生産性なんてものは、うまく計れていないことは多々あると思う。
ある手術があって、ドクターAは8時間で2例手術できる。別なドクターBは同じ8時間で3例手術できる。どちらが生産性が高いかと言えばドクターBであるが、給料は大きな違いなどないということはある。
また、アメリカみたいに「金を持っていて、儲かる患者」だけ相手にしていれば、「産み逃げ」だの「治療費踏み倒し」だのはない。生産性を高める、というのは、例えば「1泊10万のICU」ということですから。今はビジネスホテル以下の収入しか得られないので、いつまで経っても生産性が上がらないというわけです。
日本は、仕事の質が高くても「請求額を多くするのが躊躇われる」ということが多々あるわけです。外国人との交渉などにおいても、そういう部分をまんまと衝かれているわけなんですよ。
また例で申し訳ないが。
今、ある石の価格について交渉をする。石を販売する側の販売者と、石を購入する購入者がいるわけだ。販売者が甲、購入者が乙として、これが日本人と外国人が異なる立場の時を考えてみよう。
・甲が日本人、乙が外国人の場合
甲 「いい石ですから、どうか買ってもらえませんでしょうか」
乙 「フン、そんな石ころなんぞ、どこでも買える。値札の2万なら無理だね、もっと安いなら考えるけど」
甲 「買ってもらえないと、あっしのおまんまが食べられなくなるので、勉強させてもらいます…」
乙 「当たり前だ、こっちが買ってやる、って言ってるんだ、安くするのは当然だろ」
甲 「へい、それでは1万5千ではどうかと…」
乙 「何言ってんの?話にならねえ、帰るぜ」
甲 「待っておくんなまし、それでは1万ではいかがでしょうか…」
乙 「ホラホラ、まだ安くできるんじゃないの。どうせそんなことだろうと思ってたぜ。5千でどうだ?」
甲 「そんな値段では、赤字で倒産してしまいます…もうちょっと上げてもらえませんかね」
乙 「しょうがねえな、じゃあ6千だな」
甲 「はああ…7千くらいにはなりませんか?」
乙 「ダメだね、6千。ここからはビタ一文まけられない。それがダメなら買わないぜ」
甲 「なら、6千でもいいです…」
乙 「だろ?、はじめっから6千ていやあいいものを…無駄に抵抗しやがって。買ってもらえるだけいいだろ」
甲 「……(そんな値段では食べていくのがやっとなんだけどなあ)」
・甲が外国人、乙が日本人の場合
甲 「いい石だから5万は堅いぜ、5万でどうだ?」
乙 「ええっ?ちょ、ちょっと高すぎやしませんかね…」
甲 「おたく、何言ってんの?イヤなら売らないぜ、もっと他から声がかかってるんだ」
乙 「原料の石が手に入らないと、ウチも商売できないので困るんですよ」
甲 「だったら、さっさと金出しな。この前中国の何とかって人も来ていったなあ、そういえば」
乙 「ウチには売ってもらえないと?」
甲 「いや、そうは言ってないが、金を出すなら売ってやってもいいぜ、と言ってるのさ」
乙 「そうですか…それでは2万5千では…?」
甲 「なめてんの?5万の半分じゃないか」
乙 「でも、大体相場では2万くらいかな、と」
甲 「話にならん、もう売ってやらんからそのつもりで」
乙 「そんなつもりでは…じゃあ3万ではどうでしょうか」
甲 「はい、ダメね。中国人の方に話を持っていきますから、もういいです、さようなら」
乙 「ちょ、ちょっと待って下さい、…それでは3万5千では?」
甲 「はじめっから素直に出せばいいんだよ、4万以下にはできないね」
乙 「そ、それは高すぎでは…相場の倍ですよ?」
甲 「何いってんの、買い手なら大勢いるんだ、あんたに売らなくたって困りはしないからね」
乙 「判りました、それでは3万7千でどうでしょうか?」
甲 「無理無理、どんなにまけてもあと千だけだ」
乙 「間をとって、3万8千では…?」
甲 「しょうがねえな、そんなに言うなら売ってやってもいいぜ、3万8千で決まりだ」
乙 「(高すぎだと思うんだけどなあ)……あ、有難うございます…」
これくらい違いがある、ということなのではないかと推測しています。交渉力の差が出てしまうんじゃないかな、と。
要するに、海外との価格交渉においては不利な立場に追い込まれやすいのではないかな、と。原材料にしても、「いやなら売ってやんないぜ」ということで、「日本が海外勢に買い負けている!」みたいに超大袈裟に騒いでいたが、そんなに高値で買わねばならないほど需給が逼迫していたんでしょうか、ってなことですね。
