デンマンのブログ

デンマンが徒然につづったブログ

アナタハン

2024-12-30 02:20:01 | 思い出の映画


 

アナタハン

 


(anata14.jpg)


(anata12.jpg)


(anata16.jpg)


(sylvie500.jpg)





ケイトー。。。 アナタハン というのは「貴方様」という意味の関西弁なのォ〜?


(kato3.gif)

違います。。。アナタハンというのは、太平洋の北マリアナ諸島に位置する「アナタハン」という島の名前ですよ。。。

 



アナタハン島

 


(anatgahan20.jpg)

 

アナタハン島(チャモロ語: Anatåhån)はマリアナ諸島の火山島

北緯16度21分05秒、東経145度40分43秒に位置し、南東約53kmにファラリョン・デ・メディニラ島、北北東約35kmにサリガン島がある。

島の形は東西12km、南北4kmと東西に長い島で、島の最高点は787m。
面積は31.21km2で、北部諸島ではパガン島に次いで大きい。

 


(anatahan-map.png)

 

歴史

第一次世界大戦で戦勝国となった日本は、マリアナ諸島一帯を委任統治していた。
この時代には日本人入植者もおり、島民を使いヤシの栽培がおこなわれていた。
第二次世界大戦中にはアメリカ軍のボーイングB-29爆撃機が島内に墜落した。

第二次世界大戦末期に連合国軍がマリアナ諸島一帯にその勢力を広げた結果、島民は島から脱出したが、少数の日本人入植者と軍人、軍属らが残り、1945年から1951年までの間、島ではアメリカ軍の降伏の呼び掛けに応じない日本人男性多数と女性一人が共同生活をしていた。

その間に男性が次々といなくなる事件が発生した(アナタハンの女王事件)


日本人の引き揚げ後、元島民らが帰還した。
島の火山に噴火したという記録や言い伝えはなかったが、1990年4月に島で火山性地震が多発したため、島民22名は全員サイパン島に避難した。

その後、避難命令が解除され何人かは島に戻ったが、2003年5月11日と2005年4月6日に大規模な噴火を起こし、島民は再び避難生活を余儀なくされている。
2007年から2008年にかけても噴火が起こっている。




出典: 「アナタハン島」
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』


 



あらっ。。。第二次世界大戦末期に連合国軍がマリアナ諸島一帯にその勢力を広げた結果、島民は島から脱出したが、少数の日本人入植者と軍人、軍属らが残り、1945年から1951年までの間、島ではアメリカ軍の降伏の呼び掛けに応じない日本人男性多数と女性一人が共同生活をしていた。その間に男性が次々といなくなる事件が発生した「アナタハンの女王事件」が起きた島なのねぇ〜。



そういうことですよ。。。

つまり、「アナタハンの女王事件」が起きたので ケイトーは、この島を取り上げたのねぇ〜。

そういうことですよ。。。シルヴィーも「アナタハンの女王事件」と聞いて俄然(がぜん)、興味が湧いたでしょう!?

でも、こんな小さな島に女王がいたのォ〜?

女王がいるわけ無いでしょう! このアナタハン島は独立王国ではありません。。。上の説明にも書いてあるように第一次世界大戦で戦勝国となった日本が、マリアナ諸島一帯を委任統治していた内の一つの島なんですよ。。。

じゃあ、どういうわけで「アナタハンの女王事件」と呼んだのォ〜?

