かまくらdeたんか 鹿取未放

馬場あき子の外国詠、渡辺松男のそれぞれの一首鑑賞。「かりん」鎌倉支部の記録です。毎日、更新しています。

渡辺松男の一首鑑賞 2の236

2020-01-13 19:26:08 | 短歌の鑑賞
  渡辺松男研究2の30(2019年12月実施)
     Ⅳ〈月震〉『泡宇宙の蛙』(1999年)P151~
     参加者:泉真帆、岡東和子、A・K、菅原あつ子(紙上参加)、
         渡部慧子、鹿取未放
     レポーター:渡部慧子    司会と記録:鹿取未放

236 驢(ろ)と生まれただ水草をおもいみるまずしさよ吾は鞭打たれいし
   
            (レポート)
 驢と生まれてうつむきがちの生を生きているので、ものを思う時など下にあるものを自ずと見て水草を思ったりしている。それは貧しいことであるよと言う。水の流れのままに揺れる水草を思うとは貧しいながらも貧しさに汚れていない感じがある。さらに水草のその様子は自然なのだと作中主体は思っていよう。だからというのでは無いが、鞭に撃たれいしということも、悲愴でも愚痴でも無くつぶやきのようである。(慧子)

           (紙上意見) 
 粗食に耐え、丈夫なロバは人間にとっては都合のいい家畜だが、そのロバと生まれるのは哀れだ。けれど哀れと思うことも知らず、ただわずかな水と草を与えられるのを待ち、働かされている。なんとまずしいことか。けれど、自分もロバと同じように、生活の為に、上司や社会や周りの要求のままに、使われ働かされているではないか。そのことに気付き、作者は鞭打たれているのだろう。結句の言い切りの強さに作者の苦しさが表されていて、読むものに、自分も同じロバかもしれぬと思わせる歌。この作者にしては、わかりやすく強い歌だが、それほどにこの時期の作者は苦しい思いで働いていたのだろう。(菅原)

            (当日意見)
★菅原さんのレポートを読んでいると、この作者の歌にしてはわかりやすいなと思
 いました。(岡東)
★松男さんの歌は、なるべく書いてある通りに読もうと思っているので、この人は
 驢馬に生まれたんですね。それで餌である水草のことばかり思って生きている。
 そら、働けと言ってむち打たれていたものだ。なぜ結句が過去になるのか、今は
 鞭打たれないのか、ちょっとわからない。水草は餌ではなく水草の生える水辺で
 驢馬にとっての唯一の憩いの場かもしれないけど。作者の苦しい仕事の投影とい
 うのはその通りなんだけど、敢えて言わなくてもいいかと。それとも解釈だから
 言っておく必要があるのかな。でも驢馬=作者と解釈すると歌は平板でつまらな
 くなる。(鹿取)
★貧しさよは、水草を思い見ることしかできなかったことを言っている。鞭打たれ
 たのが過去なのは、今だったら何か対処ができるのに、昔は鞭打たれるままでし
 か無かった。(泉)
★水草は餌ではなくて、たかがしれたもんだけど、それを思い浮かべている。だけ
 ど三句に「まずしさよ」っていうのはいらないだろうと思う。「まずしさよ」がな 
 くても、力の弱い使役される頼りない存在だって事は出ています。下の句もおん
 なじ事を言っている。「鞭打たれいし」ってダメ押しでしょう。みんな同じ調子で 
 すよね。(A・K)
★もし水草が餌でなかったら、それを思い見るかすかな詩的な余白があるわけです
 よね。ふっくらとした何かがここにはあると思うんですが。(鹿取)
★水草は清らかで流れていて。驢馬は抵抗できないわびしい存在だけど、水草を思 
 うことはできる。願いとか祈りがここにはある。でも、貧しさ、鞭打たれという
 のは肯えない。この作者がそんなことをわからない訳はないので、私にわからな
 いもっと深い何かがあるのでしょうか。(A・K)



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