西尾治子 のブログ Blog Haruko Nishio:ジョルジュ・サンド George Sand

日本G・サンド研究会・仏文学/女性文学/ジェンダー研究
本ブログ記事の無断転載および無断引用をお断りします。
 

ジョルジュ・サンド:部分的訳出 5

2015年08月15日 | 手帳・覚え書き
 ミュッセとの決別は、サンドにかくれんぼ遊びの終止符を打たせたが、
既婚の妻として従わなければならなかった許可申請の必要がなくなること
でもあった。
 実際のところ、ミュッセとのイタリア旅行については、夫には当時サンド
が苦しんでいた「リューマチの治療を試みるため」とし、ミュッセの母親には
冬の間、ミュッセが既婚女性のお伴をする許可を懇願しなければならなかった
のである。
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ジョルジュ・サンド:部分的訳出 4

2015年08月15日 | 手帳・覚え書き

 ジョルジュは言葉の舞台に君臨する芸術家だった。マリー
の方は、言葉に彼女の霊感、輪郭、優美さ、絢爛さを伝える。
彼女の身の動きは、彼女の意志のみに従っている。自分が
「ぼーっとしていて寡黙にみえる」と思っていたジョルジュは、
「自分の感覚が生き生きとした表現の形を取ることのできない
麻痺状態」に陥っていたが、マリーの中に完成した自分を発見
した、とジョセフ・バリーは、ジョルジュ・サンドの見事な
伝記の中で指摘している。

 「マリー・ドルヴァルが身体ごと打ちひしがれた様子をして
無気力な足取りで、しかし眼光鋭く舞台に登場すると(・・・)、
私は私自身に自らを見せるために、私と人間たちに自らをしかと
見せるために彼女の姿をして登場した自分の魂を見ているように
思われた」のだった。

 ジョルジュ・サンドが具現化するあらゆるものごとの中には、
一つの絶対的な意志が現れる。それは他者の品位をおとしめる
ものではなく、反対に、他者を理解し、実際の経験をエクリ
チュールによって乗り超えるために、他者に溶け込むという
高尚な感情だった。
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