あのねぇ〜、アメリカ軍の降伏の呼び掛けに応じない日本人男性多数と女性一人が共同生活をしていたのですよ。。。その間に男性が次々といなくなる事件が発生したわけです。。。つまり、一人の女を自分だけの女にしようと男の間に争いが起きたわけです。。。だから、後でこの話を知ったメディアが、その女のことを「アナタハンの女王」と呼んだわけですよ。。。アナタハン独立王国の女王ではないのです。。。この話は、当然戦後の日本でセンセーションを巻き起こして、「アナタハン」という映画になった。。。

 


アナタハン

 


(anata14.jpg)

 

『アナタハン』 (Anatahan) は、太平洋戦争末期に太平洋アナタハン島で起こった「アナタハンの女王事件」をもとにした1953年(昭和28年)公開の日本映画である。

監督はハリウッド作品で知られるジョセフ・フォン・スタンバーグが務めたが、日米合作ではなく日本映画として製作された。
映画封切り当時のポスターの宣伝文は、「絶海の眞唯中に取残された女ひとりをめぐる男たちの激しい本能!『モロッコ』のスタンバーグが女性の望郷、生きる悲しみを描いた!愈々完成!六月公開」であった。

太平洋戦争末期、唯一の女性「比嘉和子」を巡り、彼女の夫の上司と31人の漂流日本人たちが太平洋の北マリアナ諸島に位置するアナタハン島で繰り広げた争奪戦「アナタハンの女王事件」の映画化である。

1951年に生存者が帰国してその全貌が明らかになると、戦後のマスコミは事件をスキャンダラスに喧伝し、1953年4月には「アナタハンの毒婦」と称された比嘉自身が主演した実録映画『アナタハン島の眞相はこれだ』(監督:吉田とし子、新大都映画)いうB級猟奇映画まで作られる

そして、アメリカの新聞で事件を知ったジョセフ・フォン・スタンバーグが、訪米中であった川喜多長政に映画化の申し入れを行ったことで、『アナタハン』の制作がスタートすることになる。

『アナタハン島の眞相はこれだ』では、比嘉をめぐる男たちの殺し合いが誇張して描かれ、島からの帰国の時期も実際より早く設定されていたが、スタンバーグはこれをほぼ実話通りのストーリーに戻し、女王蜂とあだ名された比嘉と男たちとのラブストーリーに重点を置いた。

また、極限状態に置かれた人間の生態を昆虫になぞらえた観察記の意味合いも持たせている。
なお、映画では登場人物すべてに仮名があてられ、和子は恵子とされている。

スタンバーグの受け入れ先は独立プロの大和プロダクションであり、『エノケンのホームラン王』など戦後のエノケン映画を主に手がけた滝村和男がプロデュースをしているが、実際にはハリウッドの巨匠と仕事をするまたとない機会を得た東宝が、若手スタッフを送り込むなどの支援をしている。

後に『青べか物語』などの川島雄三監督作品や『ねむの木の詩』などを手掛けるカメラマンの岡崎宏三(本作品での肩書きはスクリプターだが、実作業はカメラオペレーター)など、この作品で実力をつけたスタッフも多い。

また、円谷英二が特殊効果を担当し、冒頭の戦闘機襲来シーンのような彼が得意とする場面の他、モノクロ映像で熱帯のジャングルを表現するために木々や葉に蛍光塗料を塗るなどのアイディアを提供した。

これらの効果は後に成瀬巳喜男監督の『浮雲』にも転用され、さらに円谷自身も『キングコング対ゴジラ』や『マタンゴ』などで使用している。
音楽は伊福部昭が担当したが、スタンバーグから即興演奏を要請されて、フィルムを見ながらピアノソロを演奏する珍しいものとなっている。

撮影もスタンバーグの要望により、京都の岡崎公園にある京都市勧業館(現在の「みやこめっせ」)の当時の展示施設の建物を借り切って巨大なアナタハン島のセットを建造して行なわれた。

日劇ダンシングチーム(NDT)に所属していた根岸明美をはじめとして、中山昭二や近藤宏などのキャストは、すべてスタンバーグ自身の抜擢による新人俳優である。

根岸はこの作品でデビュー後『赤線基地』や『獣人雪男』などで肉体派女優として活躍するが、次第に肉体派女優のレッテルを貼られることを嫌悪するようになり、後年は演技派に転向している。
ストーリー紹介や日本人俳優の台詞を翻訳する英語ナレーションは、スタンバーグによるものである。
しかし、日本公開時には日本語字幕がついていなかった。

