【最後の審判三部作之三:天国の平原】ジョン・マーティン
悲しみの川は誰も泳いで渡れない
きのうの夜も
わたしは海のように広く、冷たい水の中で
溺れそうになった
意識はその深みに耐えられず
どうしても途中で戻ってきてしまう
そして、浅い眠りから覚めると
いつでも頭痛に見舞われる
そして、その「感じる」ということを通して
自分がまだ、「生きている」ということがわかる
向こうへ渡れない者にとって
生きていることは呪いに他ならない
だが、これほど素晴らしい呪いもない
あなたとの思い出をひとつひとつ思い出すのに――
これはわたしが、詩人のエミリー・ディキンスンに影響を受けて書いたものです。
前回は天国について書いたのですが、クリスチャンであるわたしにとって、天国は「ある」というのがあまりにも当たり前の話だったりします(^^;)
ただ、その前にある厳粛な「死」というものは、人間誰しもにとって不思議で不可解な「謎」であったりしますよね。詩人のエミリー・ディキンスンほど、この「死」というものから目を逸らさず、詩作という創造的作業によって「痛みを癒しへ」変えようとした人は、他にいないくらいだと思います。
これもディキンスン関連の書籍に書いてあったことですが、「人が死を恐れるのは、その全貌が前もってわからないからだ」ということでした。本当に、その通りですよね。「死」というものがどんなものかあらかじめわかっていたら――「ああ、死ね。オッケーオッケー、大したことないよ」とでも思い、お葬式の時も、しめっぽくなることなく、サンバを踊るダンサーの方にでも来ていただいて、賑やかに執り行われる……もしかしたらそんなことが普通でさえあったかもしれません。
非常に面白いことですが、ディキンスンはある詩の中で、「わたしたちの意識は、やがて死の目覚めの意識となるだろう」と言っています。わかりにくいかもしれませんが、たとえば、わたしが仮に死んだとしたら――エミリーは、死ぬというのは、単にわたしたちが普段「服」を脱ぎ捨てるように、肉体という服を脱ぐだけのことだ、とも言っています――まあ、次の瞬間に気づくというわけです。「あ、わたし死んだんだな」って。
つまり、人間の肉体が滅んでも、その人の「意識が続く」というのは、そういうことだと。それで、この前提に立って話を続けるとしますと、死んだあとにそのように意識だけの存在であることにわたしが気づいたとして……何を思い、考えるのか(笑)。
わたしは何故死んだのだろう――それが脳梗塞であれ心筋梗塞であれ……「死ぬまで苦しかったな」ということを、わたしは思い出すのでしょうか?それとも、死ぬ前に「あの人とこの人には会っておきたかった」と思うのでしょうか?もちろん、こんな推測をしたところで、「実際どうなのか」なんて、死なない限りわかりません。
でも、わたしが想像しますのに、もう<生きていた頃>のことに執着を持つ、ということはないような気がするのです。クリスチャンにとって死ぬ、ということは――生前は、肉体の中に精神・心・魂(霊魂)というものがあって、この心理的・霊的領域おいて、わたしたちは聖霊さまを通し、神さまと繋がっていました。
そして、肉体が死んで、わたしたちがそれを衣服のようにぽいと脱ぎ捨てると、霊だけの姿となって、天国へ、神さま、イエスさまの元へと迷いなく上ってゆきます。以前までは、肉体という制限を通してしか、イエスさまと繋がれなかったわたしたちも、今度は完全な霊の体によって、霊の目を通して、直接天国がどんなふうなのかを見ることが出来るのです。
何故、そんなことをあなたは確信しているのかと、不思議に思われる方も多いでしょう(ノンクリスチャンの方であれば、なおのことそうだと思います^^;)。
もしかしたら、誤解を生んでしまうかもしれないので、冒頭の詩について説明しますと、わたし自身は天国のこともイエスさまのことも、「え?何を当たり前のことをおっしゃるのですか」というくらい、体が酸素を吸うのと同じくらい、当たり前のことのように信じています。
ただ、誰か自分にとって大切な方が亡くなると、「相手が本当に天国へ行けたかどうか」心配になったり、自分も後を追いたいのにそう出来ない……そうしたことが胸に押し寄せる時、「人生は呪いだ」とその方にとって感じられてもなんの不思議もない、ということなのです。
もちろん、生きていることは祝福です。けれども、亡くなった大切な人のことを思い、悲しみに胸も潰れそうな時、生きていること自体が呪いのように感じられる――生涯を通してこの道を一度も通らない方というのは、ひとりもいらっしゃらないような気がします。
けれども、時間がかかっても、自分が生きていることを「呪いのように感じている」ことを、天国にいるあの人も喜ぶまいと思い……人は少しずつ立ち直ってゆく、あるいは立ち直ってゆかざるをえないということなのでしょう。
