地方公設試験研究職を勤めあげ?、70歳ころまで溶接技能検定にタッチすることができました。間質性肺炎に悩まさる欲張りです。
ゆうゆう職場



一昨日の入道ヶ岳(冠岳)の裾を巡る林道歩きがヤマを想い出す。昨日から、病身?の体力でも可能な山登りを、すなわち低山徘徊を目論む。布団の中で西南西の市境にある錫杖岳に決める。Z市からの道は険しそうだが、何度も登る名阪国道経由なら軽トラ駐車から300mほどの高度差しかなく、何とかなるだろう と。今朝は早めに軽トラで出動、9:35頃には登山口に到着でき何十年ぶりの早朝?入山となる。・・・・朝飯前に、鈴鹿の宮指路(946mからのクシロ とか)や入道へ登ったのが懐かしい。

 100mも進まぬうちにちっちゃな滑滝?が迎えてくれる。前回のヤマでも気になったが、先週の台風による雨で流量が増えて滝らしいのが嬉しい。なお、足拵えはスパイクピン付き山用の長地下足袋である。山歩きを始めたころから、ジョギングシューズ系でごまかしていたが、砂利・落ち葉に難儀しせめてトレッキングシューズでも と思っていた。10年ほど前に第二職場勤めを始め、毎年の晩秋1回だけだが尾鷲市へ技能試験の準備に出向いた。当然!熊野古道散策は外せない(仕事を終えてからの)。特に、八鬼山についてはこのブログに毎年のように記したとおり。紀伊長島、尾鷲や熊野は海の他に山仕事の地でもある。何年か経って、尾鷲のHCでスパイク長地下足袋を見つけて八鬼山から履きだした。

 地下足袋のこと。若かった1980年代のある日、職場の若干先輩でヤマの師匠;KTさん発案の1泊の鈴鹿縦走で、やはり先輩(同輩クラス)のTSさんともども師匠が貸してくれたパイプフレーム背負子を負いねて愉しんだ。その時に師匠が勧めたのが地下足袋。当時はスパイク付に興味もなく土方さん・鳶さん愛用の長地下足袋(亡父もよく履いておりまして製造所由来か五女子=ゴニヨシ と呼んでおりましたなぁ)を履いた。その後、ジョギングに興味が移り地下足袋の出番は少なくなっていた。・・・それでも、何年か後に師匠が誘ってくれた大台・堂倉滝からの遡上が最後だったかなぁ~あ、この3人でやはり一泊した奥美濃の冠山+若丸山の一泊も懐かしいなぁ

(この3葉は帰路に撮影のもの)

 

いかん、錫杖さんが何処かへ行ってしまった。

昔のヤマの(それも低山ばかりの)想いが湧きだしてきて止まらない。これも線維化が進む肺では今後は低山はおろか林道歩き、さらには田圃の散策も諦めねばならん の無念がなせること。緩い山道を歩くにも息がはずみだしたこの頃、近い将来は当然に野良仕事も✕となり、動けなくなるのは必至。さらには居なくなって!妻子に残してしまう土地の諸問題etc.が圧し掛かる。それらから逃げるように田圃の散策をし、時には一昨日や今日のようにヤマに入ってしまう。癒しもなにもないヤマ行きである。

(疲れたから、気が向けば明日にでも続きを書く)

 

 



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