渡辺松男研究34(16年1月実施)
【バランスシート】『寒気氾濫』(1997年)115頁~
参加者:石井彩子、M・S、鈴木良明、曽我亮子、渡部慧子、鹿取未放
レポーター:渡部 慧子 司会と記録:鹿取 未放
282 トラックの助手席から降りてきし女タオルとともに『フーコー』を持つ
(レポート)
ある女は汗拭きだろうタオルを持ちトラックの助手席から降りてきたというからトラックの運送のアルバイトか仕事をしていると思われ又『フーコー』を持っている。女性にはめずらしい仕事をしているが、価値観の云々は別として、ものにとらわれていないことは言えるだろう。リポーターは『フーコー』をとらえられないし、要約も出来ない、ゆえに掲出歌の鑑賞もおぼつかないので、ある書物のあとがきの抜粋をして、これを終えたい。(慧子)
【この後に、『フーコー 他のように考え、そして生きるために』(NHK出版)の
著者、神崎繁氏のあとがきからの長い引用があるが、ブログ掲載は割愛させていた
だく。】
(当日意見)
★フーコーは石井さんに説明してもらいましょう。(鹿取)
★フーコーは有名な同性愛の哲学者ですね。ニーチェと同じように「理性」や「真理」とい
う絶対的価値観を壊した人です。『狂気の歴史』には「理性」の名のもとに、社会の秩序
に合わない人々、身体障害者、精神に病を持つ人、同性愛者らを隔離する記述があり、フ
ーコー は「理性」は 絶対的なものではなく、単なる解釈、記号にすぎない、この理性こ
そ狂気ではないか、といって います。(石井)
★それで、この歌についてはいかがですか。(鹿取)
★この女性はフーコーの伝記みたいなものを持っていたのかな。そしてその内容にこの女性
は共感しています。現実に汗水を垂らして生きている、ものを考えたり、そういった世界
とは違う世界 の人の生きざまを詠っていらっしゃるのかなと。(石井)
★石井さんの意見は同性愛者のところが強調され過ぎと思います。『フーコー』は二重カギ
括 弧だからジル・ドゥルーズという人が書いた本かなと。(鈴木)
★ポスト構造主義の人ですよね。(石井)
★その『フーコー』の中で何を言っているかというと死の権力と生の権力です。死の権力と
いうのは中世の頃、国王がいて臣下を支配していた。刃向かうといつ殺されるか分からな
い。革命以降は権力者がいなくなってみんな平等です、自由にやっていいですよと言って
いるにもかかわらず、治家が権力をもっているわけです。それを生の権力と言っているの
す。ジル・ドゥルーズという人は現代をツリー構造とリゾーム状と2つに分けたのです。
ツリー状は権力的なピラミッド状、リゾームはウエッブのように蜘蛛の巣状になっていて
対等にやり取りできる。そこでノマド という言葉が出てきます。ノマドは遊牧地のこ
とで全てが自由に遊べる。ところが私有地として 囲っていますと一般の人は入れなく
なる。そこでドゥルーズは、もともと存在は私有地などに拘 束されなくてやってこれ
たと説く。私なりに考えてみると入会権とか入り浜権とか昔はあった。自由に山に入っ
てキノコを採ったり、浜で貝をとったりできた。そんなふうに人間はもともとマドに逃
げていくことが出来るんだとドゥルーズは言っています。この歌では助手席にいるとい
うことは運転手が威張っているわけです。助手席の女性は使いっ走りのような存在なの
ですが、『フーコー』を持っているからにはノマド的な生き方をしている。解放されて
いる人じゃないか。 この歌は頭で理解するのではなく、慧子さんが言われたように
「感じ取る歌」ではないか。(鈴木)
★松男さんは『フーコー』を軽い気持ちで詠んでいるので、さっき石井さんが言ったような
同性愛者としての見方も面白いなとは思うんですよ。ただ『フーコー』というカギ括弧が
付いていたんでドゥルーズまで持ち出したのですが。(鈴木)
★理性は人間が作り上げた権力だということを言っています。ニーチェが権力の意志といっ
