神の手は力ある働きをする。

 主の右の手は高く上げられ、
 主の右の手は力ある働きをする。

(詩篇118編16節より)

おまえのことなんか愛している人間は誰もいない。

2024年08月26日 | キリスト教

【縛られた魂】エリュー・ヴェッダー

 

「おまえのことなんか愛している人間は誰もいない」――と、夢の中で悪魔のような存在に言われたと、ひとつ下の記事に書きました

 

 まあ、文字だけ見ても結構なパワー・ワードというのか強い言葉と思うのですが(同じ意味やがな・笑)、わたしにとってはなかなか面白い夢だったのです。何故かというと、夢の中にはっきり「悪魔だ」と感じたり、「一見そうと見えないけれども、悪霊的なものが取り憑いている人」みたいな人物が現れた場合……基本的に勝つことが出来ず、目が覚めたあとに「なんとも言えない嫌な気持ち」になったりすると思うのですが、わたしこの時、はっきり「勝った」というような、不思議な面白い勝利感がありました(^^;)

 

 その~、なんというか夢の中とか、寝起きの前後であるとか……霊的に攻撃されると、わたし自身は勝てないことが多い。それは無意識が支配する無防備な領域なので、そこをグサリ☆と刺されると、目が覚めたあとも結構「なんかや~な感じ」という余韻が残っていたりもして、自分の信仰の弱さにガッカリしたりもするわけです。

 

 それで、オレンジ色の髪の女の悪魔さんのほうがですね、「この言葉さえ言えば、絶対コイツは心がグッサリ傷つくぞ」という、なんとも自信満々な確信した様子だったのです。でもわたしが「え?それが一体どーしたの?」といった態度でいると、逆に向こうがショックを受けて足許から「存在自体」が消えはじめたわけです。

 

 こういう時、多くの方が思うのが「いや、悪魔はそんなことを言うが、私には自分を愛してくれる妻/夫がいる」とか、「少なくともお父さんとお母さんには愛されてるもーん!」とか、「息子や娘が私を愛してくれる」とか、「友達がいる」、「恋人がいる」、「彼氏/彼女が……」などなど、おそらく「誰か」のことが頭に思い浮かぶのだろうと思います。

 

 でも、わたし自身の場合は特にそうしたことでもなかったのです。こう書くからといって、特段わたしは普段愛に溢れた人間でもなければ、そのような行動を常に心がけているわけでもなく――どちらかと言えばだらしなく、神さまのためにも何もしてないような生活と思います(福音伝道ということに関して)。また、隣人愛に富んでいるとか、ボランティア活動に励んでいるとか、そんなこともあまりなく「善意を施せる機会があれば、そうしたいと思う気持ちはあるけど……」という、熱意の欠けた優柔不断な人間ですらあります。

 

 ただ、自分の無意識層の部分にはどうやら愛がひとつひとつの細胞に詰まっていたらしく、悪魔の存在が足許から消えたのはそのせいだったと思います。それはわたし個人のものでもあるかもしれませんが、今までの人生で人から受けた愛や善意や恩義……そうした土台の上に建っているのと同時、イエスさまの愛、神さまの愛、ひとつひとつの細胞を繋ぐ聖霊さまの臨在による深い愛、そうしたものが寄り合わさっていたからこそ、なんのダメージも受けなかったのだと思いました。また、自分の親族含めた他者から受ける愛ばかりが愛ではありません。仮に相手から一切なんの見返りもなかったとしても、あるいは相手が自分を嫌っていた場合でも、わたしのほうではその人の幸運や幸せを祈ることが出来る――それが将来なんらかの実を結ぶだろうとか報いを見ることもあるだろうとか、そんな期待すらも持たない。それでも相手を愛することが出来る……ということが根底にあると、自分の周囲に誰もなく、完全に孤独であったにしても、悪魔・悪霊といった存在からなんの害も受けずにいることが出来る、そうしたことでもあると思います。

 

 まあ、こう書くと何やら偽善的ですらあると思いますが、わたし今までああした存在が出てくると負けてしまうことが多かったので、「あ、そっか!悪魔とか悪霊みたいな存在に完全に勝つってこういうことなんだ!!」と思って、何か嬉しかったのです(^^;)

 

 このことは前にもどこかに書いた気がするのですが、「信仰の家の建て上げ」って本当に大変と思います。一個一個煉瓦を積んでいったところ、「よしよし、この調子でがんばろう!!」とか思ってたら、翌日には悪魔がやって来て、地震でも起きたかというくらい、根底から苦労して積み上げたそれを全部壊してバラバラにしていきます(しかもこのバラバラの中には人間関係が含まれることさえある)。でも、神さまの土台であるコーナーストーン(礎の石)はしっかりそのままそこに据えてあるということで、再びそこを起点にしっかり家を建てていくわけです。

 

 >>『家を建てる者たちの見捨てた石、

 それが礎の石になった。

 これは主のなさったことだ。

 私たちの目には、不思議なことである』

 

