小説家、精神科医、空手家、浅野浩二のブログ

小説家、精神科医、空手家の浅野浩二が小説、医療、病気、文学論、日常の雑感について書きます。

僕の小説は読みやすい

2016-11-21 23:57:58 | Weblog
僕は、大学三年の時から小説を書き出した。

僕のアパートには、度々、エホバの証人の人が来た。

僕もキリスト教には、関心があるので、彼とは、話した。

僕が、最初に、文学賞に投稿したのは、後に、自費出版した「女生徒、カチカチ山と十六の短編」、の中にある、「高校教師」、である。

医学部5年の時に投稿した。

文学賞の字数の規定が、80枚以上、だったので、遊びをつけ、内容を膨らませ、82枚にして、投稿した。

落ちた。

しかし、他人がどう、思うか、感想が、聞きたくて、大学の校舎の中にいた、付属の看護学校の生徒に読んでもらった。

「あの。小説、読んでもらえないでしょうか?」

彼女は、読んでくれた。

読みながら、彼女は、笑い出した。

エホバの証人の人の人にも、読んでもらった。

ワープロではなく、原稿用紙だった。

彼は、小説なんか、読まない人だった。

しかし、読みだすと、だんだん、読む速さが、速くなっていって、原稿用紙、一枚を、一秒以内で、サッ、サッ、と、めくって読みだすようになった。

彼にとっては、もう、速読、α波の世界である。

ついでに、「砂浜の足跡」、と「忍とボッコ」、を読んでもらったが、これは、どちらも、5秒以内で、読んだ。

出版社に、「高校教師」を、他の小説と、投稿する時には、82枚から、無駄を削いで、52枚にした。



文芸社の感想

「平成12年9月27日。(株)文芸社。

本稿は、18編の掌編・短編と、5編のエッセイで構成されている。どの作品も手堅く、まとめられており、作者のレベルの高さを感じた。内容的には、掌編といっても短編に匹敵するような大きく重いテーマのものがあり、短編でも、もっとよく短く刈り込んだ方が仕上がりの良くなるものもあるが、総じて、どの作品も、よく計算された上で書かれていることがわかる。文学作品として平均的なレベルをクリアしていると言えるだろう。

掌編では、「スニーカー」、「少年」など、実に達者な語り口で書かれており、短編も無駄なく構成され、展開もスムーズである。作者は、かなり修練を積み、筆力を蓄えられた方だと推察する。作者の持ち味の一つに、職業経験を生かした心理的な描写、人間を解剖し分析する文章力がある。分析も細部にこだわりすぎて説明的になると、かえってくどくなり、作品をぶちこわす結果になるが、本稿では程好く味付けされているため、作品の質感を高めることに成功している。

エッセイは、「ちゃんと小説を書きたく、こんな雑文形式の文はいやなのだが・・・」(P82;婦長さん)とあるが、病院の日常をさりげなく描いたエッセイには、小説に劣らぬ魅力を感じるという意見もあった。なかでも、「おたっしゃナース」、「婦長さん」は、作者の独断場の世界でもあり高い評価がされた。また、鈴木様の作品の一つの方向として、「少年」や「春琴抄」にみられるように、被虐の世界に徹底されていることも興味深い。精神分析、心理解剖の知識と経験が十分に生かされている。

ただし、作品としての全体の構成を見た場合、どのような意図で編まれたものなのか判断が難しいところである。安定した筆致で書かれた個々の作品は、それぞれ完成度が高いのだが、小説にしても、エッセイについても、どのような読者を想定してあるのかが曖昧である。その流れを明確にした方が、作品の密度を高め、読者に、より強いインパクトを与えることが出来るだろう。

なお、各作品にはタイトルが付けられているものの、本稿のタイトルともなるべき総合タイトルが付されていない。ぜひ、浅野様ご自身で納得のいくタイトルを考えていただきたい。

などが挙げられました。

いかがでしたでしょうか。浅野様の作品は、弊社に毎月800点以上、送られてくる作品の中でも印象深い作品であることに間違いなく、好評を得たもののひとつでした。」

この感想に、僕は、「おだて」、を感じない。

かなり、正確な評価だと思っている。

人生は、限られた人との出会いである。

今年、直木賞をとった、萩原浩さんは、知っていた。

それは、以前、図書館で、リサイクル図書で、「押入れのちよ」、という、のがあって、それを、持って帰って読んでみたからである。

面白かった。

僕は、リサイクル図書は、どうしても、たくさん、持って帰りたくなる。

小説に限らず。

ゲーテのファウストではないが、僕は、この世の全てのことに興味がある。

それで、萩原浩さんの、小説をもっと、読んでみたくなって、ブックオフに行った。

そしたら、プレートがあって、ものすごい、量を書いている作家だと知った。

長編が多い。

僕は、短編こそが、作家の実力を知れる、と思っていたので、「家族写真」という、短編集を買った。



僕自身も、小説は、読みやすいように、ということを心がけている。

というより、小説の文章は、文体の問題なので、「心がけ」ようが、「心がけ」なかろうが、読みやすい文体(絶対文感)を、気質的に持っている人の文は読みやすいのである。

普通の文章、つまり、手紙とか、こういうブログは、誰でも書ける。それに、(絶対文感)の問題はない。ただ、いざ小説を書こうとなると、(絶対文感)というものが、もろに、現れてくるのである。

では、文体(絶対文感)とは何か。

小説で、ある一文を書く。すると、次に書く文章には、前の文章に対して責任が生じるのである。小説の文章というものは、書いてきた文章に対して、「責任」というものの意識をともなって、書かれるべきなのである。

この、文章の、なめらかな連続性、という、「責任」を放棄してしまって、暴力的に、書きたい文を、次々と書いていく人(書いていける人)が、(絶対文感)というものを、持っていない人なのである。

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