神の手は力ある働きをする。

 主の右の手は高く上げられ、
 主の右の手は力ある働きをする。

(詩篇118編16節より)

地獄って、どんなところ?~ドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟より』~

2020年11月11日 | キリスト教
【快楽の園】ヒエロニムス・ボス

「天国ってどんなところ?」と聞かれた場合――キリスト教徒ではなく、仏教徒の方でも、あるいは他の宗教を信じている方でも……なんとなく、漠然としたイメージというのは共通しているのではないでしょうか。

 たとえば、雲の上の王国に天使たちがいて音楽を奏でていたりですとか、綺麗なお花畑に青い空には消えない虹がかかっていて、クマとうさぎは愛しあい、ライオンと鹿は一緒に小躍りして歌っている――といったような、何かそんなような世界です。

 また、地獄というものについても、大体のところ世界共通ですよね(^^;)西洋だったらそれは悪魔、東洋だったら鬼の違いがあるかもしれませんが、生前悪いことをした人や罪を犯した人たちを火の池に突っ込んで楽しんでいたり、フォーク的なもので串刺しにしていたり……おそらく、今の時代ですと、ジョン・レノンの歌った「イマジン」的な価値観が一般的に受け入れやすいものになっているような気もします(「天国なんてないって想像してごらん。地面の下に地獄なんてないし、ぼくたちの上には空があるだけ」という、あの有名な歌詞ですね)。

 ところで、今回の記事は軽いジョークとして読んでいただきたいと思います。つまり、そんなに深い意味のない、軽い思考の運動的なことであって、キリスト教神学に基づいた真面目な話ではないということです(笑)。

 自身も熱心なクリスチャンだったロシアの作家、ドストエフスキーの作品に「カラマーゾフの兄弟」という大作があるのですが、わたしたぶん、「今まで読んだことのある犯罪小説(推理小説)の中で、一番はどの小説ですか?」と聞かれたとしたら、この「カラマーゾフの兄弟」を挙げると思います

「カラマーゾフの兄弟」がどんな兄弟かと言いますと、長男がドミートリイ・カラマーゾフといって、父親とあまり折り合いがうまくいってません。次男がイワン・カラマーゾフといって、無神論の、非常に頭のいい人です。そして、三男のアリョーシャ(アレクセイ)、この子はイエス・キリストに対して正しい信仰心を持っている、とても心の優しい子です。

 ところで、この三人は長男のドミートリイが父が最初に結婚した時の子で、イワンとアリョーシャが二番目の奥さんとの間に出来た子供です。そして、お父さんのフョードルが殺害された時――長男のドミートリイはある女性を巡ってお父さんと張り合っていたというか、取り合いになっていたような経緯があったことから、この長男に強い疑いがかかります(また他に、金銭的なことでも揉めていた)。

 たぶん、本を最初のほうだけお読みになった方でも、「これ、長男が父親を殺したとかだったら、小説として全然面白くないんじゃね?」みたいなことはすぐお気づきになるかと思います。なので、書いてしまいますと、父殺しの犯人は(わたし的には)とても意外な人物でした(^^;)

 そのですね、今回の記事はカラマの直接のストーリーとはあまり関係ないのですが(笑)、この父親のフョードルさん、正直いってあまりいい人間ではないんですよね。年齢的に自分の息子とのほうが釣り合いが取れているであろう女性を巡って喧嘩してみたり、そういう種類の欲望の強い人で、誰かに殺されたとしてもあまり不思議じゃない……といったように感じられるような人間性、と言いますか。

 ところが、このフョードルさん、それでいてなかなかユーモアセンスのある方で――作中の割と最初のほうに、信仰深い三男のアリョーシャに、こんなふうに語る場面があります。


