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サッカーW杯2018 ロシア大会 オレ的反省会

2018年07月01日 16時39分58秒 | いいことないかな
(これを書いているのは、7月1日である。ベルギー戦の結果をまだ知らない。拙ブログの意見は、結果に左右されない。ただ、試合前に公開することは、さすがにできなかった)

まず、決勝Tに進めたこと、これは、素直に有難うと御礼を述べたい。チームはよくぞ戦ってくれました。特に、急造監督の下で、短期間の中で色々なことを示してくれましが、今後日本が強くなる為には反省が必要と思います。そういう意味においても、非常に良い大会だったと思います。


1)サッカー全体について

かつての所謂伝統的な強豪国と、周辺の上位国の実力差はかなり縮小し、スター選手を擁するチームといえども、簡単には勝てなくなった。守備側の研究とか向上が進んだから、ということがあるのかもしれない。DFにも高度な能力を要求されるようになっており、特に状況判断能力が勝敗を分けるような感じになっているかもしれない。

攻撃面では、やはり「スピード」が以前にも増して重視されるようになったと思う。守備側の組織力向上により、局面を打開するにはスピードに乗った攻撃が重要になっているのでは。これは守る側から見ると、中々対策が難しいからだろう。

他には、やはりデータ分析が以前とは比べ物にならないくらいに進んでいて、選手のパフォーマンスは勿論のこと、チーム戦術の理解の上でもかなり大きな影響力を持つようになっていると思う。サッカーは難しくなっている、ということだ。すなわち、スター選手個人の能力だけでは勝つのが容易ではなくなり、まるで将棋の棋譜研究に近づいているのかもしれない。


2)急造監督の脆さを露呈

選手選考はハリルホジッチ監督時代から主に呼ばれていたメンバーが中心だったが、やや偏りが見られた。一般的に言われていたのは平均年齢が高いことだったが、攻撃的選手に速度のある選手層が薄かった。
前項でも触れたが、速度重視のサッカーにおいて、攻守において速度に乏しい選手の起用法は難しいことが多く、西野監督がどのようなサッカーを目指していたのかは、当初から不明だった。

テストマッチが3試合しかなく、条件が厳しいことは分かっていたはずで、わずか1カ月くらいで監督のできることは限られていた。
ハリルホジッチ監督を解任した日本サッカー協会が、西野監督に何を求め、何をしようとしていたのか、全く分からなかった。実際、ガーナ戦とスイス戦では、監督采配は何も機能せず、3バックを試したりしたものの西野監督の目指すサッカーの方向性がバラバラ過ぎて何も見えずじまいだった。

結果が出たのは、本大会の僅か10日前のパラグアイ戦だったが、これもAチーム(レギュラー組)とBチーム(控え組)を適当に入れ替えてみたら、かすかに希望の光が見えてきた、というものだった。ある意味、監督の目指すサッカーを放棄し、半ば匙を投げたに等しいものであった。
よい言葉で言えば「選手の自由にやらせてみる」というもので、監督采配と呼べるものではなかった。ここに、JFAと西野監督と代表選手たちの間では、何の成算もなければ、共通理解となるようなものを有していなかった。

ある種の行き当たりばったりで、八方塞だったのが逆に幸いして、全入れ替えを実行してみたら唯一結果が出せたということだった。

何となく選手任せでやってみたという、偶然の産物だった。別の言い方をすれば「選手の自主性を重んじた」と。


3)西野采配の問題点

あまり書きたい話ではないが、敢えて書く。将来の日本のサッカーが良くなって欲しいから、である。

まず、第3戦で危機を救ってくれたと賞賛された川島には悪いが、本大会での最大のミスは、川島を第1戦から先発させたことだった。
ポーランド戦で入れ替えるわけにはいかない、という事情は、普通の監督ならば分かるだろう。大会最初から替えておけば、その後もずっと川島以外を使い続けられていただろう。
(守備陣の後ろのパス交換で、川島の方が最終ラインとの連係には一日の長があり馴染み易い、ということかもしれないが、川島を先発から外す決断をパラグアイ戦時点で固めていれば、直前合宿で対応できただろう)


