(※映画「87分の1の人生」に関してネタばれ☆があります。一応念のためご注意くださいm(_ _)m)
すごくいい映画でした♪
「87分の1の人生」というのは、映画の登場人物のひとりダニエルおじいちゃんが作っている1/87スケールの電車や線路、その周りに配置された町や人々のミニチュアのことを指すようです
主人公の女性アリソン(アリー)は、婚約者のネイサンと結婚間近ところが、ネイサンの姉モリー夫婦と車で出かけたところ、その途中で交通事故を起こしてしまいます。それは、アリソンがスマートフォンを見たことが原因の、いわゆる脇見運転が原因で起きた事故でした……アリソンは頭部に怪我を負いながらも、命のほうは助かりますが、他の同乗者ふたりは死亡してしまいます。アリソンは頭部に怪我をしたことで記憶が混乱しており、その後も強い頭痛といった後遺症に悩まされる中、「事故はショベルカーが突っ込んできて起きたもので、自分に落ち度はない」として、自分に原因があるとは思っていません。こうした記憶違いというのは交通事故の際にはよく起きることで、相手とこちらの意見が食い違うということもよくあることではないでしょうか
その後、アリソンはネイサンとは別れ、オキシコンチンという鎮痛薬の中毒になりますが、なかなかこの自分の中毒状態というのを認めることが出来ず、まずはそうした集会に通うことにするわけですが……そこで、ネイサンの父親ダニエルと再会します。ダニエルはここ十年酒を断っていたのですが、同居している孫のライアン(ちなみに16歳のとても可愛い女の子)が、事故で両親を失って以来、問題行動を起こすようになってほとほと手を焼き、この時初めて十年ぶりに酒瓶に手が伸びていたのでした
アリソンはダニエルが通うのと同じ集会へ行くことで、次第にライアンと交流を持ち、さらには別れたネイサンとも再会することになるのですが……ライアンに「ニューヨークのライブへ一緒に行ってくれない?」といったように誘われ、新しい恋人のいるネイサンと再会すると心が傷つくあまり、アリソンは売人から別の麻薬をもらうということに。ライアンのほうでも、彼氏のような年上の男性と薬をやってベッドイン……そこへ、スマートフォンによって位置情報を調べたダニエルがやって来て、孫の危機を救います。
ええとですね、この映画、原題のほうが「Good Person」(善人)というものなのですが、ダニエルはこの時怒りのあまり、自分の本心のすべてをアリソンにぶちまけてしまいます。この段に至るまで、「ショベルカーが突っ込んできて……」といったように記憶違いをしているアリソンに対し、彼女の記憶違いを正したり、本当の真実について告げる人は誰もいませんでした。警察から事情聴取といったものも行われているはずなのですが、そちらに書かれた「報告書」がどのようなものであれ、アリソンは自分の記憶のほうを正しい真実として信じている……そこへ、「運転しながらスマートフォンを見たことによる脇見運転」が原因だったとの、痛い現実をダニエルは彼女に初めて告げるのでした。
この時のダニエルのセリフの中に「自分は善人だ」という言葉が含まれているわけですが――実際にはダニエルはかつては手のつけられないアル中で、酔って覚えてないものの、息子のネイサンによく暴力を振るっていました。ところが、酒酔いから醒めてネイサンの顔に痣があっても、記憶がないため「自分が悪い」とはまったく思わずにきた。ところがある時、ネイサンの耳を殴ったところ、彼は片耳が聴こえなくなり……このことがきっかけで、ダニエルは自分のアル中と暴力が深刻なものだということを初めて自覚した、という過去があるわけです。
また、交通事故で自分の愛する娘・姉・母親を奪われた遺族にとって……「スマートフォンによる脇見運転」などということが原因で事故を起こした当人を許せるものなのかどうか、という難しさがあると思います。ダニエルは神の家である教会でアリソンと再会したことから、これを自分に対する「神の試練」であるとして受け止めたというんですよね。けれど、可愛い孫までトラブルに巻き込んだということで、誘ったのはそもそもライアンだといったことも通り越し、自分の本音をすべてこの時暴露する。
アリソンは打ちのめされますが、おそらく「これでよかった」、「本当のことを知れてよかった」、「ダニエルの本心も知れてよかった」……という部分もあっただろうと思います。治療施設に入らなければならないほど自分の状態は深刻だと自覚しつつも、お金がないためそういうわけにもいかなかったアリソン。彼女は母親とふたり暮らしで、父親はある時、人形の家にロレックスの時計を残して出ていった言います。アリソンはこの高価なロレックスの時計を売ることで、専門の治療施設へ入ることにし、その後順調に回復していったようです。