日本の業者同士だったりすると、発注側とか買い手側が交渉力の優位を持っていることが多いのではないでしょうか。実際どうなのかは全く知らないんですが。大企業とか大口の取引相手の場合だと、優位にあることが殆どでは。家電製造メーカーは大口販売店には安く納入してしまう、みたいなことですね。
入札なんかでも、談合が起こってしまうというのは、赤字になってまで受注しようという人たちが出てしまうことが問題で、普通の海外の会社とかであれば「そんな値段じゃ引き受けないぜ」という割り切りができているように思うんですけどね。どうなんでしょうか。
でも、日本企業が大口の購入する立場であっても、売り手側が海外企業だったりすると、「イヤなら売らない、手に入らないと困るんだろう?」というような売り惜しみみたいな目に遭わされてしまって、割とサクサク値上げされてしまっていたりするんだよね。海外企業の場合に、日本企業ほどに「経費をギリギリまで切り詰めました、雑巾を絞るように限界まで絞りました」、ってなことにはあんまりなっていなさそう。単純に「経費がこんだけかかるから、値上げですっ!だって、値上げしないと儲からないから」みたいなもんですわな。
何でもそうですけど、日本企業同士で競合するのではなくて、どちらかといえば海外メーカーと競合した方がいいと思うね。日本企業同士になってしまうと、まさに削り合いのギリギリ勝負に突入しがちかな、とか思うので。
スイスは昔から金になる産業といったものはあまりなくて、フランスやイタリアなんかの方が金持ちだった。けれども、資源とかがあまりなくてもできる金融業とか、時計産業が発達した。で、伝統的に「高級腕時計」というのがあると思うけれど、あれも1個300万円とか、1千万円とか、非常に高額である理由が実際のところ「よく判らない」のではないでしょうか。ペルシャ絨毯というのも高価なものがあって、一枚が1000万円とかするらしいのですよ。
どちらもオール人力というか(器具・器械類は使うんだけどさ)、ハンドメイドだからこそ価値を認められており、「高価である」ということになっているわけです。精密な部品を一個一個作り上げるということこそ、高級腕時計であることの証なのですよね。これがもし、工業製品として作られていると、時刻がどれほど正確であろうとも、ハンドメイドの価格には遠く及ばないわけなんですよ。はっきり言えば、時刻の正確性なんて、高級腕時計の方が負けるに決まっているんです。電波受信して自動修正する腕時計の方が断然狂いがない。けれども、そういう価値ではないわけです。高級腕時計というのは、ブランド価値、みたいな曖昧なものにこそ、高額な価値を生み出す要素があって、稀少で価値が高いと信じられているからこそ、高額なんです。これはペルシャ絨毯も同じ。数千万円の高級車もそうかな。
だから、日本の伝統工芸品はもっと高級路線であったとしても不思議でも何でもない。焼き物が数百万円することだってあるわけですから、ああいうのと同じです。湯呑み茶碗1個がどうして数十万円もするのかなんて判らないけれども、ネームバリューとか何とかで価値がつくわけです。着物の生地とかもそう。西陣織とかのブランド価値を高めることができればいいんです。和紙でも、漆塗りでもいい。外国人からは「物作りの伝統かよw」と笑われたりしますけれども、スイスの高級腕時計と同じで価値が高まるようにすることが大事なんです。
ヘアカットやメイクアップとかの価格が高くなるとか、ネイルアートの価格が高いとか、そういうのも付加価値が高まるということになるので、生産性は高められるわけですよ。1人カットするのに1時間だったものを、50分にするとか40分にするといったことが「生産性向上」ということでしょう。ネイル何とかだの、美容なんとかだの、そういうのも同じ。熟練者を育てることは生産性向上に繋がるのですよ。
だから、「ありがたみ」を高めることは重要なんです。レストランのミシュランガイドみたいなものと一緒です。権威付けが重要。圧倒的多くの人々に、「スイスの高級腕時計は、とても価値がある」「ペルシャ絨毯は高価なんだ」ということが定着していればいいわけです。ピカソの絵が非常に高額だ、というのとも同じようなものなのです。そういう価値創造は、プロモートの効果というのも重要なのですよ。
