僕は、「論破」という、いい加減な言葉が大嫌いだ。
You-Tube とかを見ていると、「誰が誰を、完全論破」などという、表現が、やたらめったら、使われている。
こんな、「論破」という言葉も、流行語の一つに過ぎないし、そのうち、バカバカしくなって、使われなくなる可能性も、もしかすると、あるかもしれない、と思っている。
巧みな言葉で、相手に問答勝ちすれば、「論破」、であり、一見、論理的に見える発言は、全て、「完全論破」、である。
そもそも、政治とか、社会問題の議論とかの、文科系の問題は、いい加減であり、そんなものに首を突っ込むと、ドロ沼であり、バカバカしい。
ギリシャのソフィストの論理、で言えば、ウサギとカメの競争では、ウサギはカメを抜けないのであり、それは、その通り、真実である。
しかし、実際には、ウサギとカメを競争させれば、ウサギはカメを追い抜くのである。
この時には、まだ、微分という数学の概念が、なかったら、ソフィストは、「完全論破」、しているのである。
言葉の論理は、常に、詭弁になる可能性を持っている。というか、詭弁を内包している。のである。
その点、数学とか、物理学とか、科学では、言葉の論理ではないから、言葉による、「論破」ということは、あり得ない。
You-Tube とかを見ていると、「誰が誰を、完全論破」などという、表現が、やたらめったら、使われている。
こんな、「論破」という言葉も、流行語の一つに過ぎないし、そのうち、バカバカしくなって、使われなくなる可能性も、もしかすると、あるかもしれない、と思っている。
巧みな言葉で、相手に問答勝ちすれば、「論破」、であり、一見、論理的に見える発言は、全て、「完全論破」、である。
そもそも、政治とか、社会問題の議論とかの、文科系の問題は、いい加減であり、そんなものに首を突っ込むと、ドロ沼であり、バカバカしい。
ギリシャのソフィストの論理、で言えば、ウサギとカメの競争では、ウサギはカメを抜けないのであり、それは、その通り、真実である。
しかし、実際には、ウサギとカメを競争させれば、ウサギはカメを追い抜くのである。
この時には、まだ、微分という数学の概念が、なかったら、ソフィストは、「完全論破」、しているのである。
言葉の論理は、常に、詭弁になる可能性を持っている。というか、詭弁を内包している。のである。
その点、数学とか、物理学とか、科学では、言葉の論理ではないから、言葉による、「論破」ということは、あり得ない。