アメリカでは好評を博したが、日本では『アナタハン島の眞相はこれだ』と続けて公開されたことなどからヒットせず、実質的なスタンバーグ最後の作品となった(1957年に公開されている『ジェット・パイロット』は、1949年から1950年にかけて一部が撮影されていた)。

 

あらすじ

太平洋戦争末期の1944年。軍に徴用されたかつお漁船が太平洋を航行中に米軍戦闘機の攻撃を受け沈没。

軍人と漁船乗組員あわせた十数名の生存者が、サイパンの北に位置するアナタハン島に漂着する。

無人島かと思われたこの島には、日下部という男が恵子という女と関係を持ち二人きりで住んでいた。

島の男性人口が急に増え、男たちは自然と恵子に興味を持つようになるが、嫉妬深い日下部との間でトラブルになる。

終戦を知らせる米軍のビラを謀略として信じず、島に墜落したB29爆撃機の残骸からピストルを見つけた男たちは、ついに恵子をめぐって殺し合いになる。

1949年、嫉妬に狂った日下部が殺され、生き残りの男たちは恵子の所有権を決めるくじ引きを始める。

身の危険を感じた恵子は米軍の船に救出され、帰国した恵子の手紙によって男たちも終戦を信じ、帰国する。

空港に着いた米軍の輸送機から降りる生存者たちを出迎える恵子は、彼らの後ろから彼女をめぐって命を落とした男たちの亡霊が帰還する幻影を見るのだった。




出典: 「アナタハン」
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』


 



あらっ。。。センセーショナルな、かなり衝撃的な映画なのねぇ〜。。。



そうなのですよ。。。一人の女を自分だけの女にしようと男の間に争いが起きた。。。その争いの中で男たちが一人づつ姿を消し始めたのですよ。。。

ケイトーもワクワクしながら、その映画を観たのォ〜?

うへへへへへ。。。実は、そうなのです。。。

 


(anata12.jpg)



 



この映画では、日劇ダンシングチーム(NDT)に所属していた根岸明美が「比嘉和子」役を演じたのですよ。。。でも、この映画はアメリカではセンセーショナルに話題を読んで多くのアメリカ人が観たのだけれど、日本ではイマイチだった。



どうしてよ?

この映画が日本で公開されるまえに、一足早く比嘉和子自身が主演を演じる『アナタハン島の眞相はこれだ』という実録映画が公開されたのですよ。。。

 


(higa_kazuko2.jpg)



 



アナタハンという孤島に男32人が女1人を奪い合う壮絶な闘いが繰り広げられた、というセンセーションに日本人の男も、そういう女王になりたい女たちも映画館に殺到したのですよ。。。(微笑)



確かにセンセーショナルよねぇ〜。。。その女王本人が映画に出てくるのだから、一般の日本人も観たくなるでしょうねぇ〜。。。その気持は私にも解るわよう。。。

シルヴィーにも、その気持ちがわかるんだァ〜!?

もちろんよ。。。

もし比嘉和子がシルヴィーのようなグラマーなハーフだったとしたら、1年以内に決着がついて、一人の男を除いて全員が天国に、あるいは地獄に逝っていたと思うよ。。。(苦笑)

それは、私を褒めているのォ〜? それとも馬鹿にしているのォ〜?

シルヴィーのご想像に任せますよゥ。。。

そんなことより、そもそも比嘉和子さんは、どういうわけで そんな孤島に出向いたのよ?

