改訂版渡辺松男研究2の2(2017年7月実施)
『泡宇宙の蛙』(1999年)【蟹蝙蝠】P14~
参加者:泉真帆、T・S、曽我亮子、A・Y、渡部慧子、鹿取未放
レポーター:泉 真帆 司会と記録:鹿取未放
9 蟹蝙蝠(かにこうもり)大群生して霧深したれに逢いたくて吾は生まれしや
(レポート)
蟹蝙蝠はキク科の多年草で、山の針葉樹林の下に群生する。霧深い山奥で、蟹の甲羅に似た葉が、辺り一帯に群生しているを見ながら作者はふと、自分は誰に会いたくてこの世に生まれたのだろうと問う。
私は一首を読み、まず「蟹蝙蝠大群生して」という表現に引き込まれた。「蟹蝙蝠」は植物なのに、初句にポンと置かれたことにより、字面からまるで蟹がうじゃうじゃ、蝙蝠がバタバタ飛んでいるかのような錯覚をしてしまった。霧深い中で、植物のむせかえるような生命力が、匂いや肌に帯びる湿り気とともに伝わってくる。生の目的を問うのではなく、誰に逢いたくて生まれたのかと問うところに、作者の存在自体が相聞歌であると思わせるような、壮大なロマンを感じた。「大群生して霧深し」と巧みな三句切れの修辞が、下句の自問する心情に余韻を醸す効果をもたらしていると思った。(真帆)
(当日意見)
★霧がポイントかなあと思います。登山をしていて霧に巻かれると幻想的な気分に
なります。お母さんのことを思い出されたのかもしれませんね。(A・Y)
★今のはいい意見ですよね。蟹蝙蝠ってインパクトのある言葉ですけれど、霧が深
いことも大事ですよね。さっきまで見渡す限り蟹蝙蝠が群生している谷か何かを
見下ろしていたんだけど、霧が深いのでもう自分の周囲しか見えなくなった。そ
んな時に自分は誰に逢いたくて生まれてきたんだろうって問いがふっと浮かんで
くる。問いへ繋がる気分がとってもなだらかで余韻がありますね。真帆さんが書
いているように、ホント壮大なロマンを感じます。(鹿取)
(後日意見)(2020年6月)(鹿取)
現代秀歌101首という「短歌」2004年8月号の特集で、前登志夫が現代の歌人たちの歌に疑問を投げかけている。曰く「人間の自在な豊かさにいささか欠けている」「人間の生の無意識なものが少し希薄になり、整理され過ぎている」と。渡辺松男の歌はこの逆だというのだろう。そして掲出歌を挙げて次のように批評している。(結句は「生まれしや」であるが前登志夫の引用では「生まれしか」となっている。引用の時点で前氏がまちがったのであろうか?あるいは誤植か?)
「たれに逢いたくて吾は生まれしか」と、人は問う。死ぬまで問う。その問
いだけでよろしい。つづまりは「われ」であろう。
また、『寒気氾濫』『泡宇宙の蛙』『歩く仏像』の三歌集を評して、「救世主ぶった偉そうなところや傲慢さがなく、むしろ剽げてさえいる」と評価している。さらに『泡宇宙の蛙』から下記の3首を引用している。
このところ白根(しらね)葵(あおい)がわれである きみをおもえばそよぐそよかぜ
蛇なりとおもう途端に蛇となり宇宙の皺のかたすみを這う
鳥のおもさとなりうれば死はやすからん大白檜曾(おおしらびそ)に蒿雀(あおじ)さえずる
「渡辺松男氏の歌のユニークなのは、おれのいのちの全体が、一木一草であり、蛇であり蛙であるという発想である。」(前登志夫)
『泡宇宙の蛙』(1999年)【蟹蝙蝠】P14~
参加者:泉真帆、T・S、曽我亮子、A・Y、渡部慧子、鹿取未放
レポーター:泉 真帆 司会と記録:鹿取未放
9 蟹蝙蝠(かにこうもり)大群生して霧深したれに逢いたくて吾は生まれしや
(レポート)
蟹蝙蝠はキク科の多年草で、山の針葉樹林の下に群生する。霧深い山奥で、蟹の甲羅に似た葉が、辺り一帯に群生しているを見ながら作者はふと、自分は誰に会いたくてこの世に生まれたのだろうと問う。
私は一首を読み、まず「蟹蝙蝠大群生して」という表現に引き込まれた。「蟹蝙蝠」は植物なのに、初句にポンと置かれたことにより、字面からまるで蟹がうじゃうじゃ、蝙蝠がバタバタ飛んでいるかのような錯覚をしてしまった。霧深い中で、植物のむせかえるような生命力が、匂いや肌に帯びる湿り気とともに伝わってくる。生の目的を問うのではなく、誰に逢いたくて生まれたのかと問うところに、作者の存在自体が相聞歌であると思わせるような、壮大なロマンを感じた。「大群生して霧深し」と巧みな三句切れの修辞が、下句の自問する心情に余韻を醸す効果をもたらしていると思った。(真帆)
(当日意見)
★霧がポイントかなあと思います。登山をしていて霧に巻かれると幻想的な気分に
なります。お母さんのことを思い出されたのかもしれませんね。(A・Y)
★今のはいい意見ですよね。蟹蝙蝠ってインパクトのある言葉ですけれど、霧が深
いことも大事ですよね。さっきまで見渡す限り蟹蝙蝠が群生している谷か何かを
見下ろしていたんだけど、霧が深いのでもう自分の周囲しか見えなくなった。そ
んな時に自分は誰に逢いたくて生まれてきたんだろうって問いがふっと浮かんで
くる。問いへ繋がる気分がとってもなだらかで余韻がありますね。真帆さんが書
いているように、ホント壮大なロマンを感じます。(鹿取)
(後日意見)(2020年6月)(鹿取)
現代秀歌101首という「短歌」2004年8月号の特集で、前登志夫が現代の歌人たちの歌に疑問を投げかけている。曰く「人間の自在な豊かさにいささか欠けている」「人間の生の無意識なものが少し希薄になり、整理され過ぎている」と。渡辺松男の歌はこの逆だというのだろう。そして掲出歌を挙げて次のように批評している。(結句は「生まれしや」であるが前登志夫の引用では「生まれしか」となっている。引用の時点で前氏がまちがったのであろうか?あるいは誤植か?)
「たれに逢いたくて吾は生まれしか」と、人は問う。死ぬまで問う。その問
いだけでよろしい。つづまりは「われ」であろう。
また、『寒気氾濫』『泡宇宙の蛙』『歩く仏像』の三歌集を評して、「救世主ぶった偉そうなところや傲慢さがなく、むしろ剽げてさえいる」と評価している。さらに『泡宇宙の蛙』から下記の3首を引用している。
このところ白根(しらね)葵(あおい)がわれである きみをおもえばそよぐそよかぜ
蛇なりとおもう途端に蛇となり宇宙の皺のかたすみを這う
鳥のおもさとなりうれば死はやすからん大白檜曾(おおしらびそ)に蒿雀(あおじ)さえずる
「渡辺松男氏の歌のユニークなのは、おれのいのちの全体が、一木一草であり、蛇であり蛙であるという発想である。」(前登志夫)
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