渡辺松男研究2の1(2017年6月実施)『泡宇宙の蛙』(1999年)
【無限振動体】P9~
参加者:泉真帆、T・S、曽我亮子、A・Y、渡部慧子、鹿取未放
レポーター:渡部慧子 司会と記録:鹿取未放
◆今回から『泡宇宙の蛙』に入ります。引き続きよろしくお願いします。
◆(支部会員の皆さんに)この歌の鑑賞に入る前に、「かりん」2010年11月号の渡辺松男特
集で、大井学さんのインタビューに渡辺松男氏が答えた記事の一部を紹介しておきます。『泡宇
宙の蛙』の製作意図について述べた部分です。(鹿取)
『寒気氾濫』は無意識的に設定している、ある枠のなかに大方納まっていると思いまし
た。(その枠のおかげで受け入れてもらえたのだと思いますが)。『泡宇宙の蛙』はその
枠をやぶろうとしたのだと思います。その枠のなかに、前提としている作歌主体そのも
のの自己同一性がありました。在ることの不思議、無いことの不思議、生命のこと、そ
ういう次元を詠まなかったなら、私(に)とって歌は意味のないものになっていました。
存在に寄り添うこと、それを掬うこと、それを包むこと、あるいは包まれること、それ
に成りきること、それらのことはいつもこちら側にいる自己同一的実体的作歌主体にと
どまっているかぎり不可能なことでした。
1 森のかぜ茶いろのながれ光るなか無限振動体なるきのこ
(レポート)
森の風が茶色くひかりつつ流れる。詠われているきのこの傘は茶色と思われる。そのきのこを「無限振動体なるきのこ」と呼ぶことで、茶は傘のかたちつまり形状を抜け、色そのものとして風とともに流れ光りとなる。(慧子)
(当日発言)
★2行目までは賛成ですが、ひかりになってしまうのではなくきのこはきのことして無限に振動し
ている笠、笠地蔵の笠のようにずーと存在していると感じました。(真帆)
★「傘のかたちつまり形状を抜け」というところがよく分からないのですが。(A・Y)
★ずーと震えていると私達の目には形は見えなくなりますよね。(慧子)
★難しく詠っているから鑑賞の人も難しくとっちゃうんじゃないですか。(T・S)
★いや、松男さんには難しく詠ってやろうとか、何かをひけらかそうとかいう意識はないんです。
自分の詠いたいことを何とか読者に分かって欲しいと思って一生懸命表現しているんだけど、
意識の差があってそれが読者にはなかなか難しいのです。(鹿取)
★森には無限に振動しつづけているような茸がある。そこに風が流れ、光が当たっている。レポー
ターがいうように茶色は茸の色の反映かもしれませんね。上に紹介したような志で編んだ歌集の
冒頭歌ですから、とても思いのこもった深い歌でしょうし、こんな合理的な解釈を拒むものかも
しれませんね。(鹿取)
(後日意見)
山崎正和が1963年29歳の時に書いた戯曲「世阿弥」について、林房雄が新聞に書いた書評が紹介されていた。(朝日新聞・2017年6月29日夕刊)一部引用させていただく。
(引用)【山崎氏は「俗衆との戦闘」が芸術家の課題であることを知っている】
能の作者や演者と見物人との究極的な関係性についての言及だろうが、「俗衆」とは随分見下した言い方だし、「戦闘」という言葉も嫌いだ。しかし、享受者に対しての作者の葛藤についてはよく分かるし、渡辺松男もその部分で苦しい闘いをしているということはあるだろう。鹿取の当日発言と繰り返しになるが、作者は難しく詠っているのではなく何とか読み手に分かってもらおうと書いているのである。(鹿取)
(後日意見)2019年5月追加
森の風が流れるなか、揺れるはずのないきのこが一斉に無限の振動体となる。風が流れきのこが揺れるとき間違いなく「森は生きている」のである。(鶴岡善久)
「森、または透視と脱臼」(「かりん」2000年2月号)
【無限振動体】P9~