じゃあ、彼女の経歴を読んでみてね。。。

 



比嘉和子

 


(higa_kazuko.jpg)

(1923年 - 1974年)

 

映画『アナタハン島の真相はこれだ』
1953年4月10日公開、63分、戦争ジャンル

アナタハン島の生残り比嘉和子自身を主演者として製作されたもので、ほかに「劇団東芸」のメンバーが出演している。

戦争中、南海の孤島アナタハンに漂着した日本人漁船の男たちは、食糧不足や敵襲に悩みながら、たった一人の女性比嘉和子をめぐって愛慾の争いをつづけ、互いに殺しあい、終戦時、生残っていたものはほんの一部であった。

 

生い立ち

比嘉和子さんは大正12年(1923年)5月8日に沖縄県国頭郡名護町(現在の名護市)で兄二人、姉一人、妹一人の5人兄姉妹の四番目として生まれた。

和子さんが7歳の時に母親が亡くなり、その後すぐ父親が再婚して継母に育てられた。

12歳の時には父親も亡くなった。

他の兄姉妹と違い和子さんだけが継母との関係がうまくゆかず小学校を中退して大阪に働きに出た。

14歳の時に大阪岸和田にあるなナニワ紡績に就職したが1年3ヶ月で沖縄に戻り、地元の飲食店などで働いた。

17歳の時に当時出稼ぎでサイパンに行っていた兄を頼ってサイパンに行き兄の仕事を手伝った。

その後バガン島に行き食堂で働いていた時に南洋開発の社員の比嘉正一と出会い18歳で結婚した。

20歳の時に比嘉正一がアナタハン島に゙転勤になったので和子さんも一緒にアナタハン島に渡った。

昭和19年6月に比嘉正一がバガン島に行っいる時にアナタハン島は米軍の爆撃を受けて、取り残された32人の男と和子さんは6年間のアナタハン島の生活が始まった。

 

帰国してからの人生

比嘉和子さんは1951年に帰国し沖縄の名護に帰った。当時の年齢は28歳。

名護に帰ってきた時の服装は米軍に与えられたワンピースを着ており、荷物は風呂敷包み一つだけだった。

帰国後に正一さんを探そうとしていた和子さんでしたが、正一さんは和子さんが亡くなっていると思い沖縄で再婚して子どももいたので、家族から反対されて正一さんを探すことは諦めた。

後で、正一さんの耳に和子さんが生きて帰ってきたことを知らされて、正一さんは和子さんを訪ねて「すまなかった」と土下座して謝罪した。

 

【料亭の「南栄楼」で住み込み】

和子さんは名護市に戻ってから最初に料亭の「南栄楼」で住み込みの女給として働いた。予約が1ヶ月先まで埋まり、本州から和子さんを目当てにお客さんがやってくるほど人気があった。

やがて和子さんの人気にあやかってお金儲けを企む人が集まり始め、上京することになった。

上京する時には和子さんの兄が一緒について行ったが、和子さんは2年後の沖縄に帰った。兄が沖縄に帰ったのは13年後だった。

 

【映画に出演】

昭和28年には映画『アナタハン島の真相はこれだ』に和子さん自ら出演した。

契約金は30万円で、現在の価値だと1000万円以上。

しかし、そのお金は興行師に入って和子さんは受け取りませんでした。

 

【ストリッパーとして】

 


(strip10.jpg)

 

和子さんは興行師の口車に乗りストリップの劇場にもストリッパーとして立つように成った。

ストリッパーとしての人気も高かったが、次第に酒やギャンブルに溺れるようになり、ストリップで稼いだお金は博打で殆ど使ってしまった。

銀座、新宿、浅草などのストリップ劇場に立ったあとは東北巡業に行き、青森、岩手、秋田、福島などを回り、その後は富山、福井などを地方巡業で回った。

ストリップで地方を回ることをやめた和子さんは昭和29年に大阪の西成区に流れ着きました。そこでは旅館の女中として働いた。

 

【傷害事件】

西成区に来て数ヶ月後に知り合った男に石で顔や頭を殴られる暴行を行け、血だらけになって病院に運ばれた。

この傷害事件がきっかけで沖縄に帰ることになった。

 