たことに連なります、特定の視点を絶対化し、それを真実と思わせる理性、それをフーコ
ーは権力だと述べるのです。(石井)
★松男さんは以前にもトラックを運転している弟とかキャベツを運ぶトラックとかにシンパ
シーもって詠んでいます。この歌もそんなに深入りしないでいいのかなと。この歌の女性
は助手席に乗っているから運転手から搾取されている存在とかは思わなくて、トラックに
乗務して働く逞しい女性で、価値の転倒ということを考えたフーコーという人に関心を抱
いている人だ、くらいの意味かなと。もっと一般的にいうと、ブルーカラーの女性が知的
な本を持っていたので、おやっと好もしく思った。(鹿取)
★私もそう思っています。要するに生の権力とか言っても見えないのです。普通の女性がそ
うやって自分らしい……(鈴木)
★鹿取さんの言っているとおりと思いますが、『フーコー』を他の題名にしたらどうなんで
しょう。やっぱりフーコーに 意味を持たせているのでしょう。(石井)
★『フーコー』の感じを分からせたいと思って作者も作っている。生の権力なんて言葉は仰
々しいけどみんな日頃感じている事です。それをどういう風に書くかです。(鈴木)
★もちろんニーチェではなくフーコーだということに意味はあると思います。97年発行の
歌集ですが、男女雇用機会平等法が施行されたりした後ですよね。こういう女性に肯定の
目を向けているのでしょう。(鹿取)
★松男さんは男女に拘らない人です。作者の中に男性的部分、女性的部分があるんです。両
方の視点から見ています。性に拘っていない。同性愛者にも偏見をもっていない。
(鈴木)
(後日意見)①
優れた表現者が両性具有的視点を備えていることは積極的に肯定するし、松男さんもその一人だと思う。しかし、たびたび引用している『寒気氾濫』冒頭の「地下に還せり」巻頭歌は〈八月をふつふつと黴毒(ばいどく)のフリードリヒ・ニーチひげ濃かりけり〉であり、同章内には〈同性愛三島発光したるのち川のぼりゆく無尽数の稚魚〉がある。歌集冒頭で自分のもっているさまざまなものを出して見せていると考えると、両性具有的視点というよりも思想家や作家などの性的嗜好に関心があるように思われる。歌集中には〈赤尾敏と東郷健の政見を聞き漏らさざりし古書店主逝く〉もあり、やはり同性愛者への強い関心の現れだろうか。ただしこの一首の解釈としては、同性愛ということに深く踏み込む必要はないように思う。(鹿取)
(後日意見)②
「男女雇用機会平等法…」云々という社会状況とリンクさせると、この歌の真価がどうもぼやける感じがします。松男氏の歌は時空を超えています。むしろ存在論的に鑑賞した方がよいとおもいます。(石井)
(後日意見)③
この一首はフーコーが同性愛者だという認識なしには、鑑賞できない。フーコーは社会の規範、制度といった権力構造と闘い「人はみな、ゲイになるように努力するべきだ」と豪語し、エイズで亡くなった。
『フーコー』は、遍在し、時空に漂うフーコーそのものだ。フーコーは制度によって男だとか、女といって規定されることを拒否する。運転席には「男」であるフーコーがいる。同性愛は知=肉体の融合という点では、異性愛よりも優っている。「女」と分類された人が持っていたのはタオルだ。タオルはフーコーの精神を具象化したもので、汗→労働→エロスであり、同性愛の象徴でもある。トラックに乗ってあちこち移動することは、定住を拒み必要性に応じて、住処を転々と変える遊牧民族に似ている。それを『フーコー』の作者、ジル・ドゥルーズは「ノマド」といった。かれらは法や契約、制度によって固定化され動きのない社会=領土にやってきて「脱領土化」を図る。これを「ノマド的」という。このように外から運動がやってくることを受け入れることは固定した社会に新しい価値を生みだすことになる。ノマド、あるいは「ノマド的」になることはフーコーにとってもジル・ドゥルーズにとっても理想郷であった。(石井)
【バランスシート】『寒気氾濫』(1997年)115頁~