でもやっぱり、ちょっと――いえ、ちょっとどころでなく、きっとわたしたちは驚いてしまうのでしょうね。もはや死なない体と不死の魂によって天国へ甦る時……今度はイエスさまを「直接霊の体によって礼拝できる」喜びに服す時、その前まで自分の人生にどんな悲惨があろうとも、すべての悲しみは拭い去られ――ただ、神さまの霊の平安とともに、これからは永遠に過ごすことが出来るのです。
え?天国っていうのは、随分退屈そうな場所じゃないかとおっしゃいますか?(笑)
どうなのでしょう。わたしは確信を持っていうことは出来ませんが、天国の生活というのは楽しいのみならず、適度に忙しいのではないかと、わたしは漠然と想像しています。
>>また私は、新しい天と新しい地を見た。最初の天と最初の地は過ぎ去り、もはや海もない。
また私は、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために装った花嫁のように支度を整え、神のもとを出て、天から降って来るのを見た。
そして、私は玉座から語りかける大きな声を聞いた。
「見よ、神の幕屋が人と共にあり、神が人と共に住み、人は神の民となる。神自ら人と共にいて、その神となり、目から涙をことごとく拭い去ってくださる。もはや死もなく、悲しみも嘆きも痛みもない。最初のものが過ぎ去ったからである」
(ヨハネの黙示録、第 21章1~4節)
最初のもの――それはわたしたちが今現在住んでいる、古い天と地です。わたしたちはいつか、新しい天と地を支配されるイエスさまの元に集められます。その人々はきっと、まるで天使の群れのようでしょう。
言い換えれば、イエスさまに救われた人々というのは、まるで天使の群れのようなのです。イエスさまは地球上のすべての自分を信じている人々を、終わりの日に呼び集められるのですから!
どうか、すべての人がそのように神さまの栄光に浴することが出来ますように
それではまた~!!
悲しみの川は誰も泳いで渡れない
きのうの夜も
わたしは海のように広く、冷たい水の中で
溺れそうになった
意識はその深みに耐えられず
どうしても途中で戻ってきてしまう
そして、浅い眠りから覚めると
いつでも頭痛に見舞われる
そして、その「感じる」ということを通して
自分がまだ、「生きている」ということがわかる
向こうへ渡れない者にとって
生きていることは呪いに他ならない
だが、これほど素晴らしい呪いもない
あなたとの思い出をひとつひとつ思い出すのに――
これはわたしが、詩人のエミリー・ディキンスンに影響を受けて書いたものです。
前回は天国について書いたのですが、クリスチャンであるわたしにとって、天国は「ある」というのがあまりにも当たり前の話だったりします(^^;)
ただ、その前にある厳粛な「死」というものは、人間誰しもにとって不思議で不可解な「謎」であったりしますよね。詩人のエミリー・ディキンスンほど、この「死」というものから目を逸らさず、詩作という創造的作業によって「痛みを癒しへ」変えようとした人は、他にいないくらいだと思います。
これもディキンスン関連の書籍に書いてあったことですが、「人が死を恐れるのは、その全貌が前もってわからないからだ」ということでした。本当に、その通りですよね。「死」というものがどんなものかあらかじめわかっていたら――「ああ、死ね。オッケーオッケー、大したことないよ」とでも思い、お葬式の時も、しめっぽくなることなく、サンバを踊るダンサーの方にでも来ていただいて、賑やかに執り行われる……もしかしたらそんなことが普通でさえあったかもしれません。
非常に面白いことですが、ディキンスンはある詩の中で、「わたしたちの意識は、やがて死の目覚めの意識となるだろう」と言っています。わかりにくいかもしれませんが、たとえば、わたしが仮に死んだとしたら――エミリーは、死ぬというのは、単にわたしたちが普段「服」を脱ぎ捨てるように、肉体という服を脱ぐだけのことだ、とも言っています――まあ、次の瞬間に気づくというわけです。「あ、わたし死んだんだな」って。
つまり、人間の肉体が滅んでも、その人の「意識が続く」というのは、そういうことだと。それで、この前提に立って話を続けるとしますと、死んだあとにそのように意識だけの存在であることにわたしが気づいたとして……何を思い、考えるのか(笑)。
わたしは何故死んだのだろう――それが脳梗塞であれ心筋梗塞であれ……「死ぬまで苦しかったな」ということを、わたしは思い出すのでしょうか?それとも、死ぬ前に「あの人とこの人には会っておきたかった」と思うのでしょうか?もちろん、こんな推測をしたところで、「実際どうなのか」なんて、死なない限りわかりません。
