アショーカ王
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(在位:紀元前268年頃 - 紀元前232年頃)
マウリヤ朝の第3代の王である。
漢訳音写では阿育王と書かれる。
インド亜大陸をほぼ統一した。
釈尊滅後およそ100年(または200年)に現れたという伝説もあるアショーカ王は、古代インドにあって仏教を守護した大王として知られる。
アショカとも表記される。
前王ビンドゥサーラ(漢訳音写:頻頭沙羅)の息子であったと伝えられる。
ある伝説ではビンドゥサーラの剃毛師(ナーピニー Napini)をしていたダンマーという女がチャンパーのバラモンの娘であったことが発覚したため正妃とされ、ビンドゥサーラとその女の間にアショーカとヴィータショーカという息子が生まれた。
同じく伝説の域を出ない話であるが、アショーカは父ビンドゥサーラと不和であり、タキシラで反乱が発生した際ビンドゥサーラは軍も武器も与えずに反乱鎮圧に向かうようアショーカに命じた。
この状況を心配した家臣の1人が「王子よ、軍も武器もなしに我々は何を用いて誰と戦うのでありましょうか?」と問うとアショーカは「もしも私が王者に相応しいほどの善根を持つならば軍と武器が現れるであろう」と答えた。
すると神々は大地を割ってその裂け目から軍と武器を出し、アショーカに与えた。
これを聞いたタクシラの住民達は道を清めてアショーカを大歓迎し「我々はビンドゥサーラ陛下にもアショーカ王子にも叛いているのではありません。ただ悪しき大臣が我々に害を与えたためにこれを討ったのみです。」と言いアショーカは同地の人々の尊敬を得て支配権を得た。
一方スリランカの伝説ではアショーカはインド南西部のウッジャインの反乱鎮圧を命ぜられ、鎮圧には成功したものの負傷してしまった。
そしてこの時彼を看護した商人の娘デヴィと結婚した。
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アショーカの王子時代はこのような曖昧な伝説をもとに再構築するしかないが、彼の即位の経緯なども含めて、父王ビンドゥサーラとの対立があったことが推測される。
ビンドゥサーラが病に倒れると、彼は長男スシーマ(スリランカの伝説ではスマナ)を後継者とするよう遺言したと言われている。
しかしアショーカは急遽パータリプトラを目指して進軍し、スシーマと争ってこれを殺し他の異母兄弟の多くも殺して王座を手に入れたと言う。
仏教の伝説では、アショーカは99人の兄弟を殺した。
即位した後には、彼の通った所はすべて焼き払われ草木が一本も生えていない、といわれるほどの暴君だったが、あまりにも無残な戦争(カリンガ王国征服)を反省し仏教に深く帰依したとされる。
これは恐らく後世の仏教徒たちがアショーカ王の仏教改宗を劇的なものとするために殊更に改宗前の残虐非道を書き連ねたものと考えられる。
アショーカ王時代の記録には彼の兄弟が何人も地方の総督の地位にあったことが記されており、少なくとも兄弟の殆どを殺害したという仏典の伝説とは一致しない。
また、仏教だけではなく、広くさまざまな宗教を保護したことがわかっている。
同じく仏典の記録によれば、彼は即位した後も即位の儀式を行う事が出来ず、更に大臣達も自分達の協力によってアショーカが王位に就く事が出来たのだと考えアショーカを軽視したという。
アショーカは大臣達が自分の命令に従わないことに怒り500人の大臣を誅殺したと伝えられる。
碑文などから彼の治世第8年頃(紀元前260年頃)に仏教に改宗したと推測されるが、当初はそれほど熱心ということは無かった。
しかし、治世9年目に行われたカリンガ戦争がアショーカの宗教観に大きな影響を及ぼすことになる。
当時カリンガ国はインド亜大陸の東岸で勢力を振るった大国であり、この時代にもマウリヤ朝の支配には服していなかった。
遠征の理由は不明瞭であるが、マウリヤ朝の軍が時に敗走するなどの激戦の末カリンガ国を征服した。
この時15万人もの捕虜を得たが、このうち10万人が殺され、戦禍によってその数倍の人々が死に、多くの素晴らしきバラモン、シャモンが殺され、多くの人が住処を失ったという。
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アショーカ王はこれを深く後悔し、この地方の住民に対し特別の温情を持って統治に当たるよう勅令を発した。
以後対外遠征には消極的になり「法(ダルマ)の政治」の実現を目指すようになったという。
