デンマンのブログ

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一文無しのお客

2023-10-22 01:42:21 | 日本人・日本文化・文学論・日本語
 

一文無しのお客

 


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デンマンさん。。。、無銭旅行したまま、ホテルにでも泊まったのでござ~ますかァ?


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無銭旅行だったら、テントを張ってその中で眠りますよ。。。できるだけお金を使わないのだから、ホテルなんかに泊まりません。。。

それなのに、どういうわけで 一文無しのお客 というタイトルにしたのですかァ~?

あのねぇ~、たまたま昨夜、古今亭志ん朝の『ぬけ雀』を聴いたのですよ。。。

 


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ぬけ雀

 

小田原宿に現れた若い男。
色白で肥えているが、風体(ふうてい)はというと、黒羽二重(くろはぶたえ)は日に焼けて赤羽二重。
紋付きも紋の白いところが真っ黒。

袖を引いたのが、夫婦二人だけの小さな旅籠(はたご)の主人。
男は悠然と
「泊まってやる。内金に百両も預けておこうか」
と大きなことを言う。

案内すると、男は、「おれは朝昼晩一升ずつ酒を呑む」と宣言。
その通り、七日の間、一日中大酒を食らって寝ているだけ。
こうなると、そろそろ、かみさんが文句を言い出した。

「危ないから、ここらで内金を入れて欲しいと催促してきな」
と気弱な亭主の尻をたたく。

ところが男は
金は一文もない
「だってあなた、百両預けようと言った」
と亭主が泣きつくと
「そうしたらいい気持ちだろう、と」

男の商売は絵師。
「抵当に絵を描いてやろうか」
と言い出し、新しい衝立ついたてに目を止めて、
「あれに描いてやろう」
それは、江戸の経師(きょうじ)屋の職人が抵当に置いていったもの。

亭主をアゴで使って墨をすらせ、一気に描き上げた。
「どうだ」
「へえ、なんです?」
「おまえの眉の下にピカピカッと光っているのはなんだ?」
「目です」
「見えないならくり抜いて銀紙でも張っとけ。雀が五羽描いてある。一羽一両だ」

これは抵当に置くだけで、帰りに寄って金を払うまで売ってはならないと言い置き、男は出発。
とんだ客を泊めたと夫婦でぼやく。

翌朝、亭主が二階に行き雨戸をあけると
雀が外に出て餌をあさってから、戻って来て、絵の中に納まった。
亭主はビックリした。

かみさんに話したが「真昼間から夢を見てるんじゃないよ」と全く取り合わない。
それで、近所の人を集めて、翌朝、雨戸をあけると、雀が外へでて、餌を食べてから戻ってきて絵に納まる様子を確かめる。
一同みなビックリする。

これが宿場中の評判を呼び、見物人がひっきりなしに訪れる。

ある日、六十すぎの品の良い老人が泊まり、絵を見ると
「描いたのは二十五、六の小太りの男であろう。この雀はな、死ぬぞ」

亭主が驚いてわけを聞くと、止まり木が描いていないから、自然に疲れて落ちるという。
「書き足してやろう」
と硯すずりを持ってこさせ、さっと描いた。
「あれは、なんです」
「おまえの眉の下にピカピカッと光っているのはなんだ」
「目です」
「見えないならくり抜いて、銀紙でも張っとけ。これは鳥籠(とりかご)だ」

なるほど、雀が飛んでくると、鳥籠に入り、止まり木にとまった。
老人は「世話になったな」と行ってしまう。

それからますます絵の評判が高くなり、とうとう藩主、大久保加賀守まで現れて感嘆し、この絵を二千両で買うとの仰せ。
亭主は腰を抜かしたが、律儀に、絵師が帰ってくるまで待ってくれ、と売らない。

それからしばらくして、仙台平の袴に黒羽二重というりっぱな身なりの侍が
「あー、許せ。一晩やっかいになるぞ」
見ると、あの時の絵師だから、亭主はあわてて下にも置かずにごちそう攻め。