でも、わたしが想像しますのに、もう<生きていた頃>のことに執着を持つ、ということはないような気がするのです。クリスチャンにとって死ぬ、ということは――生前は、肉体の中に精神・心・魂(霊魂)というものがあって、この心理的・霊的領域おいて、わたしたちは聖霊さまを通し、神さまと繋がっていました。
そして、肉体が死んで、わたしたちがそれを衣服のようにぽいと脱ぎ捨てると、霊だけの姿となって、天国へ、神さま、イエスさまの元へと迷いなく上ってゆきます。以前までは、肉体という制限を通してしか、イエスさまと繋がれなかったわたしたちも、今度は完全な霊の体によって、霊の目を通して、直接天国がどんなふうなのかを見ることが出来るのです。
何故、そんなことをあなたは確信しているのかと、不思議に思われる方も多いでしょう(ノンクリスチャンの方であれば、なおのことそうだと思います^^;)。
もしかしたら、誤解を生んでしまうかもしれないので、冒頭の詩について説明しますと、わたし自身は天国のこともイエスさまのことも、「え?何を当たり前のことをおっしゃるのですか」というくらい、体が酸素を吸うのと同じくらい、当たり前のことのように信じています。
ただ、誰か自分にとって大切な方が亡くなると、「相手が本当に天国へ行けたかどうか」心配になったり、自分も後を追いたいのにそう出来ない……そうしたことが胸に押し寄せる時、「人生は呪いだ」とその方にとって感じられてもなんの不思議もない、ということなのです。
もちろん、生きていることは祝福です。けれども、亡くなった大切な人のことを思い、悲しみに胸も潰れそうな時、生きていること自体が呪いのように感じられる――生涯を通してこの道を一度も通らない方というのは、ひとりもいらっしゃらないような気がします。
けれども、時間がかかっても、自分が生きていることを「呪いのように感じている」ことを、天国にいるあの人も喜ぶまいと思い……人は少しずつ立ち直ってゆく、あるいは立ち直ってゆかざるをえないということなのでしょう。
でもやっぱり、ちょっと――いえ、ちょっとどころでなく、きっとわたしたちは驚いてしまうのでしょうね。もはや死なない体と不死の魂によって天国へ甦る時……今度はイエスさまを「直接霊の体によって礼拝できる」喜びに服す時、その前まで自分の人生にどんな悲惨があろうとも、すべての悲しみは拭い去られ――ただ、神さまの霊の平安とともに、これからは永遠に過ごすことが出来るのです。
え?天国っていうのは、随分退屈そうな場所じゃないかとおっしゃいますか?(笑)
どうなのでしょう。わたしは確信を持っていうことは出来ませんが、天国の生活というのは楽しいのみならず、適度に忙しいのではないかと、わたしは漠然と想像しています。
>>また私は、新しい天と新しい地を見た。最初の天と最初の地は過ぎ去り、もはや海もない。
また私は、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために装った花嫁のように支度を整え、神のもとを出て、天から降って来るのを見た。
そして、私は玉座から語りかける大きな声を聞いた。
「見よ、神の幕屋が人と共にあり、神が人と共に住み、人は神の民となる。神自ら人と共にいて、その神となり、目から涙をことごとく拭い去ってくださる。もはや死もなく、悲しみも嘆きも痛みもない。最初のものが過ぎ去ったからである」
(ヨハネの黙示録、第 21章1~4節)
最初のもの――それはわたしたちが今現在住んでいる、古い天と地です。わたしたちはいつか、新しい天と地を支配されるイエスさまの元に集められます。その人々はきっと、まるで天使の群れのようでしょう。
言い換えれば、イエスさまに救われた人々というのは、まるで天使の群れのようなのです。イエスさまは地球上のすべての自分を信じている人々を、終わりの日に呼び集められるのですから!
どうか、すべての人がそのように神さまの栄光に浴することが出来ますように
それではまた~!!
私は一人暮らしで家族も遠く離れたところに住んでいるので、死んだら私の生活の整理大変だろうな~って思います。
物は少なく、断捨離を心がけています!(^^)/
わたしも死ぬのは怖いなって思います(^^;)
こんなこと書いてても、実際に死が近くまで迫ってきたら、相当ジタバタ☆するんだろうなあ、と思ったり(笑)
引っ越しをきっかけに、わたしも断捨離しようと頑張ってるんですけど、なかなか物を捨てられなくて困ります
もし死んだら、家族が「あれはどこにあるんだ?」とか「これはどこいった?」みたいに、困りそうなんですけど……まあ、わたしが死んだあとのことは、それなりになんとかしてちょーだい!とか、無責任なこと思ったり(←ダメな人ww笑)
にゃんこさん、コメントありがとうございました♪