 >>「俺はかねがね、俺みたいな人間のために、そのうち誰か祈ってくれるだろうかと、そればかり考えておったもんだよ。この世の中に、そんな奇特な人がいるもんだろうか?なあ、お前、こういうことに関しちゃ、俺はひどく愚かでな。お前にゃ信じられないかもしれんけどさ。ひどいもんだよ。しかしな、どんなに愚かだろうと、俺はたえずいつもそのことを考えてるんだよ、もちろん、いつもってわけじゃなく、時々の話だがね。俺が死んでも、悪魔たちが鉤(かぎ)で引き寄せるのを忘れる、というわけにはいかんものだろうか、と思うのさ。それからこう思うんだ。鉤だなんて?どこからそんなものが悪魔の手に入るんだろう?材質はなんだ?鉄だろうか?いったいどこで作るんだろう?やつらのところにも、工場か何かがあるのかな?なにしろ修道院の坊主たちは、早い話、地獄に天井があると、どうやら考えているらしいからな。そりゃ俺だって、地獄を信じてもいいけれど、ただ天井だけは抜きにしてもらいたいよ。でないと、せっかくの地獄が何かこう、垢抜けた文化的な、つまり、ルーテル派式のものになっちまうからな。それに実際のところ、天井があるのとないのでは大違いだろう?とにかく、いまいましいことに、問題は実にその点にあるんだからな!だってさ、もし天井がないんなら、つまり、鉤もないってわけだ。鉤がなけりゃ、いっさいご破算てわけだから、またぞろ信じられなくなってくるからな。だってさ、そうなったら、いったい誰が俺を鉤で引きずっていくんだい。なぜって俺みたいな人間を引きずっていかないとしたら、いったいどうなる、この世のどこに真実があるんだい?だから、是非ともそれを、その鉤を考えだす必要があるんだよ。俺だけのためにも、特別にな。なにしろ、アリョーシャ、俺がどんな破廉恥な人間か、お前にも知ってもらいたいくらいだからな!」

「でも、地獄に鉤なんてありませんよ」

 まじまじと父を見つめながら、アリョーシャが真顔で静かに言った。


(『カラマーゾフの兄弟』ドストエフスキー著、原卓也さん訳/新潮文庫より)


 この文章のどのあたりが面白いか、おわかりいただけますでしょうか?(笑)

 その、わたし前に読んだ時、図書館から借りた別の訳者の方のものを読んだんですけど……そちらのほうを読んだ時、もう大爆笑でしたww

 そちらのほうでは、悪魔の鉤(かぎ)のほうが、フォークと訳されていて、もしかしたらよりイメージしやすかったせいもあったかもしれません

 つまり、フョードルさんは、自分が人間として「よくない人間だ」ということを自覚しているだけに、もし死後に地獄というものがあったとしたらどうしよう……と少しくらいは思うものの、そんなことを考えているうちに、地獄というものが嘘くさく感じられてくるとおっしゃっているのではないでしょうか

 わたしが前に読んだ別の訳をおぼろげに思いだしますのに、大体意訳してみますと、次のような感じでなかったかと記憶しております。


 >>「悪魔といや、あいつらはフォークを持っておるよな。で、わしは死後に自分がそんなとこへ行くかもしれんもんで、時々この地獄というやつを想像してみる……だがな、途中でどうにも馬鹿らしくなってくるのだよ。悪魔どもが持っておる、あの人間を串刺しにしたりするでかいフォークな、果たしてあれはどこから手に入れるものなのだ?悪魔どもが地獄にある工場で働いておって、そうやって作っておるということか?悪魔が労働だって?ハッ、馬鹿らしい。それにその工場は誰が建設したものなのだ?まあ、それも悪魔どもが地獄の山から石でも切り出してきて建造したのだとすると……一体地獄の悪魔がどれほどのものだというのだ?」


 そんなリアリティのない地獄世界では、いかに罪あるといえども、自分はまっとうに苦しむことも出来ない――とまではフョードルさんもおっしゃってませんでしたが、「ああ、そうした考え方もあるか」と、わたしとしてはドストエフスキーのユーモアセンスに脱帽してしまった……といったような次第です(笑)

「カラマーゾフの兄弟」は、大体のところ三男のアリョーシャ視点で進んでいく物語でもあるので、キリスト教に対する信仰的な事柄についても言及がたくさんあります。その中でも特に有名なのが、無神論である次男のイワンさんが弟に対して語る『大審問官』の章かもしれませんが、まあ、今回の記事はあくまで、カラマに関する軽い記事ということで(^^;)


