ハマナスの花を見れば、はるか遠い記憶の底から、「オントキタイ」という地名が浮かぶ。
そこに、母の妹夫婦と小さな男の子が住んでいた。おそらく私が4、5才頃に、母親に連れられて、一度行った事がある。手付かずのままに自然が生きていた時代。茫然と息を呑む、ハマナスの大群落がそこにあった。
叔母たちが居た所は、当時「オントキタイ」と呼ばれていた。その後、過酷な自然環境に耐えかねたのか、叔母たちは別なところに引っ越したのだが、親戚中では終生、「オントキタイのおばさん」と呼ばれていた。
「オントキタイ」というのが、北海道のどの辺りにあったのか、全く覚えていないので、ネットの地図で探してみた。今では、そんな地名はどこにもないという。浜頓別町と猿払村の境界の辺りではないか、と聞いた。
そこには何丁目何番地という、はっきりしたものはないのだから、だいたいあの辺り・・というしかないのだ。しかし、地図には「オントキタイ」という表示は出ていた。頓別川の近くなのか。それだけでも、何ほどか嬉しかった。
オントキタイのおばさんのところには、ゆう君という私より1才年下の従兄弟がいた。ゆう君は、叔母夫婦の実子ではなかったが、本当の子どものように愛され、イタズラをしてゲンコツも張られながら、元気に伸び伸びと育っていた。
彼が長じて高校生の頃、何か鬱屈するところがあったのか、なにがしかの懐かしさに駆られ、あの「オントキタイ」を訪ねたそうだ。
そこには、かつてのハマナスの大群落は既になかったという。公共工事という名の下に、キレイに護岸工事されてしまっていたらしい。むろん、あちこちには花は咲いているのだが、かつての文句のつけようがない、記憶の中の景観は失われてしまっていた。
彼はがっかりして、もう二度と訪れなかったという。しかし、彼の心の中には「オントキタイのハマナス」は、長く生き続けたことは想像に難くない。一度しか見たことのない私の記憶の中でも、夢のように、信じられないほどに美しい場所「オントキタイ」は、今も生き続けているのだから。。。
叔母さんの話によれば、その高校生の頃、ゆう君は自分の出生のことを訊いて来たという。
「おまえは、誰がなんと言おうと、間違いなくとーさんとかーさんの子どもだ!」と、叔母は断言したらしい。本人は、半信半疑の様子だったという。どうしても腑に落ちない顔をしているので、もし信じられないなら、戸籍謄本でも何でもとって見なさい、と言った。
ふーん、で、戸籍はどうなっていたのですか?と、私は後年叔母に訊いた。「アンタ戸籍にだってね、ちゃ~んと実子として記載されているのよ。どこに出しても、それはビンバンとしたものなんだから」と。
(「ビンバン」というのはたぶん方言で、シッカリと確かなもの、という程度の意味だろうか)
実際、ゆう君は叔父さんに、見ようによっては顔の雰囲気が似ている気もした。一緒にいる時間が長いと、色んなところが似てくるという。知らない人ならば、血のつながった親子だと信じて疑わないだろう。
ゆう君は貧しい家庭環境で育ったが、大人になり、富裕な家庭の美しいお嬢様を妻にし、新規事業を起こして成功していた。
その頃に、叔父さんが亡くなった。叔母さんは「ゆうのお陰で、とーさんの葬式も、思いもよらず盛大にしてやる事ができた。ありがたい」と言っていた。
その後、彼の事業はバブル崩壊の影響からか、急激に衰退して行った。叔母さんは述懐する。「とーさんはゆうの成功を、そりゃあ喜んで喜んで、喜んだそのまま死んで行けたんだもの。本当に良かった。とーさんは良い時に死ねたんだよ。ありがたい」と。
その「オントキタイのおばさん」も、もう故人となって数年が経つ。古き良き思い出は、思い出のままに、私はそっと記憶の底に仕舞いこもうと思っている。
(↓の写真は本文記事とは関係ありません。南会津方面です)
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山小屋さんより↓アヤメ(文目)だと教えていただきました^^
”足元の定まらない”このようなブログにお運び頂きまして、ありがとうございます
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そこに、母の妹夫婦と小さな男の子が住んでいた。おそらく私が4、5才頃に、母親に連れられて、一度行った事がある。手付かずのままに自然が生きていた時代。茫然と息を呑む、ハマナスの大群落がそこにあった。
