渡辺松男研究2の30(2019年12月実施)
Ⅳ〈月震〉『泡宇宙の蛙』(1999年)P151~
参加者:泉真帆、岡東和子、A・K、菅原あつ子(紙上参加)、
渡部慧子、鹿取未放
レポーター:渡部慧子 司会と記録:鹿取未放
232 じゃんじゃんと御輿担がれゆきたれど泥中を這う亀のリビドー
(レポート)
その地域の人々の持つ力が催しや祭りを動かし、また国家へ波及することもあるだろう。ある見方をすれば、社会の状態はエネルギーの所産といえるかもしれない。ここでは神輿が担がれ、担いでいる人々のエネルギーが満ちている様子。かたわらの沼か池か、そこの泥中を這う亀のリビドーがいて泥から首を伸ばし騒がしい方を見るわけではなさそうだ。リビドーはどのような対象に生の根源の力を発揮するのか、今は静かに泥中を這っている。掲出歌の味わいは亀の名、リビドーにかかわっていよう。(慧子)(以下引用はレポートのママ)
リビドーとは精神分析学の用語で、人間の行動の起点となる根源的欲望。フロイトによると、飢えが栄養摂取を促す原動力であるように、個人が持っているリビドーは量的に一定しており、それがある対象に向かって充填される時、さまざまな心理的機能が営まれるとする。フロイトにおいては、リビドーは性欲であり、ユングはリビドーをすべての本能からのエネルギーの本体と規定した。「新世紀百科事典」
(紙上意見)
神輿に担がれてゆくのは作者であろう。はやされ、おだてられ、持ち上げられている。けれど本当はカメのように泥の中を這ってゆきたいのだという。前作と同じく、仕事や立場に疲れ、違和感を持ち、苦しんでいるのだろう。「リビドー」に切実さがある。(菅原)
(当日意見)
★慧子さん、せっかく「リビドー」の意味を調べられたのに、リビドーは亀の名前
のままでいいのですか?(鹿取)
★「尾を塗中(とちゅう)に曳く」って「荘子」の「秋水編」に故事があります。 こん
な話です。【後述】第一歌集に「生きて尾を塗中(とちゅう)に曳きてゆく
ものへちちよちちよと地雨ふるなり」という歌があって、出版記念会で辰巳泰子
さんが褒められたのをよく覚えています。掲出歌もこの故事を参考にすると亀
は自由に泥の中を這いずり回っているんですね。それはリビドーのなせる行為か
もしれないけど。(鹿取)
★そういう故事を知っているのといないのでは、まったく解釈が違ってくるかもし
れませんね。渡辺さんってすごい下地がありますよね。(A・K)
★哲学科だから、もちろん老荘思想も研究されたわけで、自然にこういう言葉はで
てくるんでしょうね。(鹿取)
★故事を知らなかったので菅原さんのように解釈していましたが。神輿担いでいる
地域の人々はエネルギーが満ちているけど、泥の中では性欲が……(泉)
★菅原さんの意見の「カメのように泥の中を這ってゆきたいのだ」というところは、
そこまで言えるのかなあと思いました。(岡東)
★私は菅原さんの意見にほぼ賛成です。リビドーをフロイト流に性欲とか性衝動と
かと固定して考えると迷っちゃうけど、ユング流に考えれば神輿担ぐエネルギー
と同じじゃないですか。故事につなげると亀は泥中を這うことで満足しているん
です。泥中を這うことが亀にとっては生を全うすることなんです。案外亀の心中
は明るいのかもしれません。作者は、在野で思索しながら自由に生きる道を選ん
だ荘子に共鳴しているのでしょう。(鹿取)
★完成度の高い歌だけど、荘子を短歌で言い直したのならつまらなくなりますね。
そういうときってどうなんでしょうね。短歌の意義はどうなんでしょう?素材と
しては面白いと思いますが。(A・K)
★この歌は「尾を塗中(とちゅう)に曳く」を松男さん流に内面化されていて、荘
子をダイレクトに手渡しているだけではないと思います。ただ、神輿を担ぐって
他人をおだてる言葉でもある。逆接でつながっているので、賑やかにお祭り騒ぎ
の政治が行われているけど、亀は泥の中を自由に泳ぎ回っているよって。そうい
う対照的な解釈をしてしまうとつまらなくなりますね。だから対比ではないので
しょう。(鹿取)
(参考)【「荘子」秋水】 (福永光司/講談社学術文庫) より
荘子が濮水のほとりで釣りをしていた。そこへ楚の威王が二人の家老を先行させ、命を伝えさせた(招聘させた)。「どうか国内のことすべてを、あなたにおまかせしたい(宰相になっていただきたい)」と。荘子は釣竿を手にしたまま、ふりむきもせずにたずねた。「話に聞けば、楚の国には神霊のやどった亀がいて、死んでからもう三千年にもなるという。王はそれを袱紗(ふくさ)に包み箱に収めて、霊廟(みたまや)の御殿の上に大切に保管されているとか。しかし、この亀の身になって考えれば、かれは殺されて甲羅を留めて大切にされることを望むであろうか、それとも生きながらえて泥の中で尾をひきずって自由に遊びまわることを望むであろうか」と。二人の家老が「それは、やはり生きながらえて泥の中で尾をひきずって自由に遊びまわることを望むでしょう」と答えると、荘子はいった。「帰られるがよい。わたしも尾を泥の中にひきずりながら生きていたいのだ」
Ⅳ〈月震〉『泡宇宙の蛙』(1999年)P151~
