
残酷な歳月
(十五)
(幻の母)
ジュノはりつ子の話を信じたかった!!
けれど、あれからもう長い歳月が過ぎて、あまりにも、孤独な時間を強いられているジュノは、母や妹の事になると、異常なほど、心が騒ぎ、時には、怒りにも似た感情を抑えることが出来なかった。
りつ子のジュノに対するいわば悪戯にも似た行為が、ジュノには耐え難い行為におもえて来て、今にも、りつ子に対して、反撃的な言葉を発する思いを必死で抑えていた。
そんなジュノを、りつ子はさすがに心が痛んだのか・・・
「あの方は、きっと!ジュノのお母様だったのよ!」
「美しい人で、今、思うと、なんとなく、ジュノに顔立ちが似ていたように、思えるけど!」
もし、なんだったら・・・
「あの時、お話した、牧師様にその後の事を、お尋ねしてみましょうか?」と!
なんとなく、取ってつけたような言葉で、ジュノに擦り寄ってきた!
りつ子のその態度が、又しても、ジュノの気持ちを逆なでしていて、益々、りつ子の事が信じられずに、ジュノを混乱させた!
部屋の空気が重苦しくて、におうはずのない、鼻を突く、悪臭を感じて、窓の外の風景もきらびやかな激しい色あいの新宿の街はジュノにはただそれだけで、嫌悪感を覚える。
そして、又しても、りつ子は、ジュノにはあまりにも、とっぴ過ぎる事を口にして、平然としているばかりか、むしろ、得意げに話した!
「ジュノは、知ってるの?」
「加奈子があかちゃんを生んだのよ!」
「男の子だったそうよ!」
ロスのマークから、聞いたのですけれど!
ジュノの子供なの? それとも、あの今の若い恋人ロイの子供なのかしらね!
そんなとんでもない話を聞かされても、ジュノは、誰の事なのか、ただ聞き流しているばかりだった。
それもそのはずで、ジュノには確かな記憶ではないが、身に覚えのない事だと思いたい。
だか、本当のところ、ジュノの記憶の中で、全く、違うのだと、言い切れるほどの、確かな記憶がない、抜け落ちたあの頃の事!
ジュノの心はかすかな反応する!
気がかりではあっても、どこか、他人事のような、絵空事にしか感じていなかった。
この時期のジュノの精神の異常さを誰も気づいてはいなかった!
どうしても、この狭いホテルの部屋に、りつ子とふたりで居る事に、耐えられず、ジュノはりつ子の名刺を受け取り、病院での診察日を連絡することにして、早く、この場を立ち去りたいと思い、必要な事だけをりつ子に告げて、急ぎ足で、ホテルの部屋を出た。
りつ子の話を信じたい思いと、ジュノに対してみせるりつ子の軽薄な言葉や態度に怒りの感情がりつ子との接触を拒みたい衝動に駆られた。
だが、今は、りつ子のもたらす、情報しかない事が、ジュノには辛い事だった!
相変わらず大杉さんの居場所が分からずジュノはこれから、妹をさがす事をどうすればよいのかが、思いつかずに時間だけが虚しく過ぎて行く事に耐えている。
ジュノの心にいつも刺さったままの棘のような痛さで、妹の行方が気になって心配な事だ。
そんな思いの時、突然、実の父の実家、
『岡山の家は今、どうなっているのだろうか!』
と、今まで、ジュノは、実の父の故郷を考えた事がなかった事が不思議だった。
確か、父はひとり息子だったと聞いた記憶があった。
実の両親は、ジュノ(寛之)にお互いの、祖父母の事や実家の事を何も話さなかった。
むしろ、どんな事だったか、思い出せないほどの、些細な話しを、大杉さんから、ジュノは聞いた気がする。
父や母が、どのような事情があって、自分達の生れ、育った、家や場所、そして、どんな環境なのかを、子供だった、寛之や妹の樹里に話す事が出来なかったのか、今となっては、確かめる事さえ出来ない。
ジュノは、父の生れ、育った、岡山の家を訪ねてみようとの、思いが強くなって行った。
ソウルの父から、住所だけは、聞くことが出来た、今の両親も、住所だけしか分からない、写真の一枚さえない事が、とても、不思議さと言い知れぬ不安をジュノは感じた。
季節は何度も変わり通り過ぎても
この重苦しいほどの怒り
恋しい気持ちなのか
愛しい想いなのか
まだ見ぬ世界に
強く引き寄せられて
美しき人は心がさわぐ
誰が私を呼ぶのか
この世でただひとりの妹
美しき人の心の声をうけとめて
ジュノの心はひどく混乱し、目に見えない恐怖なのか、喜びなのか、判断のつかない実の父の故郷への憧れを抱き、乱れる思いが苦しかった。
そして、あまりにもとっぴで、信じがたい、りつ子の話した事をふと、突然、思い出した。
『加奈子が子供を生んだ!』
その事が、ジュノの心情をかき乱すけれど、加奈子に対して、どのような態度をとれば良いのか、今のジュノには思いつかない。
心の中に、重石を抱えたような、苦しさがあるけれど、ふと、加奈子の姿を思い浮かべては、ジュノは心が華やぎ、加奈子に触れたあの柔らか胸のふくらみ、弾むように、ジュノの少し大きめな手で包み込む、加奈子の乳房は、いつも小刻みに震えて、喜びを
伝えてくれた。
ジュノとの、その幸せを共に、何度も加奈子とのくちびるをあわせてはこの上もなく、深い、ふたりの愛を確かめ合っていた。
あの、なにものにも変えがたい、ふたりの交わりは、ジュノが今までに感じた事のない、特別な幸福感であったはずなのに、ジュノが、加奈子に与えた苦痛を思うとき、ジュノは今、どうすれば良いのか、迷いだけが、一人歩きしていた。
加奈子の生んだ子、どんな赤ちゃんなのだろうと、思うだけで、逢ってみたい衝動なのか、確かな、現実の事なのか!
まだ、すべてを受け止められずに、ジュノ自身の心は小刻みに乱れて、戸惑いを感じる、だが、加奈子からは、何も、連絡もなかった!
ジュノと加奈子がはっきりとした、別れの言葉を交わしてはいないが、お互いの感情のすれ違いを埋める事は出来ずに、ジュノのもとを去って行った加奈子だった。
だが、ジュノも、加奈子も、心の奥深いところに、お互いへの思慕を感じながらも、もう終わった事なのだと、自分に言い聞かせていたのだ!
今の加奈子にはロイという新しい恋人との生活がある事で、ジュノは加奈子への連絡をかたくななまでに、絶っていた。
「子供が生れたとしても、かかわらない事だ!」
ジュノ自身の揺らぐ思いや定まらぬ気持ちを伝える事など、これまで加奈子に対して、ジュノが与えた苦しみを思えば、どんな些細な好意であっても、見せてはいけない事なのだと、ジュノ自身を納得させていた。
ジュノが今、行動すべき事は、妹の「樹里」をさがす事が大切!大杉さんの行方をさがして、まだ、明らかにされていない、ジュノの中にある疑問や不安を取り除かなくては、ジュノはこれからの生き方や人としての喜びを得る事が出来ない!
さっそく、りつ子は、ジュノのいる病院へやって来て、必要な診察と検査を済ませて、今、正式な病状の診断結果待ちだった!
つづく