老人が鳥籠を描いていった次第を話すと、絵師は二階に上がり、屏風の前にひれ伏すと
「いつもながらご壮健で。不幸の段、お許しください」
聞いてみると、あの老人は絵師の父親。

「へええっ、ご城主さんも、雀を描いたのも名人だが、鳥籠を描いたのも名人だと言ってました。親子二代で名人てえなあ、めでたい」
「なにが、めでたい。あー、おれは親不孝をした」
「どうして?」
「衝立を見ろ。親を籠(かご)書き(=駕籠舁【かごかき】)にした」



 



なるほどォ~。。。落語を字で読むと、全く信じられないお話ですけれど、志ん朝さんの噺を聴くと なんだかありそうに思えてくるから不思議でござ~ますねぇ~。。。



それが名人の域(いき)に達した落語家の名人たる所以(ゆえん)ですよ。。。

志ん朝さんという落語家は、いったいどう人生を歩んできたのでござ~ますかァ~?

ウィキペデアに詳しく書いてあるので ここに書き出しますよ。。。読んでみてねぇ。。。

 



古今亭志ん朝


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1938年3月10日 - 2001年10月1日

 

三代目 古今亭 志ん朝は、東京都文京区本駒込出身の落語家。
本名:美濃部 強次(みのべ きょうじ)。
出囃子は『老松』。定紋は『鬼蔦』。

五代目古今亭志ん生の次男。
十代目金原亭馬生の弟、女優の池波志乃は姪、俳優の中尾彬は義甥にあたる。

七代目立川談志、五代目三遊亭圓楽、五代目春風亭柳朝と共に、若手真打の頃から東京における『落語若手四天王』と呼ばれた。
他に、同世代噺家の中では『東の志ん朝、西の枝雀』と称される。

 

来歴・人物

強次(きょうじ)の名は一時期の父の師匠初代柳家三語楼が出生日の陸軍記念日に因んで命名したとされている。

獨協高等学校でドイツ語を学んだ。当初は外交官になるという夢があり、後には毎年弟子を連れて大好きなドイツへ旅行に行った

当初は役者を志しており、噺家になる意志はなかったが、志ん生から「歌舞伎役者は親が役者でないと上に行けないが噺家は扇子一本で偉くなれる。」と説得され入門した。

父の志ん生に入門してから5年目という異例のスピードで真打に昇進し、主に八代目桂文楽の演じ方を基調としながら、のちに六代目笑福亭松鶴に心酔して豪胆さを修学し、名実共に大看板として人気を博した。

若い頃はテレビ出演も多く、喜劇俳優としての仕事もあったが、後にはタレント的な活動をセーブして本業の落語家としての活動に注力した。
独演会のチケットはすぐに完売するほどの人気であり、古典芸能の住吉踊りを復興させたことでも有名である。

同業者からの評価も非常に高く、若手の頃の志ん朝を指して八代目桂文楽は「圓朝を襲名出来るのはこの人」と父志ん生に述べた。
圓朝は落語界では誰も継げない止め名であり、文楽はそれほどに志ん朝を買っていた。

入門から5年目の真打昇進は文楽の鶴の一声によるものだった。
志ん朝の晩年に七代目立川談志は「金を払って聞く価値のあるのは志ん朝だけ」と語っている


一部のファンや俳優仲間からは「朝(チョウ)様」の愛称で呼ばれた。
また、長らく新宿区早稲田鶴巻町に居を構えていたが、その後新宿区矢来町に転居し、以後一部では「矢来町」という呼び名でも親しまれた。

落語家としては初めて高級外車を乗り回したり、豪邸を建てたりしたことで知られる。
しかし前者に関しては父・志ん生から猛反対され、後者では男性週刊誌記者から「落語家が豪邸を建てるとは何事か」「長屋住まいを続け金に執着しない八代目林家正蔵(林家彦六)を見習え」と非難されたりと風当たりは強かった。