それと、労働生産性の伸び率とかは、製造業が必ずしも有利ということではないでしょう。
第2節 労働生産性の現状
今後、製造業は後発国との競争にさらされるでしょうから、サービス業なんかとは若干異なる立場に置かれるでしょう。
非製造業は生産性が低いんだ、だからダメなんだ、みたいに考えているのは、経済センスがないのではないでしょうか。「製造業の生産性が高い」信奉というのは、言うなれば「モノつくり大国」の崇拝者と変わらんよ。アメリカだと、例えば職場の検診みたいなもので、「精神科医のカウンセリングを必須とする」みたいな、日本人だと「大きなお世話」っぽいことが普通に行われてしまうからね。そういう人間に対して直接サービスを提供する分野こそ、大した設備も投資もせずともバンバン稼げるということになっているわけで。
コンビニとかを24時間営業とかにしているからダメなんであって、8時には閉めればいい。労働投入を減らせるよ。多くの人々は不満に思うかもしれんけど。不便にする方が全般的には生産性が向上するでしょうね。労働投入を減らせばいいから。で、便利さを支える為の部分で、効率が低下するので生産性が引き下げられてしまうでしょうね。コンビニまでの距離が数キロとか数十キロ離れて設置されていると、その分生産性が改善されると思うよ(笑)。失業させてあげると、その分労働投入が減らせるし。
だから、日本は利用者とか消費者にとっては、便利が良すぎなんですよ、多分。そういうのをかなりやめると、生産性は向上できるでしょうね。消費者側からの不満は高まるかもしれんけど。便利さの対価をきっちりと請求するようにするだけで、付加価値額は高まるでしょう、多分。そういう国内での競争に国民が馴れすぎていて、背中のどこか痒いところを「金は払わないけど、掻いてほしい」みたいなもんですわ。わざわざ自分で掻かなくても、掻いてもらえることに馴れてしまっているんですよ、日本人は(多分ですど)。
そこそこ便利な体制を作っていくなら労働投入は避けられないし、効率が落ちるとしても、止むを得ない面はあるでしょう。需要を生み出していくことの方が有利ではないかと思います。
ある手術があって、ドクターAは8時間で2例手術できる。別なドクターBは同じ8時間で3例手術できる。どちらが生産性が高いかと言えばドクターBであるが、給料は大きな違いなどないということはある。
また、アメリカみたいに「金を持っていて、儲かる患者」だけ相手にしていれば、「産み逃げ」だの「治療費踏み倒し」だのはない。生産性を高める、というのは、例えば「1泊10万のICU」ということですから。今はビジネスホテル以下の収入しか得られないので、いつまで経っても生産性が上がらないというわけです。
日本は、仕事の質が高くても「請求額を多くするのが躊躇われる」ということが多々あるわけです。外国人との交渉などにおいても、そういう部分をまんまと衝かれているわけなんですよ。
また例で申し訳ないが。
今、ある石の価格について交渉をする。石を販売する側の販売者と、石を購入する購入者がいるわけだ。販売者が甲、購入者が乙として、これが日本人と外国人が異なる立場の時を考えてみよう。
・甲が日本人、乙が外国人の場合
甲 「いい石ですから、どうか買ってもらえませんでしょうか」
乙 「フン、そんな石ころなんぞ、どこでも買える。値札の2万なら無理だね、もっと安いなら考えるけど」
甲 「買ってもらえないと、あっしのおまんまが食べられなくなるので、勉強させてもらいます…」
乙 「当たり前だ、こっちが買ってやる、って言ってるんだ、安くするのは当然だろ」
甲 「へい、それでは1万5千ではどうかと…」
乙 「何言ってんの?話にならねえ、帰るぜ」
甲 「待っておくんなまし、それでは1万ではいかがでしょうか…」
乙 「ホラホラ、まだ安くできるんじゃないの。どうせそんなことだろうと思ってたぜ。5千でどうだ?」
甲 「そんな値段では、赤字で倒産してしまいます…もうちょっと上げてもらえませんかね」
乙 「しょうがねえな、じゃあ6千だな」
甲 「はああ…7千くらいにはなりませんか?」
乙 「ダメだね、6千。ここからはビタ一文まけられない。それがダメなら買わないぜ」
甲 「なら、6千でもいいです…」