もしも、の仮定の話はないことは承知だが、川島が初戦から出ていなければ、セネガル戦で勝ち抜けが決まっていたかもしれない。いや、他のキーパーが出ても、もっと大きなミスをして、負けていたかもしれないという話も分かるし、タラレバはきりがないけれども、西野監督采配によって苦境に陥った可能性が高い。


理由は不明だが、1、2戦に川島を使ってしまったことで、替えるタイミングを逸してしまったわけで、その結果はご覧の通りである。韓国は若手を登用して、ドイツ戦で大活躍を見せたのと対照的だった。日本サッカーの未来を考える上では、川島を先発させるべきではなかった。


もう一つ、結果オーライならいいや、という意見の多い、ポーランド戦の采配である。決勝Tを考えて、疲労のたまった主力を休ませる為、という話は分からないではないが、あまりに無謀、無策だった。


ポーランド戦でのゲームプランが存在しないも同然だった。
先発メンバーの選び方やシステムは監督の考えがあるのだろうから、6人替えたなら、それは仕方がないだろう。一つの決断の結果だから。

ただ、第3戦は次に進む為の重要な試合であり、最悪でも「引き分け」を必要としていたことは分かり切っていたはずだ。

最低限の目標として引き分けなのだから、相手がボール奪取にこなければ、これまで批判を浴びながらも日本が再三やってきた「遅攻」サッカーをここで発揮すれば良かったのだ。
ここでやらずに、いつやるというのだ?


パスを回してボールを保持する限り、相手の強力な攻撃は回避できるのだから、無理して攻めるよりも、安全策を頭に入れて時間を使うべきだった。前からプレスに来るなら、相手を走らせることができるし、陣形を動かせてから攻めるとか、普通に考えられただろう。日本の選手に攻めさせるリスクを頭に入れてないベンチだった、ということである。

幸運にも前半がゼロで折り返しだったのだから、点を取りにいくことを重視するよりも、いかに厳しい攻めを受けないようにするか、守備戦術を徹底させておくべきだった。

しかも攻撃陣を休ませる為に大幅に入れ替えたというのに投入した交替が、大迫と乾という、支離滅裂な選択は、先発入れ替え以上に解せないものだった。

1、2戦の出場時間から見て、大迫ではなくプレー時間の短い本田を入れることだってできた。最終予選でも、大迫がいない時に本田を1トップに入れて豪州に引き分けだったし、本田は右サイドに降りることもトップ下でもできるから、大迫を休ませて本田が第一選択でも良かったのでは?


ポーランドに先制点を奪われて、同点に追い付けないと敗退という場面でさえ、FWの宇佐美を削って乾を投入というのも、普通なら考え難い采配だった。乾は貴重な戦力だと考えていたからこそ休ませておいたはずなのに、しかもイエローカードを1枚もらっていたので2枚目はどうしても避けたい(決勝T1回戦が出られなくなる)ので、起用は原則的に考慮外のはず。


ここでも、右の酒井高徳に替えて本田なり誰か攻撃的選手を投入するのが普通ではないか。なのに、攻撃陣の枚数を増やさない上に、攻撃面で機能してなかった守備的要員の酒井高徳を残し、最も休ませたい乾を使うという選択はどういう根拠で行われたのかが全く理解できない。


岡崎交替の時、大迫ではなく本田を入れるのは、前線でのボール保持時間の長さや粘りを期待するわけで、上がりの遅い宇佐美や酒井高徳のプレー速度に合わせる点でも、最初に考慮されてよい選択肢だったろう。


長くボールを保持する、プレー速度を落とす、パスを回す時間を長くする、といったことは、守備戦術の一つなので、相手にさえ渡さなければ攻撃を受けないわけで、攻撃力の差が大きい相手に対してであっても、ある程度は通用する戦術である。ゲーム終わりに、あんな無様な姿でボールを回させるくらいなら、後半の組み立て時点で、引き分けを意識しながら、リスクを抑制する戦い方を指示するべきだった。前に行く人数が増えれば、反撃がきつくなることは誰でも分かるので、その修正もできないベンチが敗北を招いたに等しい。