しかし彦六の弟子の初代林家木久蔵(現:林家木久扇)は「これからの若手が経済面で手本とすべき存在」と高く評価している。

一方では、客入りの良くない名古屋の大須演芸場を守る足立席亭の心意気に感じて、1991年から毎年独演会を行った。
大阪では道頓堀角座に初めて出演した時、落語が受けなかったので漫談を高座に掛けて大いに受けた。

ところが支配人から「漫談ではなく落語をしてもらうために呼んだのだ」と注意され、以降は落語をきっちり演じるようになった。
大阪の客に東京の落語が受け入れられるまで5年かかったが、大阪の街を心から愛するようになったという。

大阪の定宿としていた千日前の旧・上方旅館の女将の葬儀で、関西のしきたりで一番重要な“止め焼香”を遺族に懇願されて行ったりもした。
旅館を建て替えて設立されたトリイホールは、上方噺家のみならず、志ん朝一門など東京の噺家も“大阪で定席を打てるホール”として、2020年3月の閉館まで活用された。
生前の志ん朝も「死ぬまでここでやる」と、大いに喜んだという。

落語以外にも、佃煮・ふりかけ「錦松梅」のCMキャラクターとしても有名で、「中身もいいけど、器もいいねえ」というCM中のセリフを、高座では他の色々なものに置き換えて「器はいいけど、中身は…」などと一種のセルフパロディに仕立ててよくネタにしていた。
この他麦茶や紙おむつのテレビCMに出演。

 



 



 



 

二ツ目時代に身の回りに不運が続いたため、信心が足りないと母に言われて谷中の寺に守り本尊としている虚空蔵菩薩へのお参りに出向いたところ、その寺の住職に、虚空蔵菩薩の使いは鰻であるので、菩薩の命日である13日は鰻断ちするよう勧められた。

しかし、13日だけなんて勝手な話は無いと、以来40年以上に渡り大好物であった鰻を断った。
鰻については、1994年のテレビ朝日『徹子の部屋』出演時、「初めは我慢するのが大変だったが、食べたいと思わなくなった」と語っていたが、最晩年、『ニュースステーション』の「最後の晩餐」コーナーに出演の際には「鰻を死ぬほど食べてみたい」と語っている。
癌による死を前に、食べたいものを聞かれた時も「鰻が食べたい」と語ったという。

晩年、時間がない時などは決まって漫談「山田吾一」を高座にかけていた。
自分が俳優山田吾一と間違えられるサゲのこの演目はいわゆる自虐ネタであるが、志ん朝が最後に演じた演目でもあった。

所属団体は落語協会で、若手時代には将来の落語協会の大幹部候補としても嘱望されたが、後述する落語協会分裂騒動の際の自身の身の振り方の経緯や、騒動以後は高座に専念し協会内部の政治的なことからは比較的距離を置いていたこともあって、58歳から亡くなるまでの5年間、副会長職を務めるに留まった。

父、兄同様に酒を愛したが長年に渡って糖尿病を患い、時折入院加療していた。

最後の高座は2001年8月11日~20日までの浅草演芸ホール「住吉踊り」。
公演途中の14日から緊急入院していたが、病院から寄席に出演し続けた。

2001年10月1日、肝臓がんのため、自宅で家族、弟子に見守られる中、63歳で死去。

遺影は、村松友視と対談時に撮影された洋装で帽子をかぶり頬に手を当てて微笑むもので、出棺の音楽はカラオケで良く歌ったというサザンオールスターズであった。
大切にしていたドイツ語の辞書は、棺に納められた

 

志ん朝に影響を与えた落語家

父である志ん生を尊敬していたが、芸の形を真似しても育った環境も人生経験も全く異なる父の境地に近づく事は不可能と考えていた。
8代目桂文楽に注目して噺を丹念に組み立てる方法で自らの芸を構築していった。

6代目三遊亭圓生も敬愛する大先輩であった。
1978年5月の落語協会分裂騒動では、志ん朝は一時的に圓生と行動を共にして落語協会脱退を表明している。
しかし当初見込みとは異なり、東京都内の落語定席の席亭たちは圓生の新団体に寄席出演を許可しなかった。