乙 「だろ?、はじめっから6千ていやあいいものを…無駄に抵抗しやがって。買ってもらえるだけいいだろ」
甲 「……(そんな値段では食べていくのがやっとなんだけどなあ)」
・甲が外国人、乙が日本人の場合
甲 「いい石だから5万は堅いぜ、5万でどうだ?」
乙 「ええっ?ちょ、ちょっと高すぎやしませんかね…」
甲 「おたく、何言ってんの?イヤなら売らないぜ、もっと他から声がかかってるんだ」
乙 「原料の石が手に入らないと、ウチも商売できないので困るんですよ」
甲 「だったら、さっさと金出しな。この前中国の何とかって人も来ていったなあ、そういえば」
乙 「ウチには売ってもらえないと?」
甲 「いや、そうは言ってないが、金を出すなら売ってやってもいいぜ、と言ってるのさ」
乙 「そうですか…それでは2万5千では…?」
甲 「なめてんの?5万の半分じゃないか」
乙 「でも、大体相場では2万くらいかな、と」
甲 「話にならん、もう売ってやらんからそのつもりで」
乙 「そんなつもりでは…じゃあ3万ではどうでしょうか」
甲 「はい、ダメね。中国人の方に話を持っていきますから、もういいです、さようなら」
乙 「ちょ、ちょっと待って下さい、…それでは3万5千では?」
甲 「はじめっから素直に出せばいいんだよ、4万以下にはできないね」
乙 「そ、それは高すぎでは…相場の倍ですよ?」
甲 「何いってんの、買い手なら大勢いるんだ、あんたに売らなくたって困りはしないからね」
乙 「判りました、それでは3万7千でどうでしょうか?」
甲 「無理無理、どんなにまけてもあと千だけだ」
乙 「間をとって、3万8千では…?」
甲 「しょうがねえな、そんなに言うなら売ってやってもいいぜ、3万8千で決まりだ」
乙 「(高すぎだと思うんだけどなあ)……あ、有難うございます…」
これくらい違いがある、ということなのではないかと推測しています。交渉力の差が出てしまうんじゃないかな、と。
要するに、海外との価格交渉においては不利な立場に追い込まれやすいのではないかな、と。原材料にしても、「いやなら売ってやんないぜ」ということで、「日本が海外勢に買い負けている!」みたいに超大袈裟に騒いでいたが、そんなに高値で買わねばならないほど需給が逼迫していたんでしょうか、ってなことですね。
日本の業者同士だったりすると、発注側とか買い手側が交渉力の優位を持っていることが多いのではないでしょうか。実際どうなのかは全く知らないんですが。大企業とか大口の取引相手の場合だと、優位にあることが殆どでは。家電製造メーカーは大口販売店には安く納入してしまう、みたいなことですね。
入札なんかでも、談合が起こってしまうというのは、赤字になってまで受注しようという人たちが出てしまうことが問題で、普通の海外の会社とかであれば「そんな値段じゃ引き受けないぜ」という割り切りができているように思うんですけどね。どうなんでしょうか。
でも、日本企業が大口の購入する立場であっても、売り手側が海外企業だったりすると、「イヤなら売らない、手に入らないと困るんだろう?」というような売り惜しみみたいな目に遭わされてしまって、割とサクサク値上げされてしまっていたりするんだよね。海外企業の場合に、日本企業ほどに「経費をギリギリまで切り詰めました、雑巾を絞るように限界まで絞りました」、ってなことにはあんまりなっていなさそう。単純に「経費がこんだけかかるから、値上げですっ!だって、値上げしないと儲からないから」みたいなもんですわな。
何でもそうですけど、日本企業同士で競合するのではなくて、どちらかといえば海外メーカーと競合した方がいいと思うね。日本企業同士になってしまうと、まさに削り合いのギリギリ勝負に突入しがちかな、とか思うので。
スイスは昔から金になる産業といったものはあまりなくて、フランスやイタリアなんかの方が金持ちだった。けれども、資源とかがあまりなくてもできる金融業とか、時計産業が発達した。で、伝統的に「高級腕時計」というのがあると思うけれど、あれも1個300万円とか、1千万円とか、非常に高額である理由が実際のところ「よく判らない」のではないでしょうか。ペルシャ絨毯というのも高価なものがあって、一枚が1000万円とかするらしいのですよ。
