モハメド・アリの宗教は、モハメド・アリにとって正しい。
この、(モハメド・アリにとって)、という「条件」、は、とってしまっても、本当はいいのだが。
なので。
「モハメド・アリの宗教は、正しい。」
と言いきっても、いい。
モハメド・アリの信奉した宗教、イライジャ・モハメド、や、マルコムX、などは、過激な、黒人至上主義のイスラム教、の一派だと言われた。
確かに、良識的に考えても、その教えには、ちょっと過激な思想が多い。
それを、アメリカの、良識的な、評論家や学者たちは、間違っている、と指摘しつづけた。
彼らの言い分は、(良識的には)もっともである。
しかし。
だから、どうだといのうのだ。
モハメド・アリは、信者になる前も、人格的に良い人間だったが、信者になってからは、さらに、彼は、優れた人格者になった。
モハメド・アリは、「私は、信仰をもってから、自分を知り、自分の誇りを知り、愛を知り、勇気を知った」、と言っている。
し、それは、事実、その通りである。
アメリカの、良識的な、評論家や学者たちは、「君の教祖は、君の心を虫食んでいる」、と言ったが、現実を全く見ていない。
モハメド・アリは、信仰をもつようになってから、過激派とか、過激な人間になったというのか?
なってなんかいない。
イライジャ・モハメドの教えに、いくつかの、過激な発言がある→だから、イライジャ・モハメドの宗教は間違いである。というのが、評論家たちの、考えだ。
しかし。
結論から言えば。
宗教の、教え、だの、教義、なんてものは、どうでもいいことだ。
大切なのは。
「信仰によって、その人の人格が高まるのなら、それは、いい宗教だ」
ということだ。
逆に。
キリスト教、特に、プロテスタントは、いい宗教だと言われている。
しかし、私は、キリスト教の洗礼を受け、毎週、日曜は、かかさず教会に行っている、自称、クリスチャンでも、わがまま勝手な、自己中心的な、人間を、いくらでも見てきている。
アメリカという国家にしても、その思想の、バックボーンは、キリスト教ということになっている。
では、アメリカという国家は、キリストの教えを守っているのか?
アメリカは、良い国なのか?
全然、そうは思えない。
つまり。
宗教の、教え、とか、教義、なんて、どうでもいいのだ。
「信仰によって、その人の人格が高まるのなら、それは、いい宗教だ」
ということだ。
これを、みんな、間違えて、とらえている。
だから、「悪魔を崇拝する、悪魔教」、という宗教でも、「信仰によって、その人の人格が高まるのなら、それは、いい宗教だ」
ということになる。
一般人は、オウム真理教は、間違った宗教で、それを、ひきついでいる、アレフとか、ひかりの輪、とかの、宗教は、無くせ、と言っている。
しかし。
アレフとか、ひかりの輪の、信者は、悪い人間なのか?
僕には、全くそう見えない。
むしろ、彼ら(アレフや、ひかりの輪の信者)は、おとなしく、信仰によって、心の平安を得ているようにしか、僕には見えない。
むしろ、アレフとか、ひかりの輪、とかの、宗教とかを、無くせ、と言っている人間の方に、業の深い、心の汚い、人間が無数にいる。
ように、僕には、思えて仕方がない。し、事実、そうである。
彼らは、日本国憲法に保障されている、信仰の自由を否定し、信者が当然、持っていいはずの、居住権まで否定しようとしている。
この、(モハメド・アリにとって)、という「条件」、は、とってしまっても、本当はいいのだが。
なので。
「モハメド・アリの宗教は、正しい。」
と言いきっても、いい。
モハメド・アリの信奉した宗教、イライジャ・モハメド、や、マルコムX、などは、過激な、黒人至上主義のイスラム教、の一派だと言われた。
確かに、良識的に考えても、その教えには、ちょっと過激な思想が多い。
それを、アメリカの、良識的な、評論家や学者たちは、間違っている、と指摘しつづけた。
彼らの言い分は、(良識的には)もっともである。
しかし。
だから、どうだといのうのだ。
モハメド・アリは、信者になる前も、人格的に良い人間だったが、信者になってからは、さらに、彼は、優れた人格者になった。
モハメド・アリは、「私は、信仰をもってから、自分を知り、自分の誇りを知り、愛を知り、勇気を知った」、と言っている。
し、それは、事実、その通りである。
アメリカの、良識的な、評論家や学者たちは、「君の教祖は、君の心を虫食んでいる」、と言ったが、現実を全く見ていない。
モハメド・アリは、信仰をもつようになってから、過激派とか、過激な人間になったというのか?
なってなんかいない。
イライジャ・モハメドの教えに、いくつかの、過激な発言がある→だから、イライジャ・モハメドの宗教は間違いである。というのが、評論家たちの、考えだ。
しかし。
結論から言えば。
宗教の、教え、だの、教義、なんてものは、どうでもいいことだ。
大切なのは。
「信仰によって、その人の人格が高まるのなら、それは、いい宗教だ」
ということだ。
逆に。
キリスト教、特に、プロテスタントは、いい宗教だと言われている。
しかし、私は、キリスト教の洗礼を受け、毎週、日曜は、かかさず教会に行っている、自称、クリスチャンでも、わがまま勝手な、自己中心的な、人間を、いくらでも見てきている。
アメリカという国家にしても、その思想の、バックボーンは、キリスト教ということになっている。
では、アメリカという国家は、キリストの教えを守っているのか?
アメリカは、良い国なのか?
全然、そうは思えない。
つまり。
宗教の、教え、とか、教義、なんて、どうでもいいのだ。
「信仰によって、その人の人格が高まるのなら、それは、いい宗教だ」
ということだ。
これを、みんな、間違えて、とらえている。
だから、「悪魔を崇拝する、悪魔教」、という宗教でも、「信仰によって、その人の人格が高まるのなら、それは、いい宗教だ」
ということになる。
一般人は、オウム真理教は、間違った宗教で、それを、ひきついでいる、アレフとか、ひかりの輪、とかの、宗教は、無くせ、と言っている。
しかし。
アレフとか、ひかりの輪の、信者は、悪い人間なのか?
僕には、全くそう見えない。
むしろ、彼ら(アレフや、ひかりの輪の信者)は、おとなしく、信仰によって、心の平安を得ているようにしか、僕には見えない。
むしろ、アレフとか、ひかりの輪、とかの、宗教とかを、無くせ、と言っている人間の方に、業の深い、心の汚い、人間が無数にいる。
ように、僕には、思えて仕方がない。し、事実、そうである。
彼らは、日本国憲法に保障されている、信仰の自由を否定し、信者が当然、持っていいはずの、居住権まで否定しようとしている。