志ん朝一人だけならば3代目三遊亭金馬のように寄席に出ずに活動することは可能だが、自らの弟子を含む若手の落語家にとって寄席出演は芸を磨くために重要と考え、周囲の説得もあって脱退を撤回した。
この時「これからは芸を見てもらう、それしかありません」と決意表明をし、落語協会の会長であった5代目柳家小さんは、新宿末廣亭席亭の北村銀太郎の助言もあり香盤を下げずに志ん朝を含む協会復帰組を受け入れた。

大阪の落語家との交流の深さは同世代の東京の落語家の中でも群を抜いていた。
6代目笑福亭松鶴に心酔し、自身「大阪の角座に出るたびに追っかけまわした」と証言するほどであった。
そんな志ん朝を松鶴も可愛がり、その縁から志ん朝は大阪の寄席にも頻繁に出る機会を得て、大阪の客に受け入れられ芸も上達した。
志ん朝にとっては松鶴は芸の恩人であり、遊びを教えてくれたよき先輩でもあった。
志ん朝自身、上方落語界復興の苦労話を松鶴から夜を徹して聞かされたのが一番感動した事だと述べている。

他には3代目桂春團治・3代目笑福亭仁鶴とは二人会を開くなど親交を深めた。
特に春團治とは共に親が落語家であったこともあり双方とも格別の思い入れがあった。
二人会になると文字通りの真剣勝負で、二人とも気合いの入った高座となった。

立川談志との若手時代からのライバル関係は有名であり、志ん朝に真打昇進を追い越されたことが、談志が奮起するきっかけになった

また落語協会分裂騒動では三遊亭圓生が三遊落語協会の自らの跡目を志ん朝としたことが、談志が土壇場で新団体参加を断念した大きな要因であったとされている。
この件を巡り、談志とは激しい口論になった。
談志の芸は協会離脱後志ん朝とのライバル関係がなくなったから衰えた、という説を談志の弟子が唱えていたことがある。

 






出典:「古今亭志ん朝」
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』


 



すぐ上の古今亭志ん朝さんを偲ぶクリップの最後に『愛宕山』を演じるのだけれど、僕は志ん朝さんが演じる演目の中では一番気に入らないのですよ。。。



どこが気に入らないのでござ~ますかァ~?

この話には、志ん朝さんが意図的にうまく演じようとしているのが感じられるのです。。。自然体で演じているようには感じられない。。。

デンマンさんが言おうとしていることが あたくしには良く分かりませんわァ~。。。

あのねぇ~、山登りするところとか、土器(かわらけ)を投げるところとか、なんとなく不自然なんですよ。。。お客さんを笑わせようという意図を感じるのです。。。『ぬけ雀』には、そのような作為(さくい)は感じられない。。。『ぬけ雀』は、あくまでも その場の成り行きのままに進んでゆく感じなんですよ。。。

そうでしょうか?

もちろん、卑弥子さんには卑弥子さんの聴き方があるから、僕とは違った印象を持つかもしれないけれど、つまり、個人差がありますよ。。。卑弥子さんを納得させるだけの説明は僕にできないかもしれません。。。タイトルに 一文無しのお客 と書いたけれど、志ん朝さんのたくさんの演目の中で 一文無しのお客 が出てくる演目がもう一つあるのですよ。。。『宗珉の滝』という演目で、僕は『ぬけ雀』と『宗珉の滝』が志ん朝さんの演目の中ではとりわけ好きです。。。

 


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宗珉の滝

 

江戸時代腰元彫りの名人橫谷宗珉の弟子に宗三郎がいたが、破門されて仕方が無く各地を旅したが、3年後紀州に着いた。
旅籠岩佐屋に逗留したが、文無しで10日が過ぎて、宿の亭主に露見した

