◆(後日意見)部分を追加しました。
渡辺松男研究13『寒気氾濫』(2014年3月)まとめ
【寒気氾濫】(1997年)48頁~
参加者:崎尾廣子、鈴木良明、藤本満須子、渡部慧子、鹿取未放
レポーター:崎尾廣子 司会と記録:鹿取 未放
113 重力の自滅をねがう日もありて山塊はわが濁りのかたち
(レポート抄)
この一首では「重力の自滅をねがう日もありて」と言葉にしている。内にある濁りにも重力がかかり不動なのだ。浄化でき得ない自身の濁りを詠い切実である。(崎尾)
(当日発言)
★レポーターの書いている「内にある濁りにも重力がかかり不動なのだ」がよく分からないのです
が。(鹿取)
★濁りが心の中から動かない、という意味です。(崎尾)
★その意味ならここで「重力」という言葉は使わない方がいいのでは。比喩的表現としても紛らわ
しい気がします。(鹿取)
★自分の濁りのかたちである山塊がなくなってしまえばよいという歌です。ニーチェにとっても重
力は大事な力で、重力がなくなればわが濁りも無くなるんじゃないかと。(慧子)
★慧子さんのニーチェとの関連のさせ方は違うんじゃないかな。ツァラツストラは重力をあざ笑
いながら深山に消えたという渡辺さんの歌を以前やりましたが、あそこでは精神の高みに上ろう
とする自分を引きずりおろす力として重力といっているように思えましたが。私はこの歌ものす
ごく単純に、山登りが辛くて重力がなかったら楽なのに、と考えながら山塊を目の前にしている
のかと解釈していましたが。肉体的に辛くてある時ふっとそんな破滅的な考えが浮かんだと。ま
るで自分の心の「濁りのかたち」のように山塊が横たわって登山のじゃましていると。でもこれ
じゃ渡辺さんの歌らしくないですね。(鹿取)
★私は「重力の自滅」ってよく分からないです。自分の死を願う日もあるけど、ってことですか。
山塊を見ながらこれは自分の精神の濁りと同じで、動かないと思っているのでしょう。自分の自
滅なのか地球のことなのか、もっと他のことなのかよく分かりません。(藤本)
★この重力はニーチェと関係させなくても読める歌。自分の心身の濁りが山塊のように形をなして
いて、それは重くて辛いこと。そう考えると山塊は自分の力では取り払えないので、重力がなく
なってくれれば山塊も形をなくす可能性がある。(鈴木)
(後日意見)(2019年1月)
『泡宇宙の蛙』の重力の歌を鑑賞していて、この歌はとんでもなく的外れな鑑賞をしていたと気づいた。初期宇宙の発生時から重力は宇宙の基本構造を形作っているということだから、重力の自滅とは、たぶん宇宙の滅亡のことなのだろう。そしてそういう願いを持つ自分のこころの濁りを目の前にそびえる山塊に例えている歌なのだろう。この一連の表題は「寒気氾濫」で、歌集名と同一であり、掲出歌はその2首目。なお1首目は「みはるかす大気にひかる雨燕にわたくしの悲は死ぬとおもえず」である。今あげたような解釈をすれば1首目の美しく清新な歌にもきれいに繋がる。
(当日発言)の五つ目の★鹿取発言の中で言っている渡辺松男の歌は『寒気氾濫』冒頭一連中にある「重力をあざ笑いつつ大股でツァラツストラは深山に消えた」。
ついでなので、重力の定義を『ホーキング、宇宙と人間を語る』(2011年刊)から引いておく。【自然界の4つの基本的な力の中で、最も弱い力。質量エネルギーを持っているすべての物質間に働き、お互いを引きつける】
重力は全ての物質間に働くのだから、比喩的にいっても引っ張り下ろそうとする力ではないし、もちろん上からの圧力でもない。(鹿取)
渡辺松男研究13『寒気氾濫』(2014年3月)まとめ
【寒気氾濫】(1997年)48頁~
参加者:崎尾廣子、鈴木良明、藤本満須子、渡部慧子、鹿取未放
レポーター:崎尾廣子 司会と記録:鹿取 未放
113 重力の自滅をねがう日もありて山塊はわが濁りのかたち
(レポート抄)
この一首では「重力の自滅をねがう日もありて」と言葉にしている。内にある濁りにも重力がかかり不動なのだ。浄化でき得ない自身の濁りを詠い切実である。(崎尾)
(当日発言)
★レポーターの書いている「内にある濁りにも重力がかかり不動なのだ」がよく分からないのです
が。(鹿取)
★濁りが心の中から動かない、という意味です。(崎尾)
★その意味ならここで「重力」という言葉は使わない方がいいのでは。比喩的表現としても紛らわ
しい気がします。(鹿取)
★自分の濁りのかたちである山塊がなくなってしまえばよいという歌です。ニーチェにとっても重
力は大事な力で、重力がなくなればわが濁りも無くなるんじゃないかと。(慧子)
★慧子さんのニーチェとの関連のさせ方は違うんじゃないかな。ツァラツストラは重力をあざ笑
いながら深山に消えたという渡辺さんの歌を以前やりましたが、あそこでは精神の高みに上ろう
とする自分を引きずりおろす力として重力といっているように思えましたが。私はこの歌ものす
ごく単純に、山登りが辛くて重力がなかったら楽なのに、と考えながら山塊を目の前にしている
のかと解釈していましたが。肉体的に辛くてある時ふっとそんな破滅的な考えが浮かんだと。ま
るで自分の心の「濁りのかたち」のように山塊が横たわって登山のじゃましていると。でもこれ
じゃ渡辺さんの歌らしくないですね。(鹿取)
★私は「重力の自滅」ってよく分からないです。自分の死を願う日もあるけど、ってことですか。
山塊を見ながらこれは自分の精神の濁りと同じで、動かないと思っているのでしょう。自分の自
滅なのか地球のことなのか、もっと他のことなのかよく分かりません。(藤本)
★この重力はニーチェと関係させなくても読める歌。自分の心身の濁りが山塊のように形をなして
いて、それは重くて辛いこと。そう考えると山塊は自分の力では取り払えないので、重力がなく
なってくれれば山塊も形をなくす可能性がある。(鈴木)
(後日意見)(2019年1月)
『泡宇宙の蛙』の重力の歌を鑑賞していて、この歌はとんでもなく的外れな鑑賞をしていたと気づいた。初期宇宙の発生時から重力は宇宙の基本構造を形作っているということだから、重力の自滅とは、たぶん宇宙の滅亡のことなのだろう。そしてそういう願いを持つ自分のこころの濁りを目の前にそびえる山塊に例えている歌なのだろう。この一連の表題は「寒気氾濫」で、歌集名と同一であり、掲出歌はその2首目。なお1首目は「みはるかす大気にひかる雨燕にわたくしの悲は死ぬとおもえず」である。今あげたような解釈をすれば1首目の美しく清新な歌にもきれいに繋がる。
(当日発言)の五つ目の★鹿取発言の中で言っている渡辺松男の歌は『寒気氾濫』冒頭一連中にある「重力をあざ笑いつつ大股でツァラツストラは深山に消えた」。
ついでなので、重力の定義を『ホーキング、宇宙と人間を語る』(2011年刊)から引いておく。【自然界の4つの基本的な力の中で、最も弱い力。質量エネルギーを持っているすべての物質間に働き、お互いを引きつける】
重力は全ての物質間に働くのだから、比喩的にいっても引っ張り下ろそうとする力ではないし、もちろん上からの圧力でもない。(鹿取)