コメント(コメント)で情報を頂きましたので、今回は産経新聞の正論に掲載された記事から取り上げたいと思います。
【正論】慶応大学教授・小林節 新貸金業法は憲法違反ではないか|正論|論説|Sankei WEB
タイトルにほぼ全ての要素が詰まっていると思います。中々良い見出し、ということでしょうね(笑)。
中身を読むと、これまでに書いてきた論点が多いのですが、新たな意見が出されていますのでそれを考えてみたいと思います。一応、書かれている内容には、およそ畑違いの「一般論」みたいなものを並べており、単なる個人的感想文を綴ることを否定するわけではありませんけれども、小林教授の意図するところが判りません。ご自身のよく知らない部分については触れない方が、言論の質を落とさずに済むのではないかと思います。それが学者としての評価を下げることを防ぐ方法でありましょう。
憲法学者という肩書きをもって、タイトルにもそのように附しているわけですから、「憲法違反の可能性が高いのではないか」ということを法学的な立場から詳しく述べれば良かったのではなかろうかと思われます。なぜ、その記述を避けたのか、甚だ疑問ではあります。自分の専門領域なのであるから、率直に「昨年成立に至った立法は違憲であると思われる」くらいは踏み込んで論述することこそ、憲法学者というものなのではないかと思います。
違憲である旨の記述は、記事の一部にほんの僅かな記述部分がありました。
『この問題は、他面で既存の多くのまじめな小さな貸金業者から仕事を奪うことで、彼らの営業の自由(憲法22条)、財産権(29条)、極端な場合には生存権(25条)までを脅かす人権問題である。そういう意味では、今回の立法の違憲性が問われてしかるべきであろう。』
と述べておられます。威勢のいい見出しとは趣きを異にしていると思われ、最後の方のこの部分だけがタイトルに合致している、というわけです。期待はずれは否めません。しかも、ふと目をやれば「違憲性が問われてしかるべき」ということであって、何処にも「違憲性が強く疑われる」とか、自分の評価としては「違憲である可能性が高い」とか、そういった憲法学者の意見というものが見当たらないわけです。
素人ゆえの個人的疑問を一応申し述べますと、「問われてしかるべき」というのは誰に問うのでありましょうか。通常であれば、最高裁に問え、ということが結論的に出るのでありましょうが、いやしくも憲法学者との肩書きをお持ちであるのですから、「問われる」立場にあるのはご自身なのではなかろうか、とは思う訳です。法学の世界について”も”全くの無知ですので、憲法学者とは「違憲性」ということへの評価を行ったりはしないものなのである、といった、業界の常識みたいなものがひょっとすると存在しているのかもしれませんが、まずは憲法学者である自分自身に問うてみてはいかがか、と思わずにはいられません。
憲法学者の出された「違憲性が問われてしかるべき」というご意見に対して、私のようなド素人が答えられるはずもありませんが、できるだけ考えてみたいと思います。小林教授は、①営業の自由(22条違反)、②財産権(29条違反)、③生存権(25条)を脅かす人権問題、と挙げておられますので、これを判る範囲で順に見ていきたいと思います。法学的な知識がない故に、用語とか用い方とかが間違っているかもしれませんが、ご容赦下さい。
①営業の自由(22条違反)が侵害されるか
世の中には様々な職種があるわけですが、届出制、許認可制、免許制といった明確な制限が設けられていることは珍しくありません。これらの法的制限というのは、全てが憲法違反ということはないと思われます。もしもそうであるなら、過去の裁判例で判示されていても何ら不思議ではないからです。ところが、こういった行政側の設けた一定の制限というものが広範囲に渡って現在もなお用いられているということになれば、そこには何らかの法学的理由があるものと考えられます。それが何なのか、ということになりましょう。
恐らく、万人の「営業の自由」を守ること以上に、それら営業施設・サービス等を利用するその他大勢の一般利用者たちの利益を考慮しているものと思われ、一部の人々の利益を優先することが必ずしも法的に認められるべきものとは言えない、ということです。一般社会においては、個人に認められる自由とは完全な制限を受けないものとして考えられているものではなく、社会利益(公共の福祉?)が優先されるべき事情があれば、一定の制限を受くるのは止むを得ない、ということではないかと思います。万人に営業の自由を認め、それが何らの制限を受けない場合に、利用する大多数の人々の利益が侵害されるとなれば、いずれを優先するべきか、という問題なのであろうと思います。
