『知のミクロコスモス 中世・ルネサンスのインテレクチュアル・ヒストリー』
ヒロ・ヒライ、小澤実編
中央公論新社
2014年3月
398ページ
ISBN 978-4120045950
定価3,700円+税。
紹介記事
http://newclassic.jp/9606
マルティン・ルターは、教皇の文書を火にくべるとともに、聖書の俗語訳を生みだした。
神と人間を媒介する教会の役割の多くが否定され、ただ聖書のみに依拠して信仰を立ち
あげる必要性が説かれた。伝統的な聖遺物崇拝は攻撃され、日々の信仰生活を彩っていた
多くの儀礼が廃棄された。廃棄こそされなかったものの、その解釈が変更され、それゆえ
大きな論争を呼んだ儀式に、聖餐式(せいさんしき)がある。
解釈の次元のみならず、現実の世界においてもじつにグロテスクな帰結を招いた聖餐を
めぐる論争の源流はどこにあるのか。ここで平野が着目するのがフランソワ・ラブレーの
『ガルガンチュアとパンタグリュエル』である。そこでラブレーがカトリックの聖餐式を
嘲笑してみせているというのだ。
ラブレーの聖餐式にたいする隠された笑い
聖餐式におけるパンとワインを神の血肉として崇拝する者たちは、全能の神ならぬ腹全能
の神のとりまきと同型なのではないか。この秘めた笑いがのちにプロテスタントの論争家
たちの手で表面化させられることになる・・・
中世の聖職者たちが葛藤のなかで懸命に維持しようとしていた「教会の平和という絆」は
断ち切られた。スコラ哲学が解体され、情報量が指数関数的に増大し、新たな伝統が捏造
され、地理的地平が拡大し、宗教宗派の分裂が進むなかで、聖書の言葉を中心に聖職者たち
がたばねようとした世界は砕け散った。そうしてあらわれたのがスピノザである。
スピノザは超越神の観念を否定し、神を世界そのものと同一視した。それにより世界から
人間理性が理解できない領域は消去される。
わたくしは、自然学上の問題を議論するにあたって、聖書の文章の権威から出発するのでは
なく、感覚でとらえられる実験と必然的な証明から出発すべきであろうと思います。…しかし、
こういったからといって、わたくしは、聖書の章句に最高の尊敬を払うべきではないという
つもりはありません。むしろ、自然学のなんらかの結論に確実に達したならば、それをわたくし
たちは、聖書そのものの真の解釈と聖書に必ず含まれている真の意味(これはまったく真理で
あって証明された真実と合致するのですから)を探究するための手段として役立てねばなりません
3。
(3. ガリレオ「クリスティーナ大公妃宛手紙」、青木靖三編訳『世界の思想家 6 ガリレオ』
平凡社、1976 年、209 ページより引用。 )
古代のある時点においてキリスト教は正典のうえに築かれた信仰となった。正典たる聖書を
読む能力を独占し、その解釈権を専有し、釈義を伝える方策を統制することによって、中世
の教会は「万事につけ、われわれは、可能なかぎり統一を守るべき」という目標を達成しよう
と試みた。たしかにガリレオにいたるまでに、その試みは挫折し、キリスト教世界は分裂して
いた。だがカトリックが聖書の解釈権を手放そうとしていたわけではなかった。むしろプロテ
スタントへの対抗のなかで、禁書目録をはじめとする新たな手段をもちいて、教会は勢力圏内
での正統性の独占を強化しようとしていた。そのなかでガリレオは聖書解釈の権利を聖職者から
奪いとろうとしたのである。しかもそれをローマにまで出向いてとなえたのだった。
であればこそ、ガリレオが異端誓絶の判決を受けたのは当然であった。その判決をくだす聖邪
検庁で大きな勢力を占めていたのはドミニコ会士、すなわち中世において葛藤の中心にいた
聖職者たちの末裔であった。それにより彼らは信仰と科学の分断といういっそう深刻な葛藤の
種をまき、後継者たちを苦しめつづけることになる。
ガリレオの反逆のうちには、恐るべき知性の冴えと愚劣なほどの傲慢さが混じりあっていた。
たいする教会権力は懸命に秩序を維持しようとしながら、しかし決定的に硬直し、抑圧的な