参加者:泉真帆、T・S、曽我亮子、A・Y、渡部慧子、鹿取未放
レポーター:渡部慧子 司会と記録:鹿取未放
◆今回から『泡宇宙の蛙』に入ります。引き続きよろしくお願いします。
◆(支部会員の皆さんに)この歌の鑑賞に入る前に、「かりん」2010年11月号の渡辺松男特
集で、大井学さんのインタビューに渡辺松男氏が答えた記事の一部を紹介しておきます。『泡宇
宙の蛙』の製作意図について述べた部分です。(鹿取)
『寒気氾濫』は無意識的に設定している、ある枠のなかに大方納まっていると思いまし
た。(その枠のおかげで受け入れてもらえたのだと思いますが)。『泡宇宙の蛙』はその
枠をやぶろうとしたのだと思います。その枠のなかに、前提としている作歌主体そのも
のの自己同一性がありました。在ることの不思議、無いことの不思議、生命のこと、そ
ういう次元を詠まなかったなら、私(に)とって歌は意味のないものになっていました。
存在に寄り添うこと、それを掬うこと、それを包むこと、あるいは包まれること、それ
に成りきること、それらのことはいつもこちら側にいる自己同一的実体的作歌主体にと
どまっているかぎり不可能なことでした。
1 森のかぜ茶いろのながれ光るなか無限振動体なるきのこ
(レポート)
森の風が茶色くひかりつつ流れる。詠われているきのこの傘は茶色と思われる。そのきのこを「無限振動体なるきのこ」と呼ぶことで、茶は傘のかたちつまり形状を抜け、色そのものとして風とともに流れ光りとなる。(慧子)
(当日発言)
★2行目までは賛成ですが、ひかりになってしまうのではなくきのこはきのことして無限に振動し
ている笠、笠地蔵の笠のようにずーと存在していると感じました。(真帆)
★「傘のかたちつまり形状を抜け」というところがよく分からないのですが。(A・Y)
★ずーと震えていると私達の目には形は見えなくなりますよね。(慧子)
★難しく詠っているから鑑賞の人も難しくとっちゃうんじゃないですか。(T・S)
★いや、松男さんには難しく詠ってやろうとか、何かをひけらかそうとかいう意識はないんです。
自分の詠いたいことを何とか読者に分かって欲しいと思って一生懸命表現しているんだけど、
意識の差があってそれが読者にはなかなか難しいのです。(鹿取)
★森には無限に振動しつづけているような茸がある。そこに風が流れ、光が当たっている。レポー
ターがいうように茶色は茸の色の反映かもしれませんね。上に紹介したような志で編んだ歌集の
冒頭歌ですから、とても思いのこもった深い歌でしょうし、こんな合理的な解釈を拒むものかも
しれませんね。(鹿取)
(後日意見)
山崎正和が1963年29歳の時に書いた戯曲「世阿弥」について、林房雄が新聞に書いた書評が紹介されていた。(朝日新聞・2017年6月29日夕刊)一部引用させていただく。
(引用)【山崎氏は「俗衆との戦闘」が芸術家の課題であることを知っている】
能の作者や演者と見物人との究極的な関係性についての言及だろうが、「俗衆」とは随分見下した言い方だし、「戦闘」という言葉も嫌いだ。しかし、享受者に対しての作者の葛藤についてはよく分かるし、渡辺松男もその部分で苦しい闘いをしているということはあるだろう。鹿取の当日発言と繰り返しになるが、作者は難しく詠っているのではなく何とか読み手に分かってもらおうと書いているのである。(鹿取)
(後日意見)2019年5月追加
森の風が流れるなか、揺れるはずのないきのこが一斉に無限の振動体となる。風が流れきのこが揺れるとき間違いなく「森は生きている」のである。(鶴岡善久)
「森、または透視と脱臼」(「かりん」2000年2月号)
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