馬場あき子の外国詠56(2012年9月)
【中欧を行く カレル橋】『世紀』(2001年刊)P116~
参加者:K・I、崎尾廣子、曽我亮子、藤本満須子、渡部慧子、鹿取未放
レポーター:N・I(欠席、レポートのみ) 司会と記録:鹿取 未放
406 カフカ棲みし青い家ふと覗けども小さな白い花が棲むのみ
(レポート)
黄金の小道と呼ばれて金細工師たちが住んでいた処にカフカも半年ほど住んでいたらしい。この町は夢遊病者のように歩き回れる迷路が多い。青い家と白い花はそのことをさしているのではないでしょうか。(N・I)
(当日発言)
★レポートの「夢遊病者のように歩き回れる迷路」って、意味がとれません。(鹿取)
★黄金小路は昔、金細工師達が住まわせられていた狭い通り。まっすぐな道だからレポーターの
いうような迷路ではない。(曽我)
★調べたらプラハ城の一角に黄金の小路と呼ばれる道がある。そこにカフカの仕事部屋が在っ
たのではないか。鹿取さんから見せてもらった友人の旅行記によると、1945年までユダ
ヤ人居住地があり、カフカ家もユダヤ人だったのでこの地に家があった。平屋の家を覗いたこ
とをその友人は書いているが、仕事部屋として借りていたものではないか。(藤本)
★作者の頭には「変身」があって、カフカの住んでいた家を覗く時も何となく主人公が変身した
虫を想像していたが、実際は虫ではなく花がすんでいたわ、ということで「棲む」という文字
を使ったのではないか。(崎尾)
★カフカのお父さんは貧しいユダヤの出身だが、商売に成功して裕福だった。お金が出来る度に
どんどん広い家に引越をしたし、カフカも小説を書くために何度も家を借りた。ここもその一
つだろう。観光名所となった「青い家」を覗いたら白い花が棲んでいたわという。カフカの創
造の苦しみはあとかたもなかった、ということを言いたかったのではないか。(鹿取)
(追記)(2012年9月)
カフカの父はカフカが小説を書くのに反対だったが、3人の妹たちは小説書きを応援していた。 プラハ城内の黄金小路(=錬金術師通り)にあった「青い家」は末妹が借りていたもので、1916年11月から翌年4月までカフカが仕事部屋として使った。また1914年夏には上の妹の借りていた部屋を、その秋から冬には中の妹の借りた家を仕事場にしていたそうだ。
一家は8回転居しており、最後は1913年から住んだ家で、中世の面影を遺す旧市街地に在る。辺りは古くから商業の中心地で、最後の家の斜め向かいの旧宮殿の一階には父が高級ブティック「カフカ商会」の店を構えていた。「青い家」へは自宅からカレル橋を渡って毎日夜食持参で通ったという。「青い家」は現在、本屋となっている。カフカの生家も最後の家のすぐ近くにあったが、現在は一部を残して別の建物となり「カフカ記念館」が置かれている。外壁にはカフカのレリーフが掲げられているという。(『となりのカフカ』(池内紀)等を参照) (鹿取)
【中欧を行く カレル橋】『世紀』(2001年刊)P116~
参加者:K・I、崎尾廣子、曽我亮子、藤本満須子、渡部慧子、鹿取未放
レポーター:N・I(欠席、レポートのみ) 司会と記録:鹿取 未放
406 カフカ棲みし青い家ふと覗けども小さな白い花が棲むのみ
(レポート)
黄金の小道と呼ばれて金細工師たちが住んでいた処にカフカも半年ほど住んでいたらしい。この町は夢遊病者のように歩き回れる迷路が多い。青い家と白い花はそのことをさしているのではないでしょうか。(N・I)
(当日発言)
★レポートの「夢遊病者のように歩き回れる迷路」って、意味がとれません。(鹿取)
★黄金小路は昔、金細工師達が住まわせられていた狭い通り。まっすぐな道だからレポーターの
いうような迷路ではない。(曽我)
★調べたらプラハ城の一角に黄金の小路と呼ばれる道がある。そこにカフカの仕事部屋が在っ
たのではないか。鹿取さんから見せてもらった友人の旅行記によると、1945年までユダ
ヤ人居住地があり、カフカ家もユダヤ人だったのでこの地に家があった。平屋の家を覗いたこ
とをその友人は書いているが、仕事部屋として借りていたものではないか。(藤本)
★作者の頭には「変身」があって、カフカの住んでいた家を覗く時も何となく主人公が変身した
虫を想像していたが、実際は虫ではなく花がすんでいたわ、ということで「棲む」という文字
を使ったのではないか。(崎尾)
★カフカのお父さんは貧しいユダヤの出身だが、商売に成功して裕福だった。お金が出来る度に
どんどん広い家に引越をしたし、カフカも小説を書くために何度も家を借りた。ここもその一
つだろう。観光名所となった「青い家」を覗いたら白い花が棲んでいたわという。カフカの創
造の苦しみはあとかたもなかった、ということを言いたかったのではないか。(鹿取)
(追記)(2012年9月)
カフカの父はカフカが小説を書くのに反対だったが、3人の妹たちは小説書きを応援していた。 プラハ城内の黄金小路(=錬金術師通り)にあった「青い家」は末妹が借りていたもので、1916年11月から翌年4月までカフカが仕事部屋として使った。また1914年夏には上の妹の借りていた部屋を、その秋から冬には中の妹の借りた家を仕事場にしていたそうだ。
一家は8回転居しており、最後は1913年から住んだ家で、中世の面影を遺す旧市街地に在る。辺りは古くから商業の中心地で、最後の家の斜め向かいの旧宮殿の一階には父が高級ブティック「カフカ商会」の店を構えていた。「青い家」へは自宅からカレル橋を渡って毎日夜食持参で通ったという。「青い家」は現在、本屋となっている。カフカの生家も最後の家のすぐ近くにあったが、現在は一部を残して別の建物となり「カフカ記念館」が置かれている。外壁にはカフカのレリーフが掲げられているという。(『となりのカフカ』(池内紀)等を参照) (鹿取)
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