ずっと前の(大学の時)のことだが。私は、ある小説のネタを思いついた。それは、天国と地獄というものに関する矛盾的なことである。しかし、私はそれを書くことを、ためらった。なぜなら、それは、
「これは、思索の浅い人では思いつかないかもしれないが、少し思索の深い人なら思いつくんじゃないだろうか」「だから、それを大発見のように得意げに書くのは、みっともない」
と思っていたからである。そして、その気持ちの方が強くて書かなかった。そして、かなり後になって、私が思っていたことと全く同じ事を、漫画家の本宮ひろ志が漫画で描いていたのを偶然みつけたのである。それを見つけた時、私はちょっと得意だった。
最も、氏のような大量産の連載を持った漫画家は、自分の思索の限界的なものだけを書いてばかりはおられず、少しレベルが低いと分かっているものでも、描かなくてはならないだろうから。しかし、もしそれが氏の思索の限界で、得意になって描いていたのなら、私の方が思索が深いということになる。実際の所はどうだかわからない。しかし、氏にとっての思索の限界で描いているようにも感じた。
「これは、思索の浅い人では思いつかないかもしれないが、少し思索の深い人なら思いつくんじゃないだろうか」「だから、それを大発見のように得意げに書くのは、みっともない」
と思っていたからである。そして、その気持ちの方が強くて書かなかった。そして、かなり後になって、私が思っていたことと全く同じ事を、漫画家の本宮ひろ志が漫画で描いていたのを偶然みつけたのである。それを見つけた時、私はちょっと得意だった。
最も、氏のような大量産の連載を持った漫画家は、自分の思索の限界的なものだけを書いてばかりはおられず、少しレベルが低いと分かっているものでも、描かなくてはならないだろうから。しかし、もしそれが氏の思索の限界で、得意になって描いていたのなら、私の方が思索が深いということになる。実際の所はどうだかわからない。しかし、氏にとっての思索の限界で描いているようにも感じた。