【カフェアナタハン】

沖縄に帰った和子さんは名護の「南栄楼」で働いた後で、30歳の時に「カフェアナタハン」を開業した。

 

【再婚】

昭和33年10月30日、34歳で知人に紹介された男性と再婚。

彼には二人の連れ子がいる11歳年上の荷車職人でした。

結婚後は名護高校の近くで「たこ焼き屋」をオープンして夏はかき氷も販売して大繁盛だった。

たこ焼き屋を営業しながらも合間には夫の死後とも手伝い仲良く暮らし、二人の連れ子とも仲が良く、和子さんが40代半ばの時に夫が死去した。

 

【脳腫瘍でこの世を去る】

その後和子さん自身も脳腫瘍を患い昭和49年(1974年)に名護市の病院で亡くなった。

享年52歳。




出典: 「秘密の芸能サーチ」


 



なるほどねぇ〜。。。戦後は数奇な運命に翻弄されて、複雑な人生を生き抜いて、若くして亡くなったのねぇ〜。。。



若くして亡くなったけれど、普通の人の2倍以上の経験をしたのだから、本人は、この世に未練を残すことなく「アナタハンの女王」として あの世に逝ったと思いますよ。。。

そうかしら? 私だったら、ごく普通の女として人生を送りたかったと思うわァ〜。。。

こればかりは、あの世で眠っている本人に訊いてみないとわからないよねぇ〜。。。



(laugh16.gif)


【ジューンの独り言】


(bare02b.gif)

ですってぇ〜。。。

あなたが女性なら、一度でもいいから「アナタハンの女王」になってみたいと思いますか?

ええっ。。。「そんな事は、どうでもいいから他にもっと面白い話をしてよゥ!」

貴方は、そのような強い口調で わたしにご命令なさるのですかァ~?

分かりましたわ。。。

シルヴィーさんが登場する 興味深い面白い記事は たくさんあります。

興味があったら、ぜひ次の記事を読んでみてください。


(sylvie500.jpg)


『角さんと原発と天罰(2013年1月5日)』

『真紀子落選(2013年1月14日)』

『野火(2013年1月18日)』

『タイタニックと国際化(2013年2月1日)』

『宮澤理恵@Macao(2013年2月28日)』

『インドのキリスト』

『宗教戦争』


(sunwind2.gif)

『西部戦線異状なし』

『だらしない政治家』

『マトリックスの世界』

『細菌戦争』

『マルキの闇』

『チ−37偽札事件』

『核弾頭を積んでいた』

『サンダーバード号事件』

『チャーリー・ウィルソン』

『海外美女ダントツ』

『証拠の捏造』

『放射能悲劇』

『トランプ対ハリス』

『キリスト教での悪魔』

『大乗仏教の発祥地』

『うるわしい日本語』

『国家と個』

『ノーパン喫茶』



とにかく、今日も一日楽しく愉快に
ネットサーフィンしましょう。
じゃあね。バーィ。


(hand.gif)



(surfin2.gif)

ィ~ハァ~♪~!

メチャ面白い、

ためになる関連記事



平成の紫式部、橘卑弥子でござ~ます
(himiko92.jpg)

■ めれんげさんの『即興の詩』

■ めれんげさんの『極私的詩集』

Jagel - Soft Japanese Bagel
(bagel702.jpg)

■ "JAGEL - Soft Japanese Bagel"


(linger65.gif)


■ 『ちょっと変わった 新しい古代日本史』

■ 『面白くて楽しいレンゲ物語』


(beach02.jpg)

■ 『軽井沢タリアセン夫人 - 小百合物語』

■ 『今すぐに役立つホットな情報』




(rengfire.jpg)


(byebye.gif)

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 12歳少女の死 | トップ | 6歳でアメリカ留学 »

コメントを投稿

思い出の映画」カテゴリの最新記事