 >>「わたしの造る新しい天と地が、
 わたしの前にいつまでも続くように、
 ――主の御告げ――
 あなたがたの子孫と、あなたがたの名も
 いつまでも続く。
 毎月の新月の祭りに、毎週の安息日に、
 すべての人が、わたしの前に礼拝に来る」
 と、主は仰せられる。

「彼らは出ていって、
 わたしにそむいた者たちのしかばねをを見る。
 そのうじは死なず、その火も消えず、
 それはすべての人に、忌み嫌われる」 

(イザヤ書、第66章22~24節)


 そのですね……わたしはイエスさまのことを信じて、聖霊さまを受けてますから、聖書が一言一句あやまりのない、神さまの書であることに深く同意していますが、それでも黙示録など、書いてあることについて、わからない箇所というのは当然あるのです。

 イザヤ書のこの箇所は、救われている人々が、新しい神さまの新天新地において――わたしたちが再び失楽園前の状態に戻り、イエスさまを直接礼拝することの出来る恵みに与れることの対比として、救われなかった人々の惨状について書かれているのだと思います。

 つまり、キリスト教では死後も意識は永続すると教えていますから、それらの人々は死ぬことも出来ず、消えない火で焼かれていたり、決して死なないうじ虫に覆われているのかもしれませんが……わたし的に、それが生前いかに罪深い人であったにせよ、「流石にそこまではひどくありませんか、神さま」と思うに違いありませんし、そうした人々を見て震え上がり、「ああ、それに引き換え、運よくわたしはイエスさまのことを信じていた良かった!」と思うのだとすれば――わたしという人間もまた、なんと言いますか、たかが知れてるどうしようもない人間ではないか……という矛盾が生じるような気がして仕方ないのです(^^;)

 また、生前自分の家族や親族が殺されるなどして、犯人が捕まらなかったといった場合……その犯人が罰されて地獄へ行くというのは、ある意味当然のことでもあるかもしれません。でも結局、わたしにはわからないのです。地獄へ行った人々というのは、ある一定の期間苦しんだり、悪魔から責め苛まれるというのではなく、一度地獄へ行ったとなれば、その状態が永遠に続く、とされているわけですから。

 もちろん、神さまはとても公平な方ですから、天国へ行ったとしたら「ああ、そうだったのか!やはり神さまは本当に正しい、聖いお方だ」といったようになるとはわかっています。でも、話の途中で(ある意味、その俗悪な生き方のゆえに)殺されてしまうフョードルさんの俗っぽさや、そのことを自覚していればこそ、死後に地獄へ行くかもしれない……と思いつつも、悪魔が鉤(かぎ)によって自分を引き寄せるのを忘れてくれはしまいかと願う気持ちについても、「なんかわかるなあ~」と思ったりもするのです(^^;)

 大体、西洋の古い小説などを読むと、時々この「地獄へ行きたくない」あまりに、突然信仰熱心になったり、死ぬ前にせめて洗礼を受けようと決意する人物がいたりですとか……今という科学の発達した時代のわたしたちにとっては、「え?そんな理由?」といったように感じられてしまいますが、時々、わたし思うんですよ。神さまは人間に御自身を信じさせるためにこそ、この地獄というシステム(?)をお造りになったのではないかと……。

 だって、もし仮に「その罪に応じてある一定期間苦しむけど、悔い改めたら地獄から天国へ来ることも出来るよ」ということだと――この地上のある人々はそう熱心に神さまのことを信じたり求めたりしない……という、この人間心理を神さまはよくよくご存知なのだ、ということなのではないかと(^^;)

 あ、もちろんキリスト教では、天国も地獄も死後の現実だということは、わたしもよくわかっているのです。また、最初に書きましたとおり、この記事はある部分軽いジョークだということも、どうか信心深い方におかれましては、お忘れなきよう、よろしくお願い致しますm(_ _)m


 それではまた~!!





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