例えば、何らの制限を設けることなく万人にフグ料理人としての「営業の自由」を完全に認めてしまえば、これを利用する国民の中にはフグ毒で容易に死亡する事態を生じる虞があり、著しい侵害を生じることが考えられます。これを「営業の自由」の一部を制限して免許制とすることにより、大多数の利用者の権利侵害を防げるのであれば、そのような制限を行政が設けることは認められる、ということです。
新貸金業法(と呼ぶのが正しいのかどうか知りませんが、記事中ではそのように呼ばれていますので、この名称を用いることにします)における制限のうち、上限金利規制や貸出総額(収入の3分の1)規制の要件が該当しているとは考えていないでしょうから、恐らく5千万円の資産(資本金)規制のことを指しているものと思います。これまで合法的営業を行っていた業者で、貸出残高がこれ以下ということになれば、年間売上高は1000万円以下ということになり、現実の収入水準としては厳しいものであると予想されます。合法的営業が可能な売上高水準を想定しますと、5千万円規制が著しく不合理であるとも言えないでありましょう。このような基準を設けることは行政に認められていると考えるべきで、貸金業を営むに当たっての要件として資産を一定以上保有していることは、利用者保護の為に必要と考えられましょう。例えば、最低資本金規制は他の業種でも定められており、証券取引法での証券会社は5千万円、信託業法では1億円となっています。これを違憲立法であるとする法学的理論を聞いたことはありませんが、貸金業だけに特別違憲とするという主張を小林教授は考えておられるかもしれませんので、是非ともそのご意見を拝聴したいと思います。
②財産権(29条違反)が侵害されるか
具体的な詳しい解説が全くない為に、何を想定されていたのか正確には判りかねますが、こちらで勝手に想像して書いていこうと思います。
財産権が持ち出されていることから、上限金利を引き下げられたりしなければ「売上として手にしていたであろう」部分(早い話が、金利収入というお金だね)があって、今回の改正によってそれが手に入らなくなった、違憲立法によって不当に奪い去られた、というようなことではないかと思います。
まず、前提としては、利息制限法という法律は生きているわけです。このような金利規制を行っている法律そのものが「違憲立法である」という主張であるならば、同様な上限規制のあるものについては全て違憲という判断となりましょうか。それは、「そのような上限さえなければ、自由に利息を手に入れられたであろうものが、法律の規制によって手に入れられなくなった」ということでしょうか。取引を間違いなく行っていく上で、一定に決まった利息水準を規定することが憲法違反であるとも思われません(民放や商法に規定が存在していますし)。よって、何らかの利息水準を規定することは、問題ないであろうと思います。では、何が問題となるのでしょうか。
出資法の上限規定とは、「処罰を受ける利息水準」が示されているのであって、例えば20~29.2%の間の利息について支払うことを予め契約によって定め、その契約の履行によって支払われた利息について、貸金業者の財産としての権利を認めているものとは解されないと思います。あくまで任意に支払った場合にのみ、利息制限法の上限超過部分の権利を得るものと思います。
では改正された利息制限法では、任意に支払った上限超過部分の権利主張ができなくなったことが違憲である、という解釈なのでしょうか。例えば売買において、5千円の支払義務のあるものについて、購入者が錯誤によって1万円を支払ってしまうと、「これは任意で支払ったのであるから、売主の財産である」という主張をするのと同じようなものであると思います。本来的には、超過部分については「お釣り」として返却を申し出て、購入者に返還するべきものでありましょう。それでもなお「任意で支払った」場合(釣りはいらないよ、というような場合)には、売主の財産としての権利となるものではないかと思います。これを初めから「返還することはしない」ということを前提として超過部分の財産権を認めることは、円滑な取引を妨げることになりこそすれ、大多数の利用者である一般消費者の保護とはなり得ないでありましょう。