西野監督は「1点差負け確定」と、

・セネガルが1点取る(低)
・日本がもっと失点・ファウルする(高)
・日本が1点取る(絶望的)

のリスクを判断した、と言ったわけだが、そんな所でようやくリスク判断を云々するなら、何故試合の最初から考えなかったのかが、全く理解できない。

よりによって、監督自らが自分のチームに対し「点を取り返すよりも、もっと失点して負けそうだ、イエローカードも増えそうだ」と敗者の烙印を押したんだぞ。だったら、最初から、無謀な策を採用して選手にやらせるんじゃない。失点した後の約23分は、攻撃もしていたし、ポーランドへの守備でも凌いでいた。けれども、西野監督の考えによれば、残りの約15分で「日本は失点してしまう」と思っていた、ということだ。たとえ点が入らずとも、0-1負けの結果は同じで、選手たちには戦った証が手に入れられたはずだろう。こんなに後味の悪い思いをすることもなかった。


起用された選手たちは、危ないながらも何とか前半は失点せず、監督の期待に応えたんだ。懸命に頑張って「試合を作って」いたんだ。

なのに、どうして監督采配でチームを敗北に追い込むのだ?


そもそも「日本が1点も取れず、失点する可能性が高い」と思うなら、何故、あのような陣形・メンバーを選んだのか、何故あのような交替カードを使ったのか、何故攻撃を催促し守備戦術の徹底をしていなかったのか、不明なことだらけであった。


別に、ヤマ勘とか勘ピューターとか否定しないけど、日本サッカー界の指導レベルが高まらないと、日本は強くはならない。今回の日本サッカー協会や西野体制を見ていて、今後更に後進国化するという危惧を抱いた。西野続投の声、の報道とか意味不明だが、もし続投しても選手個人の能力に優れた人に依存するサッカーで、時間の蓄積効果は乏しく、次のW杯でも2カ月前に就任した監督にやらせたとしても大差ないだろう。


4)日本が1次リーグで勝ち点4を取れた理由

メンタル面の改善、これに尽きる。昨年から連敗続きで迷走が続いていたし、直前のガーナ、スイス戦でも先が見えないまま、コロンビア戦まであと10日となった。パラグアイ戦に逆転勝ちしたことで、一気に勢いと自信を取り戻した。

本大会では運と勢いは大事だ。甲子園の初出場校が破竹の勢いで勝ち上がるのに似ている。前回惨敗を食らったコロンビア戦に勝利して、自信は確信へと変わっていった(イチロー風)。
全くの麻雀素人が、東1局の親で、リーチ一発ツモ裏ドラ3の親パネをアガったようなものだ。特に役もない「リーチのみ」の手だったのが18000点の大ラッキーに早変わりしたようなものだ。

けど、サッカーにはそうした勝負運のようなもので左右されることはあるし、短期決戦だと勢いはものを言うから。

実際、パラグアイ戦以降、逆転勝ち、因縁の強敵コロンビアに勝利、ミスで先制奪われるも2度追い付き負けなかったセネガル戦、と不敗神話が続いていたわけだ。

「今の俺達は負けない」という自信に溢れていれば、自ずとプレーもそのように好転するだろう。しかし、その自信と果敢さに水を差したのが、ポーランド戦だった。選手たちを躓かせたのは、西野采配だったのだよ。


特に、負けてるのに敗北を受け入れさせた監督采配が、ツキを手放す大悪手だった。
もしも普通にプレーして0-1のままで終わり、同じく勝ち点4のまま通過できていれば、選手たちは困難な状況に立ち向かい、自分たちの手でこれを掴み取ったんだという、敗北の中にも自信につながるものが残ったことだろう。少なくとも、誇りと名誉は守られた。同じ勝ち点4であっても、その重みも選手たちの達成感も違ったものだったはずだ。負けはしたが、勇敢に挑んだ結果だと思えただろう。


