かまくらdeたんか 鹿取未放

馬場あき子の外国詠、渡辺松男のそれぞれの一首鑑賞。「かりん」鎌倉支部の記録です。毎日、更新しています。

渡辺松男の一首鑑賞 2の136

2019-02-08 18:33:43 | 短歌の鑑賞
  ブログ用渡辺松男研究2の18(2018年12月実施)
     Ⅲ〈錬金術師〉『泡宇宙の蛙』(1999年)P93~
     参加者:泉真帆、M・I、岡東和子、A・K、T・S、曽我亮子、渡部慧子、鹿取未放
     レポーター:泉真帆   司会と記録:鹿取未放


136 時に浸る千人のわれを祖父も父もかたっぱしからぶんなぐりにくる

     (レポート)
ある状態にどっぷりつかるという表現があるが、哲学や文学にかたむき、思索している、であろう作者、つまりわれを「時に浸る」と表現して、巧みさがまず光る。祖父や父には無為に時を過ごすとみられているはずのわれ、そのわれたるや千人もいるのだ。いつもいつもそのように時に浸っていることを千人のわれと表現して鮮やかだ。そんな作者われの様子を納得できない祖父や父は片っ端から、千人分をぶんなぐりにくるという。それぞれの有り様の違いが思われるが、まだぶんなぐられていないためか、なにか爽快なおもむきさえある。(慧子)


     (当日意見)
★自分のような人間が千人もいるのかと思っていましたが、レポートでわかりました。(岡東)
★ぶんなぐりに来るのは未来ではなくて現在のことだと思います。祖父と父はだいたい同じ価値観
 の人間で、自分だけが違うのでぶん殴られている。(真帆)
★前の歌から読むと思索的な作者と解釈できますが、上の句は一般論、モラトリアムの状態にある
 若者たちとも読めると思います。モラトリアム的な千人の若者を上の世代やさらに上の世代が、
 大家族を養うのが男だというような価値観でぶん殴りに来る。働かない若者にいらいらするんで
 すね。「時に浸る」は松男さん的な表現だと思いますが、それが文学や哲学をすることだとは私
 は結びつきませんでした。(A・K)
★今みたいに広げた読みも面白いと思いますが、父や祖父に比べて〈われ〉は肉体を動かして働く
 ことにあんまり向いていないという自覚。何度も紹介したダニが耐えていたらヒトは笑うだろう、
 ってある「日常宇宙」という評論ですけど、おじいさんのことが書かれていました。お百姓さん
 で、若くから鰥で、やたらに丈夫で、働いては食い働いては食いして、さびしいなんっていおう
 ものならぶん殴られたって。それは実際に手で殴ったか、言葉で殴ったかわかりませんが。こ 
 のうたでも実際に殴られている設定ですね。まだ殴られていないわけではない。(鹿取)
★鹿取さんの意見を聞いてわかりました。渡辺さん個人のこととして読む方がこの歌はずっとすっ
 きりする。渡辺さん、高等遊民みたいなところがあって、それをお父さんもお祖父さんも認めな
 い。本読んで音楽聴いてちゃらちゃらしている生活なんって認めない。歌としてその解釈の方が
 ずっといいと思います。(A・K)
★千人というのは日々そういう行動をしているということですね。(岡東)
★ぶん殴りに来るのはお説教だと思います。それが作者はこたえるんでしょう。(T・S)


      (後日意見)
 鹿取発言の「日常宇宙」、正確には以下の表現になっている。(鹿取)

若いうちから鰥夫で、しかしやたらに丈夫で、食ってははたらき、はたらいては食い、そしてほとんどしゃべることのなかった百姓の祖父を思い出してしまった。(中略)鯨のようにスケールの大きいものが、言葉なくその存在に耐えながら泳ぐからその淋しさもいいのであって、百姓の祖父の場合はかっこよくもなんともなかった。淋しいなどとは言えないし、言おうものならぶったおされた。

               


コメント
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