任意で支払う部分については贈与的なものであって、支払側の明確な意思表示がなされていないにも関わらず、受取った側が返還の申し出をすることなくその財産権を主張し、そのような権利を優先的に保護することが有益であるとは到底認められないでありましょう。支払側が明確な贈与の意思表示をする以前から、超過部分についての財産権を受け取り側の権利として憲法が保障しているものとは解されない、ということです。
別な主張の可能性としては、5千万円の資産規定によって廃業することになれば、これまで得られていた利益を手に入れることが不可能になるということなのかもしれません。しかし、経過措置期間はあるのであるから、複数業者が協同で事業を営むなどの対策を取りうることはできます。存続事業者を決めて、他の貸金業者が廃業したとしても、収入や経費は実質的に変わることなく営業が可能でありましょう。単体では届かない基準であるとしても、他の業者と同一の事業を協同で営むことができるならば、5千万円の規定をクリアすることが不可能であるとは考えられません。それを選択するか否かは事業者の自由であり、事前に周知されている基準をクリアできないのであれば、事業を継続することは無理であるということが容易に判断できるのであるから、貸金業者がその対策を講じるべきでありましょう。
経過措置期間が置かれておらず、事業者が対策を講じることが極めて困難であるということでもあれば、事業継続が不可能になってしまうことへの補償ということを考慮すべき場合は有り得ます。しかし、どのような業種においても法改正や行政の判断が変化していくことによる制度改正はあるのであって、事業を継続する為にそれら変更に対応することが求められてきたのは言うまでもないでしょう。従って、仮に廃業することによって、これまで貸金事業から得られていた収入を失うことになったとしても、法改正が著しく不合理であり違憲立法であるとは言えないでありましょう。
③生存権(25条)が侵害されるか
これも主張する点が一体何なのか判り難いのですが、貸金業者が失業してしまうことによって生活が脅かされる、即ち生存権が侵害される、ということかと思いました。
通常の労働者や自営業者などが失業することで、全て生存権侵害となるかと言えばそうではないでありましょう。失業してしまった場合には、失業給付などの制度が設けられておりますが、自営業者は雇用保険に加入できないので失業給付を受けられない、ということなのかもしれません。仮にそうであったとしても、廃業や倒産などに関連する何らかの制度を利用するか、生活保護給付や失業時の貸付制度などはあるので、最低限度の生活を維持することが不可能な状況であるとは言えません。従って、法改正によりたとえ失業ということになったにせよ、違憲ということにはならないであろうと思われます。
以上のことから、
・営業の自由が侵害されるとは言えない
・財産権が侵害されるとは言えない
・生存権が損害されるとは言えない
と考えました。即ち、違憲立法とは考えられない、ということです。
憲法学者にこんなことを言うのは釈迦に説法ですけれども、最高裁判決では具体的事件を離れて違憲審査をする権限を有してはいないそうですから、実際に改正法が施行されて廃業・失業となった貸金業者が提訴してみない限り、裁判所判断を仰ぐことはできないでありましょう。
日本の憲法学者というのは、何かの検討を行ったりすることなく「憲法22条、25条、29条違反という違憲性が問われてしかるべき」というような、安易な意見を新聞に書いたりするものなのでありましょうか。できれば、憲法学者の見解というものについて、曖昧な表現などではなく、憲法学的な表現でお聞きしたいものです。法学上の解釈の相違というものが存在することは受け入れるとしても、憲法学者がただの一つの解釈すら言明しない違憲性というものは、一体どれ程の信憑性があるものなのでありましょうか。どのような裁判においても「憲法違反である」旨主張することは可能なのであり(時々原告側主張で見かけるように思います)、それが認定されるか否かは別として、ありがちな主張の一つとして並べてみた、という域を出ないものではないかと思います。これが日本の憲法学者の標準的レベルということなのでしょうか。
