小説の視点のことは、今年の10月29日に、このブログで、「漫画家と小説家」と題して、書いた。よろしかったら、ご覧ください。
しかし、今年の10月29日に書いてない方法もあることに気づいたので、書いておこう。そして、これは非常に便利な方法の一つでもあると思う。
我田引水で、大変、恐縮だが、今年の11月4日に、私はこのブログで、「日本シリーズ物語」と題して、短い、小説まがいのものを書いた。短いが、登場人物は、たくさんいる。
この小説の視点は、誰かといったら、それは、巨人のピッチャーの内海である。
しかし、松井稼頭央や、楽天の選手たちの心情も書いている。だが、視点を別の人に移さず、矛盾なく処理している。
松井稼頭央の心情については。
「バッターボックスの稼頭央は、いつにもない気迫で、にらみつけていた。
(さあ来い。俺達は、震災で、うちひしがれている東北の人達のためにも、死んでも、負けるわけにはいかないんだ)
にらみつけてくる稼頭央の目がそう語っているように内海には見えた。」
というように書いている。
楽天の選手の心情については。
「始めは、笑ってビールをかけ合っていた選手たちも、だんだん、ビールのかけ合いをしなくなっていった。
選手たちの顔には、ある寂しさが漂っていた。
(オレ達は本当に実力で巨人に勝ったのだろうか)
選手たちの顔には、皆、無言の内に、そんな思いがあらわれていた。」
と書いている。ともに( )で心情を書いているが、その次の文で、「そう語っているように内海には見えた」と書くことによって、あくまで、視点は、内海に保ちつつ、松井稼頭央や、楽天の選手の心情も、書いている。が、視点の移動はない。
他の巨人の選手やファンの発言は、単なる会話文であって心情は、書いてない。から、視点というものとは無縁の、単なる事柄の記述に過ぎない。
視点の処理には、こういう方法もある。そして、それは、かなり便利な手法である。と思う。
小説においては、登場人物がたくさん出ても、視点は一人の人物に固定しなくてはならない。しかし、客観的な事象の記述は作者に許される。のである。それは、読者に違和感を感じさせないよう、そしてスムーズに読めるようにするために、である。
しかし、今年の10月29日に書いてない方法もあることに気づいたので、書いておこう。そして、これは非常に便利な方法の一つでもあると思う。
我田引水で、大変、恐縮だが、今年の11月4日に、私はこのブログで、「日本シリーズ物語」と題して、短い、小説まがいのものを書いた。短いが、登場人物は、たくさんいる。
この小説の視点は、誰かといったら、それは、巨人のピッチャーの内海である。
しかし、松井稼頭央や、楽天の選手たちの心情も書いている。だが、視点を別の人に移さず、矛盾なく処理している。
松井稼頭央の心情については。
「バッターボックスの稼頭央は、いつにもない気迫で、にらみつけていた。
(さあ来い。俺達は、震災で、うちひしがれている東北の人達のためにも、死んでも、負けるわけにはいかないんだ)
にらみつけてくる稼頭央の目がそう語っているように内海には見えた。」
というように書いている。
楽天の選手の心情については。
「始めは、笑ってビールをかけ合っていた選手たちも、だんだん、ビールのかけ合いをしなくなっていった。
選手たちの顔には、ある寂しさが漂っていた。
(オレ達は本当に実力で巨人に勝ったのだろうか)
選手たちの顔には、皆、無言の内に、そんな思いがあらわれていた。」
と書いている。ともに( )で心情を書いているが、その次の文で、「そう語っているように内海には見えた」と書くことによって、あくまで、視点は、内海に保ちつつ、松井稼頭央や、楽天の選手の心情も、書いている。が、視点の移動はない。
他の巨人の選手やファンの発言は、単なる会話文であって心情は、書いてない。から、視点というものとは無縁の、単なる事柄の記述に過ぎない。
視点の処理には、こういう方法もある。そして、それは、かなり便利な手法である。と思う。
小説においては、登場人物がたくさん出ても、視点は一人の人物に固定しなくてはならない。しかし、客観的な事象の記述は作者に許される。のである。それは、読者に違和感を感じさせないよう、そしてスムーズに読めるようにするために、である。