彼自身や後世の「宣伝」が混じっているであろう「物語」ではあるが、この流れはある程度考古学的に実証することができる。
出典: 「アショーカ王」
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
アショーカ王と仏教教団
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インドの社会的な状況や変容に目を向けると、ブッダ入滅より少し後の紀元前4世紀から紀元前3世紀にかけて、ほぼインド全土にわたる巨大な帝国を築き上げたマウリヤ王朝成立という出来事に遭遇する。
このマウリヤ朝第3代の王としてと登場したのがアショーカ王(在位は紀元前268-232頃)である。
アショーカ王の生涯に関しては、仏教文献の中に様々な伝承が残されているが、それらによると、アショーカ王は第2代のビンドゥサーラ王の王子の一人として生まれ、父王が病気に倒れた後、兄弟たちとの争いに勝って王位についたとされる。
即位後8年頃に、カリンガ地方に征討を行ったが、その際の戦いがもたらした悲惨な状況に心を痛め、それを契機として仏教に改宗し、仏教教団と密接な関係を持つようになったという。
改宗したアショーカ王は、ブッダ入滅後に建立された8つの仏塔(ストゥーパ)のうちの7塔からブッダの遺骨を取り出し、新たに多数(一説には8万4000)の仏塔を建立して、遺骨を分納したとされる。
このような仏教の伝承を、そのまま史実とみなすことはできないが、今日でもアショーカ王に関わる事跡が多く知られているのは、彼がインド全土に残した様々な刻文詔勅、いわゆる「アショーカ王碑文」が現存するからである。
この碑文には、岩石(摩崖 まがい)に刻まれたものと、巨大な石柱を造らせ、そこに文字を刻んで建てさせたものとがあるが、碑文に用いられているブラーフミー文字とカローシュティー文字とは、現存するインドの文字として最古のものとみなされている。
碑文には、即位後8年にカリンガ征討を行ったこと、その際に民間人を含め多くの犠牲者を出したため、非暴力的な「法(ダルマ)」に基づく政治を行うことを決意し、仏教の信者(優婆塞 うばそく)となったこと、即位10年に新たな政策の宣布を目的とする巡行を行い、各地の仏跡を訪問したこと、その2年後に「法」に基づく政治の内容を詔勅として発令し、各地に刻ませたこと、各地の官吏に「法」の宣伝を行わせたこと、そのために「法大官」を任命し、使節をギリシアやスリランカなどに派遣したことなどが記されている。
アショーカ王碑文には、その当時に実在した仏教教団の具体的な姿を明示する記述は存在しないが、アショーカ王が仏教と密接な関わりを持っていたことを伺わせる記述は随所に存在する。
例えば、現存する仏塔の中で最も古い形式を整えたものとして有名なサーンチーの仏塔脇にもアショーカ王の詔勅が刻まれた石柱が現存しており、そこには、仏教教団内に起こった対立に介入し、争いを収めようとするアショーカ王の姿勢があらわされている。
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このような事例によっても両者の関係を垣間見ることができよう。
一方、アショーカ王と仏教教団をめぐってはさらに重要な問題が存在する。
それは、ブッダの入滅からアショーカ王の即位までの年数に関する伝承が残されている点である。
スリランカへと伝えられた南伝説によると、アショーカ王の即位は仏滅後218年であるとされる。
中国などへ伝えられた北伝説の場合は、「百年余」「百年後」「百有余年」「百十六年」「百六十年」など、資料によって様々な伝承があるが、おおよそ100年程度とみることができる。
したがって、前者の南伝説に基づくならば、先に触れた第二集結から100年ほどの時を経てアショーカ王が登場することになるが、後者の北伝説に基づくと、多少の幅はあるものの、第二集結はまさしくアショーカ王時代の出来事として捉えなければならなくなるのである。
現時点では、おおよそ二つの説のうち、どちらが正しいのかを確定する証拠は見いだされない。
アショーカ王と仏教の実際の関わりも含めて、慎重に検討しなければならない問題が、そこには残されている。
(注:
赤字はデンマンが強調。
読み易くするために改行を加えています。
写真はデンマン・ライブラリーより)
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75-77ページ 『仏教の事典』
編集者: 末木文美士 下田正弘 堀内伸二
2014年6月25日 初版第2刷発行
発行所: 株式会社 朝倉書店