【正論】慶応大学教授・小林節 新貸金業法は憲法違反ではないか|正論|論説|Sankei WEB
タイトルにほぼ全ての要素が詰まっていると思います。中々良い見出し、ということでしょうね(笑)。
中身を読むと、これまでに書いてきた論点が多いのですが、新たな意見が出されていますのでそれを考えてみたいと思います。一応、書かれている内容には、およそ畑違いの「一般論」みたいなものを並べており、単なる個人的感想文を綴ることを否定するわけではありませんけれども、小林教授の意図するところが判りません。ご自身のよく知らない部分については触れない方が、言論の質を落とさずに済むのではないかと思います。それが学者としての評価を下げることを防ぐ方法でありましょう。
憲法学者という肩書きをもって、タイトルにもそのように附しているわけですから、「憲法違反の可能性が高いのではないか」ということを法学的な立場から詳しく述べれば良かったのではなかろうかと思われます。なぜ、その記述を避けたのか、甚だ疑問ではあります。自分の専門領域なのであるから、率直に「昨年成立に至った立法は違憲であると思われる」くらいは踏み込んで論述することこそ、憲法学者というものなのではないかと思います。
違憲である旨の記述は、記事の一部にほんの僅かな記述部分がありました。
『この問題は、他面で既存の多くのまじめな小さな貸金業者から仕事を奪うことで、彼らの営業の自由(憲法22条)、財産権(29条)、極端な場合には生存権(25条)までを脅かす人権問題である。そういう意味では、今回の立法の違憲性が問われてしかるべきであろう。』
と述べておられます。威勢のいい見出しとは趣きを異にしていると思われ、最後の方のこの部分だけがタイトルに合致している、というわけです。期待はずれは否めません。しかも、ふと目をやれば「違憲性が問われてしかるべき」ということであって、何処にも「違憲性が強く疑われる」とか、自分の評価としては「違憲である可能性が高い」とか、そういった憲法学者の意見というものが見当たらないわけです。
素人ゆえの個人的疑問を一応申し述べますと、「問われてしかるべき」というのは誰に問うのでありましょうか。通常であれば、最高裁に問え、ということが結論的に出るのでありましょうが、いやしくも憲法学者との肩書きをお持ちであるのですから、「問われる」立場にあるのはご自身なのではなかろうか、とは思う訳です。法学の世界について”も”全くの無知ですので、憲法学者とは「違憲性」ということへの評価を行ったりはしないものなのである、といった、業界の常識みたいなものがひょっとすると存在しているのかもしれませんが、まずは憲法学者である自分自身に問うてみてはいかがか、と思わずにはいられません。
憲法学者の出された「違憲性が問われてしかるべき」というご意見に対して、私のようなド素人が答えられるはずもありませんが、できるだけ考えてみたいと思います。小林教授は、①営業の自由(22条違反)、②財産権(29条違反)、③生存権(25条)を脅かす人権問題、と挙げておられますので、これを判る範囲で順に見ていきたいと思います。法学的な知識がない故に、用語とか用い方とかが間違っているかもしれませんが、ご容赦下さい。
①営業の自由(22条違反)が侵害されるか
世の中には様々な職種があるわけですが、届出制、許認可制、免許制といった明確な制限が設けられていることは珍しくありません。これらの法的制限というのは、全てが憲法違反ということはないと思われます。もしもそうであるなら、過去の裁判例で判示されていても何ら不思議ではないからです。ところが、こういった行政側の設けた一定の制限というものが広範囲に渡って現在もなお用いられているということになれば、そこには何らかの法学的理由があるものと考えられます。それが何なのか、ということになりましょう。
恐らく、万人の「営業の自由」を守ること以上に、それら営業施設・サービス等を利用するその他大勢の一般利用者たちの利益を考慮しているものと思われ、一部の人々の利益を優先することが必ずしも法的に認められるべきものとは言えない、ということです。一般社会においては、個人に認められる自由とは完全な制限を受けないものとして考えられているものではなく、社会利益(公共の福祉?)が優先されるべき事情があれば、一定の制限を受くるのは止むを得ない、ということではないかと思います。万人に営業の自由を認め、それが何らの制限を受けない場合に、利用する大多数の人々の利益が侵害されるとなれば、いずれを優先するべきか、という問題なのであろうと思います。