どちらもオール人力というか(器具・器械類は使うんだけどさ)、ハンドメイドだからこそ価値を認められており、「高価である」ということになっているわけです。精密な部品を一個一個作り上げるということこそ、高級腕時計であることの証なのですよね。これがもし、工業製品として作られていると、時刻がどれほど正確であろうとも、ハンドメイドの価格には遠く及ばないわけなんですよ。はっきり言えば、時刻の正確性なんて、高級腕時計の方が負けるに決まっているんです。電波受信して自動修正する腕時計の方が断然狂いがない。けれども、そういう価値ではないわけです。高級腕時計というのは、ブランド価値、みたいな曖昧なものにこそ、高額な価値を生み出す要素があって、稀少で価値が高いと信じられているからこそ、高額なんです。これはペルシャ絨毯も同じ。数千万円の高級車もそうかな。
だから、日本の伝統工芸品はもっと高級路線であったとしても不思議でも何でもない。焼き物が数百万円することだってあるわけですから、ああいうのと同じです。湯呑み茶碗1個がどうして数十万円もするのかなんて判らないけれども、ネームバリューとか何とかで価値がつくわけです。着物の生地とかもそう。西陣織とかのブランド価値を高めることができればいいんです。和紙でも、漆塗りでもいい。外国人からは「物作りの伝統かよw」と笑われたりしますけれども、スイスの高級腕時計と同じで価値が高まるようにすることが大事なんです。
ヘアカットやメイクアップとかの価格が高くなるとか、ネイルアートの価格が高いとか、そういうのも付加価値が高まるということになるので、生産性は高められるわけですよ。1人カットするのに1時間だったものを、50分にするとか40分にするといったことが「生産性向上」ということでしょう。ネイル何とかだの、美容なんとかだの、そういうのも同じ。熟練者を育てることは生産性向上に繋がるのですよ。
だから、「ありがたみ」を高めることは重要なんです。レストランのミシュランガイドみたいなものと一緒です。権威付けが重要。圧倒的多くの人々に、「スイスの高級腕時計は、とても価値がある」「ペルシャ絨毯は高価なんだ」ということが定着していればいいわけです。ピカソの絵が非常に高額だ、というのとも同じようなものなのです。そういう価値創造は、プロモートの効果というのも重要なのですよ。
それと、労働生産性の伸び率とかは、製造業が必ずしも有利ということではないでしょう。
第2節 労働生産性の現状
今後、製造業は後発国との競争にさらされるでしょうから、サービス業なんかとは若干異なる立場に置かれるでしょう。
非製造業は生産性が低いんだ、だからダメなんだ、みたいに考えているのは、経済センスがないのではないでしょうか。「製造業の生産性が高い」信奉というのは、言うなれば「モノつくり大国」の崇拝者と変わらんよ。アメリカだと、例えば職場の検診みたいなもので、「精神科医のカウンセリングを必須とする」みたいな、日本人だと「大きなお世話」っぽいことが普通に行われてしまうからね。そういう人間に対して直接サービスを提供する分野こそ、大した設備も投資もせずともバンバン稼げるということになっているわけで。
コンビニとかを24時間営業とかにしているからダメなんであって、8時には閉めればいい。労働投入を減らせるよ。多くの人々は不満に思うかもしれんけど。不便にする方が全般的には生産性が向上するでしょうね。労働投入を減らせばいいから。で、便利さを支える為の部分で、効率が低下するので生産性が引き下げられてしまうでしょうね。コンビニまでの距離が数キロとか数十キロ離れて設置されていると、その分生産性が改善されると思うよ(笑)。失業させてあげると、その分労働投入が減らせるし。
だから、日本は利用者とか消費者にとっては、便利が良すぎなんですよ、多分。そういうのをかなりやめると、生産性は向上できるでしょうね。消費者側からの不満は高まるかもしれんけど。便利さの対価をきっちりと請求するようにするだけで、付加価値額は高まるでしょう、多分。そういう国内での競争に国民が馴れすぎていて、背中のどこか痒いところを「金は払わないけど、掻いてほしい」みたいなもんですわ。わざわざ自分で掻かなくても、掻いてもらえることに馴れてしまっているんですよ、日本人は(多分ですど)。
そこそこ便利な体制を作っていくなら労働投入は避けられないし、効率が落ちるとしても、止むを得ない面はあるでしょう。需要を生み出していくことの方が有利ではないかと思います。