叔母たちが居た所は、当時「オントキタイ」と呼ばれていた。その後、過酷な自然環境に耐えかねたのか、叔母たちは別なところに引っ越したのだが、親戚中では終生、「オントキタイのおばさん」と呼ばれていた。
「オントキタイ」というのが、北海道のどの辺りにあったのか、全く覚えていないので、ネットの地図で探してみた。今では、そんな地名はどこにもないという。浜頓別町と猿払村の境界の辺りではないか、と聞いた。
そこには何丁目何番地という、はっきりしたものはないのだから、だいたいあの辺り・・というしかないのだ。しかし、地図には「オントキタイ」という表示は出ていた。頓別川の近くなのか。それだけでも、何ほどか嬉しかった。
オントキタイのおばさんのところには、ゆう君という私より1才年下の従兄弟がいた。ゆう君は、叔母夫婦の実子ではなかったが、本当の子どものように愛され、イタズラをしてゲンコツも張られながら、元気に伸び伸びと育っていた。
彼が長じて高校生の頃、何か鬱屈するところがあったのか、なにがしかの懐かしさに駆られ、あの「オントキタイ」を訪ねたそうだ。
そこには、かつてのハマナスの大群落は既になかったという。公共工事という名の下に、キレイに護岸工事されてしまっていたらしい。むろん、あちこちには花は咲いているのだが、かつての文句のつけようがない、記憶の中の景観は失われてしまっていた。
彼はがっかりして、もう二度と訪れなかったという。しかし、彼の心の中には「オントキタイのハマナス」は、長く生き続けたことは想像に難くない。一度しか見たことのない私の記憶の中でも、夢のように、信じられないほどに美しい場所「オントキタイ」は、今も生き続けているのだから。。。
叔母さんの話によれば、その高校生の頃、ゆう君は自分の出生のことを訊いて来たという。
「おまえは、誰がなんと言おうと、間違いなくとーさんとかーさんの子どもだ!」と、叔母は断言したらしい。本人は、半信半疑の様子だったという。どうしても腑に落ちない顔をしているので、もし信じられないなら、戸籍謄本でも何でもとって見なさい、と言った。
ふーん、で、戸籍はどうなっていたのですか?と、私は後年叔母に訊いた。「アンタ戸籍にだってね、ちゃ~んと実子として記載されているのよ。どこに出しても、それはビンバンとしたものなんだから」と。
(「ビンバン」というのはたぶん方言で、シッカリと確かなもの、という程度の意味だろうか)
実際、ゆう君は叔父さんに、見ようによっては顔の雰囲気が似ている気もした。一緒にいる時間が長いと、色んなところが似てくるという。知らない人ならば、血のつながった親子だと信じて疑わないだろう。
ゆう君は貧しい家庭環境で育ったが、大人になり、富裕な家庭の美しいお嬢様を妻にし、新規事業を起こして成功していた。
その頃に、叔父さんが亡くなった。叔母さんは「ゆうのお陰で、とーさんの葬式も、思いもよらず盛大にしてやる事ができた。ありがたい」と言っていた。
その後、彼の事業はバブル崩壊の影響からか、急激に衰退して行った。叔母さんは述懐する。「とーさんはゆうの成功を、そりゃあ喜んで喜んで、喜んだそのまま死んで行けたんだもの。本当に良かった。とーさんは良い時に死ねたんだよ。ありがたい」と。
その「オントキタイのおばさん」も、もう故人となって数年が経つ。古き良き思い出は、思い出のままに、私はそっと記憶の底に仕舞いこもうと思っている。
(↓の写真は本文記事とは関係ありません。南会津方面です)
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学生の頃、1ヶ月かけて北海道を廻りました。
島は天売島、利尻、礼文です。
宗谷岬からそのまま東に下りたかったのですが、「クマが出る!」といわれて断念しました。
北頓別町のベニヤ原生花園、ハマナスが群生しているようです。素晴らしいところのようです。
網走の先にあった、小清水原生花園もハマナスは群生していました。今でも目に焼き付いています。
「オントキタイ」とはアイヌ語のようです。
どんな意味でしょう。
(あなたと行きたい!という意味かな?)