例えば、何らの制限を設けることなく万人にフグ料理人としての「営業の自由」を完全に認めてしまえば、これを利用する国民の中にはフグ毒で容易に死亡する事態を生じる虞があり、著しい侵害を生じることが考えられます。これを「営業の自由」の一部を制限して免許制とすることにより、大多数の利用者の権利侵害を防げるのであれば、そのような制限を行政が設けることは認められる、ということです。
新貸金業法(と呼ぶのが正しいのかどうか知りませんが、記事中ではそのように呼ばれていますので、この名称を用いることにします)における制限のうち、上限金利規制や貸出総額(収入の3分の1)規制の要件が該当しているとは考えていないでしょうから、恐らく5千万円の資産(資本金)規制のことを指しているものと思います。これまで合法的営業を行っていた業者で、貸出残高がこれ以下ということになれば、年間売上高は1000万円以下ということになり、現実の収入水準としては厳しいものであると予想されます。合法的営業が可能な売上高水準を想定しますと、5千万円規制が著しく不合理であるとも言えないでありましょう。このような基準を設けることは行政に認められていると考えるべきで、貸金業を営むに当たっての要件として資産を一定以上保有していることは、利用者保護の為に必要と考えられましょう。例えば、最低資本金規制は他の業種でも定められており、証券取引法での証券会社は5千万円、信託業法では1億円となっています。これを違憲立法であるとする法学的理論を聞いたことはありませんが、貸金業だけに特別違憲とするという主張を小林教授は考えておられるかもしれませんので、是非ともそのご意見を拝聴したいと思います。
②財産権(29条違反)が侵害されるか
具体的な詳しい解説が全くない為に、何を想定されていたのか正確には判りかねますが、こちらで勝手に想像して書いていこうと思います。
財産権が持ち出されていることから、上限金利を引き下げられたりしなければ「売上として手にしていたであろう」部分(早い話が、金利収入というお金だね)があって、今回の改正によってそれが手に入らなくなった、違憲立法によって不当に奪い去られた、というようなことではないかと思います。
まず、前提としては、利息制限法という法律は生きているわけです。このような金利規制を行っている法律そのものが「違憲立法である」という主張であるならば、同様な上限規制のあるものについては全て違憲という判断となりましょうか。それは、「そのような上限さえなければ、自由に利息を手に入れられたであろうものが、法律の規制によって手に入れられなくなった」ということでしょうか。取引を間違いなく行っていく上で、一定に決まった利息水準を規定することが憲法違反であるとも思われません(民放や商法に規定が存在していますし)。よって、何らかの利息水準を規定することは、問題ないであろうと思います。では、何が問題となるのでしょうか。
出資法の上限規定とは、「処罰を受ける利息水準」が示されているのであって、例えば20~29.2%の間の利息について支払うことを予め契約によって定め、その契約の履行によって支払われた利息について、貸金業者の財産としての権利を認めているものとは解されないと思います。あくまで任意に支払った場合にのみ、利息制限法の上限超過部分の権利を得るものと思います。
では改正された利息制限法では、任意に支払った上限超過部分の権利主張ができなくなったことが違憲である、という解釈なのでしょうか。例えば売買において、5千円の支払義務のあるものについて、購入者が錯誤によって1万円を支払ってしまうと、「これは任意で支払ったのであるから、売主の財産である」という主張をするのと同じようなものであると思います。本来的には、超過部分については「お釣り」として返却を申し出て、購入者に返還するべきものでありましょう。それでもなお「任意で支払った」場合(釣りはいらないよ、というような場合)には、売主の財産としての権利となるものではないかと思います。これを初めから「返還することはしない」ということを前提として超過部分の財産権を認めることは、円滑な取引を妨げることになりこそすれ、大多数の利用者である一般消費者の保護とはなり得ないでありましょう。
