かまくらdeたんか 鹿取未放

馬場あき子の外国詠、渡辺松男のそれぞれの一首鑑賞。「かりん」鎌倉支部の記録です。毎日、更新しています。

渡辺松男の一首鑑賞 2の130

2019-02-01 17:51:47 | 短歌の鑑賞
  なぎさ用渡辺松男研究2の17(2019年1月実施)
     Ⅱ【膨らみて浮け】『泡宇宙の蛙』(1999年)P85~
     参加者:泉真帆、M・I、K・O、岡東和子、A・K、T・S、
       曽我亮子、渡部慧子、鹿取未放
     レポーター:泉真帆   司会と記録:鹿取未放


130 わずかばかりのさみしさは地へ花片散りサラリーマンは日々減塩す

          (レポート)
 この歌は「地へ」で一旦切れる(上句七七の)二句切れの歌だとおもう。サラリーの語源は塩だというが、一首にはわが身を削って(滴りおちた汗や涙の塩が)給与になってゆくさまが表現されているのではないだろうか。またもし「さみしさ」を作者の詩心ととらえるならば、作者の身に残るさみしさが少しずつ地へ散ってゆくさま、すなわち自分の詩心を仕事に喰われてゆくさまを詠っているようにも思われる。(真帆) 


      (当日意見)
★地へ花弁が散るのと、日々減塩するのと、何を言おうとしているのかな。塩が減るって自分の存
 在が減っていくことなのかな。花が散るようにサラリーマンは自分の存在が消されていくという
 か薄くなっていく。歌意の取り方ですが、どうとったら渡辺さんの言いたいことになるのかなと。
    (A・K)     
★普通の意味合いで、健康を保つために減塩しているんじゃないですか。「わずかばかりのさみし
 さは」で叙述が一旦止まって、でも気分的には下に繋がっていくのかな。「地へ花弁散り」は実
 景(まあ実景で無くても実景という設定)、そして「サラリーマンは日々減塩す」に繋がる。日
 々減塩にいそしむのは「わずかばかりのさみしさ」を伴う。美しい花が咲き終わって地に散って
 ゆくのもさみしいこと。こういう叙述を一旦停止する言い方を松男さんはたいへんよくされます。
  昨日、たまたま坂井修一さんの『鑑賞・現代短歌七 塚本邦雄』(本阿弥書店)を読んでいた
 のですが、ちょっと似た造りなので挙げてみます。『日本人靈歌』のなかの「突風に生卵割れ、
 かつてかく撃ちぬかれたる兵士の眼」についてです。(鹿取)
   この歌は、二句切れである。二句目は、連用形で叙述未了のまま終わっているが、ここで読
   点(とうてん)がついている。このように、活用の上では切れを作らず、読点によって、あ
   るいは意味内容をもって、切れてゆくことで、上句と下句の照応に異様なものや鋭いものを
   持たせようとしている。(後略)
★さみしさを具象化したものが散る花弁なんでしょうね。日々減塩するのは現実的なことだと思い
 ますが、A・Kさんがおっしゃった身が削られていくような思いというのも、作者が意識的か無
 意識かわかりませんが投影されているのかもしれません。A・Kさんのはそういう意味で深い読
 みだと思いました。現実と心象が入り乱れているというか、並列で一緒に存在している。
  (K・O)

コメント
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