参加者:泉真帆、岡東和子、A・K、菅原あつ子(紙上参加)、
渡部慧子、鹿取未放
レポーター:渡部慧子 司会と記録:鹿取未放
232 じゃんじゃんと御輿担がれゆきたれど泥中を這う亀のリビドー
(レポート)
その地域の人々の持つ力が催しや祭りを動かし、また国家へ波及することもあるだろう。ある見方をすれば、社会の状態はエネルギーの所産といえるかもしれない。ここでは神輿が担がれ、担いでいる人々のエネルギーが満ちている様子。かたわらの沼か池か、そこの泥中を這う亀のリビドーがいて泥から首を伸ばし騒がしい方を見るわけではなさそうだ。リビドーはどのような対象に生の根源の力を発揮するのか、今は静かに泥中を這っている。掲出歌の味わいは亀の名、リビドーにかかわっていよう。(慧子)(以下引用はレポートのママ)
リビドーとは精神分析学の用語で、人間の行動の起点となる根源的欲望。フロイトによると、飢えが栄養摂取を促す原動力であるように、個人が持っているリビドーは量的に一定しており、それがある対象に向かって充填される時、さまざまな心理的機能が営まれるとする。フロイトにおいては、リビドーは性欲であり、ユングはリビドーをすべての本能からのエネルギーの本体と規定した。「新世紀百科事典」
(紙上意見)
神輿に担がれてゆくのは作者であろう。はやされ、おだてられ、持ち上げられている。けれど本当はカメのように泥の中を這ってゆきたいのだという。前作と同じく、仕事や立場に疲れ、違和感を持ち、苦しんでいるのだろう。「リビドー」に切実さがある。(菅原)
(当日意見)
★慧子さん、せっかく「リビドー」の意味を調べられたのに、リビドーは亀の名前
のままでいいのですか?(鹿取)
★「尾を塗中(とちゅう)に曳く」って「荘子」の「秋水編」に故事があります。 こん
な話です。【後述】第一歌集に「生きて尾を塗中(とちゅう)に曳きてゆく
ものへちちよちちよと地雨ふるなり」という歌があって、出版記念会で辰巳泰子
さんが褒められたのをよく覚えています。掲出歌もこの故事を参考にすると亀
は自由に泥の中を這いずり回っているんですね。それはリビドーのなせる行為か
もしれないけど。(鹿取)
★そういう故事を知っているのといないのでは、まったく解釈が違ってくるかもし
れませんね。渡辺さんってすごい下地がありますよね。(A・K)
★哲学科だから、もちろん老荘思想も研究されたわけで、自然にこういう言葉はで
てくるんでしょうね。(鹿取)
★故事を知らなかったので菅原さんのように解釈していましたが。神輿担いでいる
地域の人々はエネルギーが満ちているけど、泥の中では性欲が……(泉)
★菅原さんの意見の「カメのように泥の中を這ってゆきたいのだ」というところは、
そこまで言えるのかなあと思いました。(岡東)
★私は菅原さんの意見にほぼ賛成です。リビドーをフロイト流に性欲とか性衝動と
かと固定して考えると迷っちゃうけど、ユング流に考えれば神輿担ぐエネルギー
と同じじゃないですか。故事につなげると亀は泥中を這うことで満足しているん
です。泥中を這うことが亀にとっては生を全うすることなんです。案外亀の心中
は明るいのかもしれません。作者は、在野で思索しながら自由に生きる道を選ん
だ荘子に共鳴しているのでしょう。(鹿取)
★完成度の高い歌だけど、荘子を短歌で言い直したのならつまらなくなりますね。
そういうときってどうなんでしょうね。短歌の意義はどうなんでしょう?素材と
しては面白いと思いますが。(A・K)
★この歌は「尾を塗中(とちゅう)に曳く」を松男さん流に内面化されていて、荘
子をダイレクトに手渡しているだけではないと思います。ただ、神輿を担ぐって
他人をおだてる言葉でもある。逆接でつながっているので、賑やかにお祭り騒ぎ
の政治が行われているけど、亀は泥の中を自由に泳ぎ回っているよって。そうい
う対照的な解釈をしてしまうとつまらなくなりますね。だから対比ではないので
しょう。(鹿取)
(参考)【「荘子」秋水】 (福永光司/講談社学術文庫) より
荘子が濮水のほとりで釣りをしていた。そこへ楚の威王が二人の家老を先行させ、命を伝えさせた(招聘させた)。「どうか国内のことすべてを、あなたにおまかせしたい(宰相になっていただきたい)」と。荘子は釣竿を手にしたまま、ふりむきもせずにたずねた。「話に聞けば、楚の国には神霊のやどった亀がいて、死んでからもう三千年にもなるという。王はそれを袱紗(ふくさ)に包み箱に収めて、霊廟(みたまや)の御殿の上に大切に保管されているとか。しかし、この亀の身になって考えれば、かれは殺されて甲羅を留めて大切にされることを望むであろうか、それとも生きながらえて泥の中で尾をひきずって自由に遊びまわることを望むであろうか」と。二人の家老が「それは、やはり生きながらえて泥の中で尾をひきずって自由に遊びまわることを望むでしょう」と答えると、荘子はいった。「帰られるがよい。わたしも尾を泥の中にひきずりながら生きていたいのだ」
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