その後、ゆう君とは会える距離にいるのですか?
最後の花はアヤメのようです。
尾形光琳の襖(ふすま)絵を思い出しました。
今でも、北の浜にはハマナスがたくさん咲いていますよ。
特に利尻の海岸にはこれから、ぞっくりと咲き出しますよ。
アイヌ語の地名はどんどん消えて行きますが、ハマナスの花はいつまでも咲きついで行くことでしょう。 じぃじがいる間に、ぜひ利尻にいらしてくださいね。
トーコさんまたね~~
綺麗だと思うのですが未だ写真も見たことがありません。
今度アップしてくださ~いネ。
でも従兄弟さんのご苦労もいろいろあったんだと
思います。
きっと再起される(されてる?)と思います。
私も子供の頃、リュックを背負った学生風の人に、道を訊かれたことがありますよ。自転車に乗って旅をしている人もおりました。
私が生まれたのは、最北端に近いところです。その後は移転しましたが。就職のため上京し、勤めた会社で、アイヌ語で娘さんという意味の、「ピリカ」と呼ばれていました~(笑)
ゆう君や他の従兄弟たちとも、子供の頃に別れたきり会っていません。でも親戚からの電話などで、消息は聞いています。今は、ぼちぼちとやっていることでしょう。
下の青紫の花は、やはりアヤメですね。いつも、ありがとうございます。ホント、尾形光琳の襖絵に、よく描かれている様な感じですね。
確か、水戸の偕楽園(ご老公)の座敷にも、こんなふうな襖絵があったような。。。
コメント、ありがとうございました
ハマナスは、棘をよけながらですけど、気をつけていても必ずどこか引っ掛けて、傷だらけでした。だって、ハマナスの花の間を、漕いで行くのですものね(笑)
香料を取るためとか、お姉さんたちに頼まれて、子供の頃は籠に、花びらをたくさん摘んだ事がありました。
あんな光景、今では夢か幻のようです。稚内からは、晴れた日には利尻・礼文が見えましたね。樺太も。オホーツク海では、子供の頃ですが、流氷やアザラシも普通に見ていました。
豊富な自然の中にいたこと、今ごろ驚いています(笑)コメント、ありがとうございました
「知床旅情」、売れましたからね。あれで、北海道もメジャーになったのかな(笑)
ハマナスは、今はどうか知りませんが、子どもの頃に見ていたのは「真紅」の薔薇のようでしたよ。自然に浜辺に咲いているのが、一番綺麗です。砂浜には、薄いピンクの浜昼顔や、檸檬色の月見草(?たぶん)も多かったですね。
こちらでも、ハマナスを植えているお宅もありますが、やはり棘とたくさん虫が付くことで困っているようです。私は、遠い思い出の中で、ただ懐かしむだけで良いと思っています。
従兄弟は芯が強い人なので、大丈夫と思っています。叔母からの「遺言」もありますから。
スエツグさん、コメントありがとうございました
どこで撮られたのでしょう・・・
私もアヤメか菖蒲を撮りたいのですが、中々思うように行けません。
久しぶりに、遠い昔ばなしを読ませていただいて胸がキュンです。
こういうお話大好きです。一気読みをしてしまいます。
またその内書いてね。期待してます。
ここは、あまり観光客さんもいなくて、のんびりしていて静かなところですよ^^
昔話、書いてから「シマッタ」かなと思いました。超個人的な話ですからね。非難ゴーゴーあるかと思って、実はヒヤヒヤしていました。これからかな?(笑)
この続きを、もう1回書くつもりでいました。でも、いいのかなぁ・・。ちょっと辛い話ですけどね。
かずこさん、いつもコメントと応援☆ありがとうございます
50年程前、私が子供の頃、豊寒別の爺さんという人が遊びにきた。
豊寒別から歩いて来たと言う。
後で知ったが、家族に内緒で出てきたので、捜索願が出ていたらしい。
私はその時一度しか会っていないので、記憶の奥に埋もれていた。
地図で豊寒別の名前を見た時に、突然思い出した。
自然に、あの爺さん、此処から歩いてきたんだ、と思い出している。
人間の脳は、不思議な物である。
トーコさん、感謝、感謝です。
「生きることが書くこと」「書くことが生きること」なのだと思う。トーコさんの場合は。