
結論から言えば、政治は悪くなった。
日本国民は、既に抵抗するべき能力を失った。
かつては存在してきた、対抗勢力すら、完全崩壊した。
野党なんて、存在してない。
自民党内の党内派閥すら、政治的対抗手段を失った。
良識派の議員が存在できる余地すら、もう残っていないのである。
マスコミは、以前にも増して、その存在意義を喪失した。
国民には、まともな声など、決して届かない。
国民に危機を知らせる警鐘にさえなれないのである。
ネットには、唯一の対抗手段が残されるのではないか、と期待したこともあった。
しかし、それも夢物語に過ぎなかった。
席巻したのは、工作員部隊の方だった。所詮は、人間というのは、そのように生きる動物なのだ。
影響力を持ちそうな人間に対しては、分断・遮断が効果的だった。
結局は、支配からは逃れられないのである。
社会が変われるとか、政治に国民の声や願いが反映できるとか、そういうのは、全くの幻想であり、お題目に過ぎない。まさしく「キレイ事」なのだ。
国民が投票所に足を運んでみた所で、何ら変わることなどない。
理性と知性を持った、ごく稀な良識派の官僚たちも、その生存は困難となった。
末端の方に生き延びていたとしても、それでは政治的に何かが変わるということなどあり得ない。
砂川判決のようなものだ。
権力中枢は必ず上にある。軽くひっくり返せる、ということだ。
自分が思っていた世の中のことというのは、実際には、もっと汚く醜く、悪は栄え大きい、ということだった。偉い人たちの多くは、もっとまともな人たちかと思ったが、現実はそう甘くなかった。
想像以上に、「悪の根源」に加担している人たちが多い、ということだった。
まさに「悪に塗れた狡猾な連中」ということだったようだ。日本の未来が、そうした連中によって支配されているのだから、絶望的であることはほぼ間違いないだろう。
そういうことを学ぶには、良かったのかもしれない。
どうしてか?
自分でもよく分からない。
ネットでの何らかのアクションというのは、自分にとってはかなりのマイナスのものでしかなかった。
何かが得られたか?
何かが達成できたか?
よく分からない。
後悔してるんじゃない。
それは全然違う。
だが、悪い連中に目を付けられたり(笑)、よからぬ工作活動などを受けたり、散々なことばかりだったように思う。
中には、訴訟をちらつかせて、発信者情報開示するからな、とか言って来られたこともあったしな。
ブログを始めたのが04年の10月だったから、もう少しで10年になる。
まだ10年は迎えてないから、総括とか反省とか、大した何かがあるわけではないけど、自分の中では、「惨敗」だった。
労多く、益なし。
というか、益なんか、最初から望んでいたわけでもなかったから。
少しでも、社会が変われるなら、とか、何かが良くなれば、とか、そういう「ウブ」な希望のようなものを抱いて、ひょっとしたら社会に影響を与えられるんじゃないか、みたいな、まさに中二病的な理想や希望のようなものを投影していたように思う。
それは、誤った自己過大評価のようなものだった。
錯誤の全能感に類するものだった。
結論から言えば、政治は悪くなった。
日本国民は、既に抵抗するべき能力を失った。
かつては存在してきた、対抗勢力すら、完全崩壊した。
野党なんて、存在してない。
自民党内の党内派閥すら、政治的対抗手段を失った。
良識派の議員が存在できる余地すら、もう残っていないのである。
マスコミは、以前にも増して、その存在意義を喪失した。
国民には、まともな声など、決して届かない。
国民に危機を知らせる警鐘にさえなれないのである。
ネットには、唯一の対抗手段が残されるのではないか、と期待したこともあった。
しかし、それも夢物語に過ぎなかった。
席巻したのは、工作員部隊の方だった。所詮は、人間というのは、そのように生きる動物なのだ。
影響力を持ちそうな人間に対しては、分断・遮断が効果的だった。
結局は、支配からは逃れられないのである。
社会が変われるとか、政治に国民の声や願いが反映できるとか、そういうのは、全くの幻想であり、お題目に過ぎない。まさしく「キレイ事」なのだ。
国民が投票所に足を運んでみた所で、何ら変わることなどない。
理性と知性を持った、ごく稀な良識派の官僚たちも、その生存は困難となった。
末端の方に生き延びていたとしても、それでは政治的に何かが変わるということなどあり得ない。
砂川判決のようなものだ。
権力中枢は必ず上にある。軽くひっくり返せる、ということだ。
自分が思っていた世の中のことというのは、実際には、もっと汚く醜く、悪は栄え大きい、ということだった。偉い人たちの多くは、もっとまともな人たちかと思ったが、現実はそう甘くなかった。
想像以上に、「悪の根源」に加担している人たちが多い、ということだった。
まさに「悪に塗れた狡猾な連中」ということだったようだ。日本の未来が、そうした連中によって支配されているのだから、絶望的であることはほぼ間違いないだろう。
そういうことを学ぶには、良かったのかもしれない。