ポーランド戦前半までは、まだ運と自信は残していた。ヒヤヒヤながらも、先発したメンバーは持ちこたえた。だが、ポーランドは遂に実力を発揮し、均衡を破った。これまでの結果は、勇気を持って逆境に立ち向かうことで達成してきたが、ここで最も消極的な下策を採用してしまい、戦いから降りることを選んだ。


土壇場になって、1点を奪われることを恐れてブーイングの中ボール回しをするくらいなら、試合開始前から「1点を奪われることを恐れて」おくべきだろう。報道の中には、現実的とか冷徹な判断などと西野監督を賛美している向きもあるが、現実的な判断をする人間は、着手する前に「考えておく」んだよ。

本当に冷徹な判断をする人間なら、希望的観測でもって「ポーランドに勝てる」控え主体の先発を出したりはしない。1点も取れない場合を事前に想定して、選手を送り出す。それでも耐えられる方法を授けておくのが、監督の役割だ。

西野采配が分からない人間は、頭が悪いだの、合理的判断ができないだの、そういうことを言う人こそが、旧日本軍的「無謀な作戦命令」を全面肯定しているに等しいのだよ。局地的判断の是非にしか思考が向かず、戦略目標の判断ができていないから、だ。


引き分け試合は、「今ある戦線を維持せよ」であり、現状維持だ。少なくとも「最悪のシナリオは撤退戦」なので、それだけは回避するような作戦を立てるのが普通。

相手陣地に突撃して相手陣地を奪え(点を取れ)、というのは、かなり強力な作戦であり、自軍の損害が甚大になる恐れはある。自軍の戦力状況がそこまで整ってないと思えば、安易に持ち場を離れるな、自軍の守備陣地を守り抜け、というのが普通の作戦命令だ。

無理気味な攻撃に打って出て、返り討ちに遭い、逆に戦線維持ができなくなって陣地を一つ放棄して逃げ帰ったのがポーランド戦だ。その上、自ら白旗を掲げさせろって、だったら最初から勇ましく攻撃命令なんぞ出すんじゃない。無駄に損害を大きくしたんだ。


実力の裏付けが少ない、勢いと自信は、萎むのも早い。
あっという間に元に戻ってしまう。



前回大会から、少し成長したが、まだ選手頼み、ということなのが日本サッカー界の限界かもしれない。指導層には、能力が不足していると思う。

>https://blog.goo.ne.jp/critic11110/e/5be5fea4cf35844c644be16c9f798a5f


試合中に、陣形を整えさせたり、適宜修正させる能力を高める必要がある。それは、監督コーチ陣の主な仕事だ。


そして、日本のサッカー界上層部には、サッカーというスポーツの本質について、何らの考えも哲学も有していないのだな、ということは分かった。例えば「予選通過という結果が全て」のような意見は、心の底では思っていたとしても、決して口が裂けても言えないだろう。今回のボール回しの一件は、W杯への冒涜にも等しいものだった。同点ならまだしも、これを恥とも思わぬ、その精神性こそが、日本サッカー界のレベルの低さを表しているだろう。一番の被害者は、選手たちなんだぞ。


時に、勝敗を超えた、プロセスにこそ大事な価値がある、ということは、サッカーに限らずスポーツの本質部分ではないかと、個人的には考えている。例えば「ドーハの悲劇」だって、あの当時にW杯に出ていたら、ラモスやゴンのことなど四半世紀後に思い出すことなど殆どないだろう。けれども、あの時の悔しさがあったからこそ、これほどの時間が経過しているにも関わらず、多くのファンが「心に刻まれた」出来事として忘れることがない、ということだ。

仮に初出場できて、3戦全敗とかで終わっていたなら、カズさんが出てようと松永がどうとか、殆どが人々の記憶に残ることはなかったかもしれない。語り継がれることに価値がある勝負だってあるんだ。たとえそれが、儚く散った場合であろうとも、だ。勇敢に立ち向かった者たちのことは、たとえ結果が敗北であろうと、そう簡単に忘れたりはしない。


サッカー協会、テレビ界の事情、とか、何があるか分からないが、諸手を挙げて西野肯定論で誤魔化すしかないというのも、サッカーそのものより、もっと別に大事なものがあるとしか思えない。それじゃ、強くなれない。