近年のソシュール研究の動向 ― テクストへの回帰 松澤 和宏
1996 年にジュネーヴのソシュール邸で夥しい量の自筆草稿が発見され、その一部を含む自筆草稿がエングラーとブーケの手によって『一般言語学著作』1) という書名のもとに 2002 年にガリマール社から刊行されるに及んで、ソシュール研究はにわかに活況を呈することになった。
新資料の発見とガリマール版の刊行に触発された近年の研究の動向の最大の特徴は、テクストへの回帰にあると考えて差し支えないであろう。
a)言語一般を巡る考察およびインド・ヨーロッパ語に関する言語学的研究。
ソシュールの言語一般に関する考察に関しては、ラスティエによるラディカルな反・存在論的な読解 14) と言語外の指示対象を考慮に入れたソシュールの草稿の一節 15) を両極にして、その間に構造主義的解釈をはじめとする様々な解釈を位置づけることも不可能ではない。だが、その際二十世紀の構造主義や現代思想をソシュールに投影し、「体系」や「差異」や「価値」といった一連の概念を再認して能事終われりとするのではなく、そうした概念が歴史言語学の内部に身を置いていたソシュールにおいてどのようにして誕生したのか、その経緯と内的な論理を、ソシュールの言語学的格闘に寄り添いながらたどることが必要であろう。
特に日本では、ソシュールは、インド・ヨーロッパ語の言語学的研究から切り離されて、もっぱら哲学的思想家として受容されてきたために、こうした内在的理解に努めることが疎かになるきらいがある。
(b)神話・アナグラム研究について。
ホメロスの詩句のアナグラムに関する草稿の校訂版 20) の出現は、これまで断片的にしか研究されてこなかったアナグラム研究
がいよいよ本格化してきたことを示している。
(c)ソシュールと同時代の政治との関わりについて。
金澤忠信「ソシュールの政治的言説 ― 19世紀の歴史的事件とソシュールの政治的立場」(『フランス文学』第 28 号、日本フランス語フランス文学会中国・四国支部編、2011 年)はジェイムソン襲撃事件、アルメニア人虐殺(1894-1896 年)、ドレフュス事件などに関するソシュールの未刊行の草稿資料に丹念にあたって、ソシュールの保守的な政治観を丁寧に照らし出す貴重な論考である。ガンドンの『言語学者のモラル』22) も同じ問題を扱っている。
(d)草稿や伝記的資料を精査した成果として、メヒア 23) やジョゼフ 24) の浩瀚なソシュールの伝記が刊行されたことも近年の慶賀すべき成果である。但し前者の精神分析的解釈がはたして正鵠を射ているのかどうかは議論の分かれるところだろう。
e)ソシュールの受容について
『講義』で提示された諸々の考え方や概念はわれわれの免れがたい先入見の一部とすでに化している。内なる先入見を吟味検討していくために、『講義』は依然として無視できないテクストであり続けている。
近年のソシュール研究は、文献学的研究を中心としつつも、その裾野はソシュールの知的活動全体に、そして彼の生きた時代全体に次第に拡がりを増している。
下記の論文より転載させて頂きました。
http://www.sjllf.org/cahier/?action=common_download_main&upload_id=431