小説家、反ワク医師、空手家、浅野浩二のブログ

小説家、反ワク医師、空手家の浅野浩二が小説、医療、病気、文学論、日常の雑感について書きます。

宗教は絶体絶命の時にだけ利用するものである

2013-12-21 06:56:12 | 考察文
「宗教は絶体絶命の時にだけ利用すべきものである」と私は思っている。

利用する、と言っているほどなので、当然、もちろん、絶対に、確実に、アラーの神に誓って、私は無神論者である。私の両親は、洗礼を受けたクリスチャンであり、子供の頃から教会に行かされたり、聖書を読まされたりした。三度の食事の前には、犬のおあずけのように、三度の祈りをした。その間に温かいスープが冷めた。(バカげている)中学、高校も、ミッションスクールで、毎日、礼拝があって、一時間、教師が説教をたれていた。

しかし、だからといって私はキリスト教の信者になる気が起こったことは、人生で一度もない。確かにキリストの教えは、理想が高く、優れたものがあり、その思想の一部は私も利用している。しかし、私は、死ぬまで一生、いかなる宗教の信者になる気はない。し、ならないだろう。

世界史を見てみたまえ。ヨーロッパでは、イスラム教とキリスト教の対立による戦争。カトリックとプロテスタントの対立。インドでは、ヒンドゥー教と仏教の対立。仏教では、仏教諸派による対立。教会権力の堕落。十字軍に、免罪符。仏教もキリスト教と全く同様である。宗教であることの特権を盾に、堕落し、権力掌握に走ってきた。

これは宗教の開祖の教えは良かったが、それに従う人間がバカで狡猾だから、開祖の教えを、間違って解釈し、そして狡猾な下心によって、それを私腹を肥やす権力として利用したからである。結局、バカで狡猾な人間が関わるとによって、良いものも悪いものになってしまうのだ。

こんなことなら、宗教なんて無くて、唯物主義の世界の方がどれだけ、いいことか。

宗教は、基本的には、人間の心の弱さから起こる。精神の強い人間に宗教はいらない。しかし、何事も、物は使いよう、である。聡明で善良な人間の手によると、宗教は、人の心を救える素晴らしい物とも成り得る。

また、文化という面から見ても、宗教は、無いより、あった方が、いい(いい、というより面白い)ものである。クリスマスに、日本の神社、寺、家の中の仏壇、などが、なくなってしまったら、非常にさびしい。文学、絵画、彫刻、音楽(讃美歌だけでなく、ビートルズの音楽でも)つまりは芸術も宗教と大いに関わっているものもある。文化と宗教は、切っても切り離せないものである。

非科学的な、迷信や占い、縁起なども、人間の本能的なものである。無神論者でも、正月に神社にお参りしたり、大きなスポーツの試合や試験の前に、軽く神に祈ってみたり、縁起を気にしたりしても、全く問題はないし、むしろ、精神の安定になるだろう。もちろん、私もその例外ではない。

しかし、やはり、宗教に走りすぎるのは、諸悪の根源である。

そもそも無神論者にしてみれば、神が、この世や人間を作ったのではなく、人間が「神」という概念を創り出したと思っているのだから。
人間が作った物は、全て、使い方次第で、良く使えることも出来れば、悪く使うことも出来る。
人間は拳銃を作った。拳銃は、警察官が国の治安を守るために使うこともあれば、犯罪者が強盗殺人をするために使うこともある。
人間は自動車を作った。自動車は、物流を発達させて人間の暮らしを豊かにしたと共に、自動車事故によって、人を殺し、二酸化炭素の排出によって、地球の温暖化、自然破壊、が行われている。
しかし、人間のやることは、ほとんどがバカだから、悪く使っている場合の方が圧倒的に多い。宗教も、それと同じであるが。宗教の場合は、拳銃や自動車のような、無機的な物よりもタチが悪い。

だから、私は「宗教は絶体絶命の時にだけ利用すべきものである」と思っている。のである。

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