任意で支払う部分については贈与的なものであって、支払側の明確な意思表示がなされていないにも関わらず、受取った側が返還の申し出をすることなくその財産権を主張し、そのような権利を優先的に保護することが有益であるとは到底認められないでありましょう。支払側が明確な贈与の意思表示をする以前から、超過部分についての財産権を受け取り側の権利として憲法が保障しているものとは解されない、ということです。
別な主張の可能性としては、5千万円の資産規定によって廃業することになれば、これまで得られていた利益を手に入れることが不可能になるということなのかもしれません。しかし、経過措置期間はあるのであるから、複数業者が協同で事業を営むなどの対策を取りうることはできます。存続事業者を決めて、他の貸金業者が廃業したとしても、収入や経費は実質的に変わることなく営業が可能でありましょう。単体では届かない基準であるとしても、他の業者と同一の事業を協同で営むことができるならば、5千万円の規定をクリアすることが不可能であるとは考えられません。それを選択するか否かは事業者の自由であり、事前に周知されている基準をクリアできないのであれば、事業を継続することは無理であるということが容易に判断できるのであるから、貸金業者がその対策を講じるべきでありましょう。
経過措置期間が置かれておらず、事業者が対策を講じることが極めて困難であるということでもあれば、事業継続が不可能になってしまうことへの補償ということを考慮すべき場合は有り得ます。しかし、どのような業種においても法改正や行政の判断が変化していくことによる制度改正はあるのであって、事業を継続する為にそれら変更に対応することが求められてきたのは言うまでもないでしょう。従って、仮に廃業することによって、これまで貸金事業から得られていた収入を失うことになったとしても、法改正が著しく不合理であり違憲立法であるとは言えないでありましょう。
③生存権(25条)が侵害されるか
これも主張する点が一体何なのか判り難いのですが、貸金業者が失業してしまうことによって生活が脅かされる、即ち生存権が侵害される、ということかと思いました。
通常の労働者や自営業者などが失業することで、全て生存権侵害となるかと言えばそうではないでありましょう。失業してしまった場合には、失業給付などの制度が設けられておりますが、自営業者は雇用保険に加入できないので失業給付を受けられない、ということなのかもしれません。仮にそうであったとしても、廃業や倒産などに関連する何らかの制度を利用するか、生活保護給付や失業時の貸付制度などはあるので、最低限度の生活を維持することが不可能な状況であるとは言えません。従って、法改正によりたとえ失業ということになったにせよ、違憲ということにはならないであろうと思われます。
以上のことから、
・営業の自由が侵害されるとは言えない
・財産権が侵害されるとは言えない
・生存権が損害されるとは言えない
と考えました。即ち、違憲立法とは考えられない、ということです。
憲法学者にこんなことを言うのは釈迦に説法ですけれども、最高裁判決では具体的事件を離れて違憲審査をする権限を有してはいないそうですから、実際に改正法が施行されて廃業・失業となった貸金業者が提訴してみない限り、裁判所判断を仰ぐことはできないでありましょう。
日本の憲法学者というのは、何かの検討を行ったりすることなく「憲法22条、25条、29条違反という違憲性が問われてしかるべき」というような、安易な意見を新聞に書いたりするものなのでありましょうか。できれば、憲法学者の見解というものについて、曖昧な表現などではなく、憲法学的な表現でお聞きしたいものです。法学上の解釈の相違というものが存在することは受け入れるとしても、憲法学者がただの一つの解釈すら言明しない違憲性というものは、一体どれ程の信憑性があるものなのでありましょうか。どのような裁判においても「憲法違反である」旨主張することは可能なのであり(時々原告側主張で見かけるように思います)、それが認定されるか否かは別として、ありがちな主張の一つとして並べてみた、という域を出ないものではないかと思います。これが日本の憲法学者の標準的レベルということなのでしょうか。