永遠に生きるかのように夢を見、明日死ぬかのように今を生きよ。
この言葉は某本屋さんで見かけた本の帯のところに書いてあって、すごく印象に残ったので頭の中で覚えて帰ってきました
で、それがなんの本かというと、実は洋書の棚のところに置いてあったもので、なんの本かまではわからなかったという(汗)
でも、映画関係の洋書が並ぶところに置いてあったので、何かの映画の中に出てくる言葉なのかなと思い、一応軽くググってみたものの、出てきたのが実はガンジーの「明日死ぬかのように生きよ。永遠に生きるかのように学べ」という名言でした
また他に、ジェームズ・ディーンの名言としても出てきたのですが、でも本の表紙は綺麗な外国の女の人で、ジェームズ・ディーンの姿はどこにもなかったような?
それはさておき、「永遠に生きるかのように夢見……」ですが、これはクリスチャンにとっては、「死んだあともイエスさまとともに永遠に生きる」ということに通じるところがあるような気がします。つまり、生きている間も「いや、むしろ死後にこそ、地上で生きるよりも素晴らしい現実が待っている」ということですし、「明日死ぬかのように今を生きよ」は、イエスさまの御言葉、『だから、あすのための心配は無用です。あすのことはあすが心配します。労苦はその日その日に、十分あります』(マタイによる福音書6章34節)に通じる言葉であるように感じます。
「明日なくなるもののために、今日を精一杯生きる」というのは、わたし個人が人生の本質と思っていることだったりするのですが、現代を生きるわたしたちは「今日明日」何かがなくなるので苦悩するということは少なく、大体のところ「2~3か月後に預金通帳が限りなくゼロに近くなりそうだ」、「家賃や光熱費が支払えなくなりそうだ」というくらいの時に、おそらく一番苦悩するというか、悩みはじめる気がするんですよね(^^;)
すると当然、「永遠に生きるかのように夢見」てなどいられないといった精神状態となり、「明日死ぬ」くらいの気持ちで一生懸命あらゆる手立てを打とうとやっきになるというか、とにかく生活にそのくらい余裕がなくなるのではないでしょうか。。。
そのですね……昨今の新型コロナウイルスのことを思うと、こうした経済のことに関してあれこれ言ったりは出来ないのですが(汗)、クリスチャンとしてはお金がなくなった時、あるいはなくなりそうな時、どうするかというと――まあ、とにかくまず祈るわけです。
もちろん、祈ったからといってなんになると思われる方のほうが多いのは当たり前と思いますけれども、自分なりに精一杯努力して、それでもどうにもならないといった場合……神さまにお委ねするしかないというか、お縋りする以外ないわけですよね
また、クリスチャンの方の場合、日曜礼拝において献金の時間があって、その時に神さまから聖霊さまを通して語られた金額、あるいは自分の自由意志によって、あるいは聖書のマラキ書にある十分の一の献金を行うわけですが――個人的な話として、自分が困った時にそれまでどのくらい神さまに捧げてきたかというのは、問われるところが多少なりともあるような気がしています。
もちろんこれは、普段から結構神さまに献金したり、教会の運営している孤児院などに自分は献金しているから、経済的に困ることは決してない……という話ではなく、クリスチャンの方はどちらかというと「それはそれ、これはこれ」と考える場合のほうが多いのではないでしょうか。
つまり、来月何かの家賃や光熱費含め、六万五千円くらいかかる。それは固定費なので、いくら節約したとしても2~3千円も節約できればいいほうだ……といったことなわけです。でも、それはそれとして、先に心に思う、あるいは感じる金額について、神さまにまず献金してから祈るんですよね。それも、「わたしはこれこれ献金しましたから、このくらいキャッシュバックしてくださいね」といった祈り方ではなく――神さまはわたしたちの「明日の必要」についてご存知な方ですから、「生活に必要な分をどうかお満たしください」と祈りつつ、何かアルバイトをしたりパートで働いたり、あるいはその時点で働いていなかったら、どこか働き口について探しはじめるとか……一応、クリスチャンにしてもそれが「普通」とは思います。
ただ、祈りの中でそう多くはないというか、少ないとは思いますが、「あなたは働かなくてもこれこれこうすれば必要を満たして生活できる」みたいに語りかけを受けたり(※単に働きたくないので、そのように語られたように感じた……という場合もありますので、吟味が必要です)、最初は半信半疑だったが、それでも支払日の前日や当日に必要な分だけの経済を与えられた……といったお証しを、これまでの間に何度も聞いたりしてきました。