(マルコの福音書、第12章10~11節)

 

 個人的に、わたし自身はクリスチャンとノンクリスチャンの違いというのはこの点ではないだろうか……と思うことが時々あります。家がバラバラにされたのは同じでも、クリスチャンの場合は土台の礎石が残っているので、「神さま、どうして」とも思わず、もしかしたらある程度落ち込んだにしても、再び煉瓦を積み上げはじめるわけです。もちろん、ノンクリスチャンの方もそれは同じと思います。苦しみや悲しみに打ちのめされていても、生きている以上は生きていかなくてはいけないので、そうした生活に必要なことはどうにか頑張って行っていき、結果、隣のクリスチャンの住む家より何倍も豪華なお屋敷に住んでおられるかもしれません。でも、クリスチャンの方の場合、「わたしは真実ほんとうの神を信じてるはずなのになんでだよーう!!」とか、「イエスさまを信じてない人より少しはいい暮らしってのをする権利があるはずだよーう!!」とか、思わないわけですよね、不思議と(^^;)

 

 何故かというと、(正しい)霊によって築き上げられていない家というのは、いずれまた壊れるか、壊されるかするからです。でも、クリスチャンの方の場合は家屋敷といった目に見える物質的なものにそもそも基礎を置いていないので、自分が今住んでいる場所に関しても「また壊れるか、壊されることもあるだろう」と思い、「再び壊されても神さまを感謝し賛美する」ということが、最初に礎石として据えてある……ということだと思います。

 

 また、日本は地震の多い国ですから、災害の起きることは自然の摂理として避けられないため、<地震>や<津波>といった言葉を口にする時、よくよく注意しなくてはならないのですが、わたしの書いてるのは「霊的な家」のことだったりします。何か人生で不幸なことが起きると、わたしたちの心の家、精神の家屋、魂のお城のような場所は見るも無残な様子を呈してしまいます。それに、そこが壊れても、直したり癒したりするのに協力してそれを行ってくれる人がいると、修復のほうも速やかに進むと思います。でも、協力者のいない孤独な人というのは、全部自分で行わなくてはならないので大変です。それでもなお、イエスさまを信じることは、わたしたちには「神を喜ぶことは、あなたがたの力だから(ネヘミヤ記、第8章10節)」とはっきり言い切ることの出来ることです。そんな時にこそ悪魔・悪霊のような存在がやって来て、「おまえはひとりぼっちで、なんと惨めなのだろう。神なぞ信じるのは無駄なことであるとして信じることなぞやめたらどうだ?」と誘惑してきたとしても、です。

 

 これは「霊の家」のお話ですので、イエスさまが「この神殿を壊してみよ。わたしはそれを三日で建てよう(ヨハネの福音書、第2章19節)」とおっしゃったのと同じく、礎石さえしっかり据えてあったら(つまり、イエスさまのことを信じて聖霊を受けてさえいたら)、あとは自分に出来る限りのことをして毎日地道に煉瓦その他を積み上げ、モルタルなどで固めていくしかありません。すると「主はその愛する者には、眠っている間に、このように備えてくださる」(詩篇、第127編2節)というあの不思議が必ず起きてきます。自分では十個しか切石や煉瓦その他を積めなかったとしても、悪魔や悪霊のような存在がやって来て、それがある程度積み上がった時にバラバラにしていってさえ……イエスさまに頼ると、最初は掘っ立て小屋のようなものだったのが、翌日には自分が実は大きなお城に住んでいたと気づくようなものです。

 

 これはあくまでわたし個人の天国に持っている「イメージ」に過ぎないことなのですが、「わたしは天国ではお城に住んでいて、その近くには湖がある」といったイメージを持っている方は不思議と多いと思います(これはクリスチャン・ノンクリスチャンの方関係なく)。また他に、こうした城が「雲の上に聳えている」というイメージを持っている方もいるでしょう。「天国というのはそのような場所だ」という言及が聖書にはありませんので、いいかげんなことは言えませんが、何故か不思議とこうしたイメージを宗教の別なく心の奥深く、魂のような場所で感じている方が多いというのはとても不思議なことのような気がします。

 

 もしかしたら、イエスさまを信じるというのは、天国に住む家の設計図を手に入れることでもあるのかもしれません。わたしたちはそれを見ても、最終的な完成図のようなものがよくわからず、それどころか何が書いてあるかさえよく理解できないものだと思います。でも信じてその完成に努める時、「すでにすべては与えられている」とわかります。それは「神の愛」が頂点にある世界であり、本当の愛というものは、イエスさまがそれをお持ちだったように……自分が仮にそれを与えられずとも、「与えられるものが自分があり」、与えた相手がそれを自覚して感謝するかどうかは別として、「与えることが出来たその瞬間」に十分満足し、すでに「完成した」(ヨハネの福音書、第19章30節)と言えるものだからです。

 

 それではまた~!!

 

 

 

 

 


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