旅籠賃の代わりに、何か仕事をさせようと手を見ると居職で彫金でもやるだろうと見抜き、作品の小柄(こづか)の彫り物を見せてもらう。
誰が見ても誉める品だが亭主は小柄の虎を見て、なぜ死んだ虎を彫るんだと詰問。
死んだ虎と言ったのは師匠の宗珉とご亭主だけで、破門されたのも死んだこの虎を彫ったからで、ぜひ弟子にしてくれと嘆願した。

素人の私だが見方が違うので、注意をしても怒らないで聞いてくれたら面倒を見よう。
下の六畳二間を貸すから、仕事場と寝る所に使えば良いとお許しが出た。

だんだんと亭主が気に入るような物が彫れるようになってきた。
800石を取る留守居役木村又兵衛が泊まって、このことを聞いた。
殿のご機嫌が良いときに紹介しよと言ってくれたが、宗三郎最近は精進が出来なく、酒浸りの生活に戻っていた。

殿様から直々に那智山の滝を彫るように依頼があった。
精進潔斎し、水垢離をして始めなさいとの意見を聞き入れず、前祝いだと酒を飲み始め、仕事に掛かった。
4日掛かって仕上げ、亭主も感嘆しているので、納まったら100両だという。
宿賃と授業料だから、全額亭主に差し上げるという。まだもらっても居ないのに。

殿様それを見たが、沓脱ぎに投げ捨て、再度彫らせるようにと言付けであった。

宗三郎、再度酒を飲んで仕上げた。
前回より素晴らしかったが、殿様受け入れず、泉水に投げ込んでしまった。
そして、再度の要請。
 
宿に戻って、宗三郎に話すと、分かった、やるから酒を持ってきてくれと言ったので、ご亭主が怒り出した。
「俺を一人前にしてくれと言うから面倒を見ているのに、私の言うことも聞かず酒ばかり飲んでいるから納まらない。それは力量があるからではなく、酒を飲まなければ恐くて仕事が出来ないのだ」

宗三郎は決心したように、本物を見なければならないと滝壺に下りて行き、三七21日断食するという。
滝から上がった宗三郎は死人のようであった。
身体をいたわるより、今すぐ仕事場で、身体に入っている滝を彫り上げたいと言い残し、七日七晩一生懸命に彫った。

仕上がって部屋から出て、もし、納まらなければ切腹すると言うし、宿の亭主は立派な物なので必ず納まるし、ダメだったら私も一緒に死ぬと約束した。
でも、仕上がりを見ると先の作品よりマズく見えた。
やな事を約束したと後悔したが、仕方が無いので屋敷に持ち込んだ。

殿様、ジッと観ていたが、求めるという。
今回お求めで無いと2人の命が掛かっていたと伝えると、与のために命を賭して仕事をしてくれたか、明日お目通りを許す、との有り難いお言葉。
翌日面会をすると100石で宗三郎をお抱えになった。

岩佐屋には、腑に落ちないことがあった。
先の2点は自分が見ても出来も良かったが、最後の作品はそれほどでも無かった。
どうしてそれを求められたのか、木村様を通じて聞いてもらった。

殿様が観ているとじっとりと手が濡れてきた。
慌てて紙の上に置くと、紙に湿り気がきたという


すごいでしょう。
芸術家とはこの様にありたいという。

それを江戸の橫谷宗珉に知らせると、宗珉は老齢で床に伏せっていた。
宗珉は二代目宗珉の名前を紀州に贈ってきた。
紀州家の先祖は南龍院と言ったので、龍の一字をとって、一龍斎橫谷宗珉として紀州にその名を留めた。



 



なるほどォ~。。。デンマンさんは、勘当されたりした職人や芸人が、落ち込んだり、苦労した末に、名人の域(いき)に達するという噺が好きなのでござ~ますねぇ~。。。



確かに、言われてみれば、二つの噺とも、そういう内容になってますねぇ~。。。とにかく、ひとりで、すべての登場人物に成りすまして、あれだけの長いセリフを覚え込んで1時間近い演目を演じるのだから、落語家はバカじゃできないですよ。。。

そうですわねぇ~。。。。

しかも、二つの演目は共に あり得ない噺ながら人を感動させるものがある。。。素人が真似して同じ内容を本を棒読みするように演じたら、とても あの感動と共感は起こりませんよ。。。しみじみとすごいと思います。。。志ん朝さんは名人の域に達していたと思いますよ。。。


 


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【ジューンの独り言】


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ですってぇ~。。。

あなたも、2つの演目を聴いてデンマンさんが言うように感動いたしましたかァ~?