参加者:石井彩子、M・S、鈴木良明、曽我亮子、渡部慧子、鹿取未放
レポーター:渡部 慧子 司会と記録:鹿取 未放
282 トラックの助手席から降りてきし女タオルとともに『フーコー』を持つ
(レポート)
ある女は汗拭きだろうタオルを持ちトラックの助手席から降りてきたというからトラックの運送のアルバイトか仕事をしていると思われ又『フーコー』を持っている。女性にはめずらしい仕事をしているが、価値観の云々は別として、ものにとらわれていないことは言えるだろう。リポーターは『フーコー』をとらえられないし、要約も出来ない、ゆえに掲出歌の鑑賞もおぼつかないので、ある書物のあとがきの抜粋をして、これを終えたい。(慧子)
【この後に、『フーコー 他のように考え、そして生きるために』(NHK出版)の
著者、神崎繁氏のあとがきからの長い引用があるが、ブログ掲載は割愛させていた
だく。】
(当日意見)
★フーコーは石井さんに説明してもらいましょう。(鹿取)
★フーコーは有名な同性愛の哲学者ですね。ニーチェと同じように「理性」や「真理」とい
う絶対的価値観を壊した人です。『狂気の歴史』には「理性」の名のもとに、社会の秩序
に合わない人々、身体障害者、精神に病を持つ人、同性愛者らを隔離する記述があり、フ
ーコー は「理性」は 絶対的なものではなく、単なる解釈、記号にすぎない、この理性こ
そ狂気ではないか、といって います。(石井)
★それで、この歌についてはいかがですか。(鹿取)
★この女性はフーコーの伝記みたいなものを持っていたのかな。そしてその内容にこの女性
は共感しています。現実に汗水を垂らして生きている、ものを考えたり、そういった世界
とは違う世界 の人の生きざまを詠っていらっしゃるのかなと。(石井)
★石井さんの意見は同性愛者のところが強調され過ぎと思います。『フーコー』は二重カギ
括 弧だからジル・ドゥルーズという人が書いた本かなと。(鈴木)
★ポスト構造主義の人ですよね。(石井)
★その『フーコー』の中で何を言っているかというと死の権力と生の権力です。死の権力と
いうのは中世の頃、国王がいて臣下を支配していた。刃向かうといつ殺されるか分からな
い。革命以降は権力者がいなくなってみんな平等です、自由にやっていいですよと言って
いるにもかかわらず、治家が権力をもっているわけです。それを生の権力と言っているの
す。ジル・ドゥルーズという人は現代をツリー構造とリゾーム状と2つに分けたのです。
ツリー状は権力的なピラミッド状、リゾームはウエッブのように蜘蛛の巣状になっていて
対等にやり取りできる。そこでノマド という言葉が出てきます。ノマドは遊牧地のこ
とで全てが自由に遊べる。ところが私有地として 囲っていますと一般の人は入れなく
なる。そこでドゥルーズは、もともと存在は私有地などに拘 束されなくてやってこれ
たと説く。私なりに考えてみると入会権とか入り浜権とか昔はあった。自由に山に入っ
てキノコを採ったり、浜で貝をとったりできた。そんなふうに人間はもともとマドに逃
げていくことが出来るんだとドゥルーズは言っています。この歌では助手席にいるとい
うことは運転手が威張っているわけです。助手席の女性は使いっ走りのような存在なの
ですが、『フーコー』を持っているからにはノマド的な生き方をしている。解放されて
いる人じゃないか。 この歌は頭で理解するのではなく、慧子さんが言われたように
「感じ取る歌」ではないか。(鈴木)
★松男さんは『フーコー』を軽い気持ちで詠んでいるので、さっき石井さんが言ったような
同性愛者としての見方も面白いなとは思うんですよ。ただ『フーコー』というカギ括弧が
付いていたんでドゥルーズまで持ち出したのですが。(鈴木)
★理性は人間が作り上げた権力だということを言っています。ニーチェが権力の意志といっ
たことに連なります、特定の視点を絶対化し、それを真実と思わせる理性、それをフーコ