ものとなっていた。
ヒロ・ヒライ、小澤実編
中央公論新社
2014年3月
398ページ
ISBN 978-4120045950
定価3,700円+税。
紹介記事
http://newclassic.jp/9606
マルティン・ルターは、教皇の文書を火にくべるとともに、聖書の俗語訳を生みだした。
神と人間を媒介する教会の役割の多くが否定され、ただ聖書のみに依拠して信仰を立ち
あげる必要性が説かれた。伝統的な聖遺物崇拝は攻撃され、日々の信仰生活を彩っていた
多くの儀礼が廃棄された。廃棄こそされなかったものの、その解釈が変更され、それゆえ
大きな論争を呼んだ儀式に、聖餐式(せいさんしき)がある。
解釈の次元のみならず、現実の世界においてもじつにグロテスクな帰結を招いた聖餐を
めぐる論争の源流はどこにあるのか。ここで平野が着目するのがフランソワ・ラブレーの
『ガルガンチュアとパンタグリュエル』である。そこでラブレーがカトリックの聖餐式を
嘲笑してみせているというのだ。
ラブレーの聖餐式にたいする隠された笑い
聖餐式におけるパンとワインを神の血肉として崇拝する者たちは、全能の神ならぬ腹全能
の神のとりまきと同型なのではないか。この秘めた笑いがのちにプロテスタントの論争家
たちの手で表面化させられることになる・・・
中世の聖職者たちが葛藤のなかで懸命に維持しようとしていた「教会の平和という絆」は
断ち切られた。スコラ哲学が解体され、情報量が指数関数的に増大し、新たな伝統が捏造
され、地理的地平が拡大し、宗教宗派の分裂が進むなかで、聖書の言葉を中心に聖職者たち
がたばねようとした世界は砕け散った。そうしてあらわれたのがスピノザである。
スピノザは超越神の観念を否定し、神を世界そのものと同一視した。それにより世界から
人間理性が理解できない領域は消去される。
わたくしは、自然学上の問題を議論するにあたって、聖書の文章の権威から出発するのでは
なく、感覚でとらえられる実験と必然的な証明から出発すべきであろうと思います。…しかし、
こういったからといって、わたくしは、聖書の章句に最高の尊敬を払うべきではないという
つもりはありません。むしろ、自然学のなんらかの結論に確実に達したならば、それをわたくし
たちは、聖書そのものの真の解釈と聖書に必ず含まれている真の意味(これはまったく真理で
あって証明された真実と合致するのですから)を探究するための手段として役立てねばなりません
3。
(3. ガリレオ「クリスティーナ大公妃宛手紙」、青木靖三編訳『世界の思想家 6 ガリレオ』
平凡社、1976 年、209 ページより引用。 )
古代のある時点においてキリスト教は正典のうえに築かれた信仰となった。正典たる聖書を
読む能力を独占し、その解釈権を専有し、釈義を伝える方策を統制することによって、中世
の教会は「万事につけ、われわれは、可能なかぎり統一を守るべき」という目標を達成しよう
と試みた。たしかにガリレオにいたるまでに、その試みは挫折し、キリスト教世界は分裂して
いた。だがカトリックが聖書の解釈権を手放そうとしていたわけではなかった。むしろプロテ
スタントへの対抗のなかで、禁書目録をはじめとする新たな手段をもちいて、教会は勢力圏内
での正統性の独占を強化しようとしていた。そのなかでガリレオは聖書解釈の権利を聖職者から
奪いとろうとしたのである。しかもそれをローマにまで出向いてとなえたのだった。
であればこそ、ガリレオが異端誓絶の判決を受けたのは当然であった。その判決をくだす聖邪
検庁で大きな勢力を占めていたのはドミニコ会士、すなわち中世において葛藤の中心にいた
聖職者たちの末裔であった。それにより彼らは信仰と科学の分断といういっそう深刻な葛藤の
種をまき、後継者たちを苦しめつづけることになる。
ガリレオの反逆のうちには、恐るべき知性の冴えと愚劣なほどの傲慢さが混じりあっていた。
たいする教会権力は懸命に秩序を維持しようとしながら、しかし決定的に硬直し、抑圧的な
ものとなっていた。