かまくらdeたんか 鹿取未放

馬場あき子の外国詠、渡辺松男のそれぞれの一首鑑賞。「かりん」鎌倉支部の記録です。毎日、更新しています。

馬場あき子の外国詠 405(中欧)

2020-04-23 17:12:14 | 短歌の鑑賞
 馬場あき子の外国詠56(2012年9月)
     【中欧を行く カレル橋】『世紀』(2001年刊)P116~
       参加者:K・I、崎尾廣子、曽我亮子、藤本満須子、渡部慧子、鹿取未放
     レポーター:N・I(欠席、レポートのみ)    司会と記録:鹿取 未放


405 人体はなまなまとして苦しげなりカレル橋いつ雪に埋もれむ 

          (レポート)
 カレル橋は城下町と旧市街地を結ぶために造られた石橋。両側の欄干には30もの聖者の像があり、フランシスコ・ザビエルを担ぐ東洋人の中には日本の武士の姿もある。多くの戦いを経験した橋故の聖者とはいえ生々しい人間くささを感じたのではないか。せめて清浄な雪が降って一刻でも苦しさを消したい願望なのではないでしょうか。(N・I)

           (当日発言)
★レポートの「フランシスコ・ザビエルを担ぐ東洋人の中には日本の武士の姿もある」については、
 そう断定していいのかなあという気がします。(鹿取)
★人体とは橋を渡っている人のこと。それはカレル橋でもあるがもっと抽象的な頭の中に存在する
 橋でもよい。お能の橋がかりのようなことも考えられたのじゃないか。そして人体は何となまな
 ましいんだろうと。良い歌だ。(慧子) 
★慧子さんがいうまでは聖像のことだと思っていた。服をまとってはいるが通る人に見られてなま
 なまと苦しそうだと。(崎尾)
★人間か聖像か迷ったが、下の句の関連からすると聖像。また「苦しげ」という言いまわしは観察
 者のもの。人間の内面をリアルに表した結果、苦悩を背負った多くの像がカレル橋には建つこと
 になった。「いつ雪に埋もれむ」は直訳すれば「いつ雪に埋もれるのだろう」だけど、苦しげな
 像たちを雪で覆ってやりたいっと思ったのではないか。(鹿取)
★前の歌からの関連で読むと当然聖像。たとえばザビエルひとりとっても苦しい生き様だったわけ
 だから。(藤本)
★なまなまを活かすと歴史を負った苦しみというのは違う感じ。(崎尾)
★私も藤本さんも歴史を負った苦しみとは言っていないです。人間の内面をリアルに彫った結果、
 聖像といえどもなまなまとした苦しげな様子で建っている、というのです。(鹿取)
★聖像だったらなまなましいとは書かないのではないか。(曽我)
★生々しいのはやはり歩いている人だと思う。頭の中には別の抽象的な橋があって、そこにも人が
 歩いている。現実のカレル橋を渡る人と、想像上の橋を渡る人とその両方の上に雪が降って包ん
 でくれないかなあと思っている。(慧子)
★慧子さんの解釈はよく分からない。なぜ抽象的な橋が出てくるのか。雪に埋もれさせるのは、聖
 像でしかありえない。(藤本)
★では、なまなまと形容されているのは、橋に建つ聖像、橋を歩いている人間、両方の意見があっ
 たということを書いておきましょう。(鹿取)


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