ーは権力だと述べるのです。(石井)
★松男さんは以前にもトラックを運転している弟とかキャベツを運ぶトラックとかにシンパ
シーもって詠んでいます。この歌もそんなに深入りしないでいいのかなと。この歌の女性
は助手席に乗っているから運転手から搾取されている存在とかは思わなくて、トラックに
乗務して働く逞しい女性で、価値の転倒ということを考えたフーコーという人に関心を抱
いている人だ、くらいの意味かなと。もっと一般的にいうと、ブルーカラーの女性が知的
な本を持っていたので、おやっと好もしく思った。(鹿取)
★私もそう思っています。要するに生の権力とか言っても見えないのです。普通の女性がそ
うやって自分らしい……(鈴木)
★鹿取さんの言っているとおりと思いますが、『フーコー』を他の題名にしたらどうなんで
しょう。やっぱりフーコーに 意味を持たせているのでしょう。(石井)
★『フーコー』の感じを分からせたいと思って作者も作っている。生の権力なんて言葉は仰
々しいけどみんな日頃感じている事です。それをどういう風に書くかです。(鈴木)
★もちろんニーチェではなくフーコーだということに意味はあると思います。97年発行の
歌集ですが、男女雇用機会平等法が施行されたりした後ですよね。こういう女性に肯定の
目を向けているのでしょう。(鹿取)
★松男さんは男女に拘らない人です。作者の中に男性的部分、女性的部分があるんです。両
方の視点から見ています。性に拘っていない。同性愛者にも偏見をもっていない。
(鈴木)
(後日意見)①
優れた表現者が両性具有的視点を備えていることは積極的に肯定するし、松男さんもその一人だと思う。しかし、たびたび引用している『寒気氾濫』冒頭の「地下に還せり」巻頭歌は〈八月をふつふつと黴毒(ばいどく)のフリードリヒ・ニーチひげ濃かりけり〉であり、同章内には〈同性愛三島発光したるのち川のぼりゆく無尽数の稚魚〉がある。歌集冒頭で自分のもっているさまざまなものを出して見せていると考えると、両性具有的視点というよりも思想家や作家などの性的嗜好に関心があるように思われる。歌集中には〈赤尾敏と東郷健の政見を聞き漏らさざりし古書店主逝く〉もあり、やはり同性愛者への強い関心の現れだろうか。ただしこの一首の解釈としては、同性愛ということに深く踏み込む必要はないように思う。(鹿取)
(後日意見)②
「男女雇用機会平等法…」云々という社会状況とリンクさせると、この歌の真価がどうもぼやける感じがします。松男氏の歌は時空を超えています。むしろ存在論的に鑑賞した方がよいとおもいます。(石井)
(後日意見)③
この一首はフーコーが同性愛者だという認識なしには、鑑賞できない。フーコーは社会の規範、制度といった権力構造と闘い「人はみな、ゲイになるように努力するべきだ」と豪語し、エイズで亡くなった。
『フーコー』は、遍在し、時空に漂うフーコーそのものだ。フーコーは制度によって男だとか、女といって規定されることを拒否する。運転席には「男」であるフーコーがいる。同性愛は知=肉体の融合という点では、異性愛よりも優っている。「女」と分類された人が持っていたのはタオルだ。タオルはフーコーの精神を具象化したもので、汗→労働→エロスであり、同性愛の象徴でもある。トラックに乗ってあちこち移動することは、定住を拒み必要性に応じて、住処を転々と変える遊牧民族に似ている。それを『フーコー』の作者、ジル・ドゥルーズは「ノマド」といった。かれらは法や契約、制度によって固定化され動きのない社会=領土にやってきて「脱領土化」を図る。これを「ノマド的」という。このように外から運動がやってくることを受け入れることは固定した社会に新しい価値を生みだすことになる。ノマド、あるいは「ノマド的」になることはフーコーにとってもジル・ドゥルーズにとっても理想郷であった。(石井)
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