さて、タイトルの「1/87の1の人生」ですが、ダニエルが以前、アリソンのことを家に呼んでくれた時、その模型の町を見せてくれたことがありました。ダニエルは言います。「ここには、自分の『こうあったかもしれない過去』が描かれている」といったように……たとえば、学校の裏では若かりし頃のダニエルがある女の子とファーストキスをしています。ところが、彼女は次の日には高級車を持つ別の男の子の恋人になっていたのだとか。また、別の場面ではベトナム戦争から帰還したダニエルのことを駅で父親が出迎えてくれていますが――実際には迎えなどなく、ダニエルの父はその時、飲んだくれて倒れていたのでした。この父が目が覚めたあと勧めてくれたビール、それがダニエルのアル中人生のはじまりであったとも……。
「こうあったかもしれない人生」――それこそは、あの時もし交通事故が起きていなければアリソンやネイサン、ダニエルやライアンたちにあった人生でした。しかもそれは、何か対抗車線から別の車が突っ込んできて、こちらの全員が被害者で……みたいなことであったとしたら、その車の運転手や同乗者らをみなで結託して激しく責め、そのことで絆を持つことが出来たようなことであったかもしれない。けれど、あくまでもアリソンの「脇見運転」が原因で起きたことから……アリソンは問題と向き合うことからも、恋人のネイサンからも逃げた。逃げた、なんて言っても、これはネイサンも周囲の他の誰も、映画を見ているほとんどすべての人が――「自分がアリソンでもそうしただろう。いや、そうすることしか出来なかっただろう」とわかっていることでもある。
映画の最後のほうで、アリソンは「本当は死のうと思っていた」とネイサンに向かって口にし、ネイサンは「わかってた」と答えます。だからこそネイサンはアリソンのことを支え、そのまま結婚しようと思っていたけれど……アリソンは彼の元を去ったとも。「いつかまた、『あったかもしれないもうひとつの人生』であなたと出会って結婚したい」といったことをアリソンは口にします。でも、実際にはもしかしたら――もうひとつの人生によってではなく、ネイサンと再び結ばれたかもしれない……といったような予感とともに映画のほうは終わったような気がするんですよね(^^;)
長い経過をへて、ダニエルもライアンとネイサンも、言葉で「あなたを許すよ」とか「許したよ」と口にするのでなしに、互いに許しあい、関係を構築し直した……といったように感じられるわけですが、実はわたし、この映画を取り上げてみたのは、ダニエルが「神の試練だ」と口にしたことによります(^^;)
その~、欧米のキリスト教を信じている家庭では文化としてそれは当然のことなのかもしれないにしても――誰か人に説教したり、怒りに任せて相手に何かを言おうとする時……「神」とか、「聖書の言葉」といったものを持ち出したりするのは危険なんだなと、個人的にそう思っています。何故かというと、ダニエルと同じように、人には誰にでも大体「そこを刺されれば即死」というほどでなかったにせよ、「神の名の元に裁く」ということが本当に簡単に出来ます。でも、自分の過去のそうした部分に心当たりがあればこそ、言葉を控えるであるとか、怒っていても「ここまでのことを言うのはよくない」とか、ブレーキをかけることが出来る。映画の中のダニエルの怒りは当然のものであるのと同時、たとえば「神の試練だと思ったが、あなたのことを許すことにした」とか、正直言われて嬉しい人間はいないわけです。むしろそれは、「神の名の元に偽善的だとは思ったが、許すべく努力した」、「それもまた自分の心の満足のためだった」……といったようなことに近く、仮にもし相手より自分のほうが正しかったにせよ――いや、正しければこそ、そこに「神」という言葉を持ち出すのはより危険だということになると思うんですよね。
映画のほうは素晴らしい内容で、本当にお薦めなんですけど、「善人はむしろ神の名を口にしない(神の名を持ち出さずとも静かに善を行う)」と言いますか、「善人は神の名の元に人を裁くことはない」という、その点についてのみ、わたし個人のちょっと変わった感想といったところかもしれません(^^;)
それではまた~!!
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