ええっ。。。「そんなことは、どうでもいいから、何か他に面白い話をしろ!」

貴方が、そう言うのであれば、デンマンさんがピンタレストで「ランジェリー 下着」のページを立ち上げました。。。

覗いてみてください。。。男性ならば、ムンムン、ムレムレになって元気をだしてください。。。

女性であれば、若い頃を思い出して、若やいだ気分になってくださいねぇ~。。。

 


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『拡大する』

『実際のページ』


 

ええっ。。。「そんなことは、どうでもいいから、何か他に面白い話をしろ!」

貴方は、そのようなムカついた口調で 更に、あたくしに御命令するのですかァ~?

分かりましたわァ~。。。

じゃあ、ショッキングなニュースでもお伝えします。。。

かつて「セサミストリート」で子どもたちに慕われていた人気者のビル・コスビーは、芸能界では幅を利(き)かせて大きな“権力”を握り、百人近い女性に対してセックスを迫ったのです。。。

 





 

子どもたちに性的ないたずらをしなかったことが せめてもの罪ほろぼしですわァ~。。。

ええっ。。。「そんな事は、どうでもいいから、もっと他に面白い話をしろ!」

あなたは、そのような強い口調で 更に あたくしに ご命令なさるのですかァ~?

分かりましたわァ。。。。

では、あなたもビックリするような

忠臣蔵のとっても古い映画をご覧くださいまし。。。

なんと。。。昭和3年(1928年)制作の『忠臣蔵』ですわよう!

無声映画ですけれど、弁士の方がなかなかうまい説明をしてくださいますわ。。。

つい、引き込まれて観てしまうのですわ。。。

浅野内匠頭(あさの たくみのかみ)がどうしてヘマをしでかしたのか?

そのへんのところが詳しく映像に残っております。

観るだけの値打ちがありますわ。。。

では、どうぞ。。。

 



 

ところで、どうして小百合さんが

「軽井沢タリアセン夫人」と呼ばれるのか?

 


(sayuri5.gif)

 

あなたは ご存知ですかァ?

実は簡単な事なのですわよう。

小百合さんは軽井沢に別荘を持ったのですわ。

小さな頃から軽井沢に住むことが夢だったのですってぇ~。。。

分からない事ではござ~ませんわァ。

そもそも小百合さんが軽井沢に興味を持ったのは、朝吹登水子のエッセーなどを読んだことがきっかけだったとか。。。

現在、朝吹登水子の山荘、睡鳩荘(すいきゅうそう)は軽井沢タリアセンに移築されて公開されています。


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それで、小百合さんは軽井沢タリアセンを訪れては睡鳩荘に足を運んで少女の頃の事を思い出すのが楽しみなんですってよ。

そういう訳で、デンマンさんが小百合さんのことを「軽井沢タリアセン夫人」と呼ぶようになったのですわ。

軽井沢・雲場池の紅葉



軽井沢のイルミネーション



秋の旧軽井沢銀座ぶらり散歩



とにかく、明日もデンマンさんが興味深い記事を書くと思いますわ。
だから、あなたも、お暇なら、また読みに戻ってきてくださいまし。
じゃあねぇ~~。


(hand.gif)


メチャ面白い、

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ところで、平成の紫式部こと、卑弥子さんは見かけによらず、京都の女子大学で腐女子に「日本文化と源氏物語」を講義している橘卑弥子・准教授という肩書きを持っています。

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