これはわたし自身もそうだったのでわかることなのですが、神さまが考えておられるのはどうもわたしたちの「2~3か月後の必要」のことではなく、「今日・明日の必要」のことらしいのです(^^;)ですから、「その頃不安になりだしますから、前もってお与えください」と祈って、自分でもそのための方策を講じ、実際に不安になりだす前に必要な経済が与えられる――ということもある一方、祈りの答えとしては大体が、「あの苦しかった時、神さまはこのような方法によって答えてくださった」と、あとから思いだしてみても「間違いなく神さまが助けてくださったのだ」とわかる方法によって経済の必要を満たしてくださる場合が多いと思います。
お証しの中でも「どうにかギリギリのところで神さまが備えてくださった」ということが多いのは、実はそのことに起因するのかな、と、個人的には思ったりしています。「それよりもずっと前に、何故神さまは備えてくださらなかったのか」というよりも、わたしたちの信仰を試し、建て上げるという部分と、他にやっぱり「あとから思いだしてみても、あれは主の御業としか言いようがない」とわたしたちの記憶に刻むため、という部分が大きいような気がします。
何故かというと、祈りの生活を送っていると、「あれもこれも神さまに感謝&賛美!!」といった感じですから、ある意味「当たり前のように奇跡が起きる」というのでしょうか。「今月も神さまによって備えられた。ホッ☆」、「その次の月も神さまによって備えられた。ホッ☆」、「さらにその翌月も神さまによって備えられた。ホッ☆」……ということが、一度や二度ではなく、三度、四度、五度、六度、七度――と続いていくと、これはもうクリスチャンにとっては他でもない神さまからの「このことを証しせよ」との印としか思えないようなことですよね。
なんというのでしょう。こうしたことがある意味クリスチャンにとっての「当たり前」だったりするわけですが、わたし自身不信仰なことには、その都度ごとに「本当に与えられるまで」はすごく不安なわけです。先月は備えられたけど、今月はどうか、来月はどうか、その翌月はどうか……でも、イエスさまに感謝します。常になんらかの形で必ず経済その他すべての必要を満たし続けてくださったことを。
また、献金というのは、自分の生活の必要とは別に「こんなにも日々良くしてくださるイエスさまに、何か少しでもお返しがしたい」との気持ちから捧げるため、捧げたものが戻ってくるから献金しよう……といった思いは、捧げる時には本当にまったくないわけです。
けれども、このこともイエスさまに感謝します。何故なら、わたしのほうでは収入等の十分の一、あるいはそれよりも下回る金額を、自分に捧げられる範囲内で捧げているにも関わらず、神さまからそれが十倍にも二十倍にもなって返ってくるという経験をずっとし続けているからです。
このあたりは本当に功利主義的に、「これこれ捧げたから、いくらいくら戻してくださいな、神さま」といったことではなく、捧げる時、祈る時には限りなく無私に近い気持ちで祈り捧げるのですが――イエスさまはこうした祈りに答えられなかったことが一度もない、と自分に関しては断言できる気がしています。
マーリン先生もおっしゃっていたとおり、確かにわたしたちの信仰というのは、「どうかわたしたちを助けてください。あなたがわたしたちを助けてくださるまで」という、そうしたものだと思います(笑)神さまがわたしたちの問題や悩みに御手を伸ばし、実際に助けてくださるまで助けてくれ……なんという弱い信仰でしょう!とわたしも思いますが、実際のところ、それが弱いわたしたちの本質というものであり、イエスさまはわたしたちがそのような弱い存在だともわかっていてくださいますから、そうしたすべてを鑑みて、祈りを聞き助けてくださるのです。
けれども、このあたりの信仰が強い方は、もう精神的にはこの世におらず、イエスさまと共にいる現実を見、ただとにかく「ここ、今」という地点に集中しているだろうと思うんですよね。それがクリスチャンにとっての「永遠に生きるかのように夢を見、明日死ぬかのように今を生きよ」ということのような気がしますが、なかなかこの極意を極めるというのは難しいことなようです(^^;)
例によって長い話になってしまいましたが、何かしら感じるところのある方がいらしてくださったら幸いですm(_ _)m
それではまた~!!
滅多にコメントの入らないブログなので、返事が遅れてしまい、申し訳ありませんm(_ _)m
読みやすくわかりやすいとのこと、本当にありがとうございます。自分的には「わかりにくいかなー」とか、クリスチャンの価値観としてはこうだけど、ノンクリスチャンの方が読んだ場合には「?」な感じかな……とか、毎回色々考えたりしつつ(^^;)
たけやん様にとって、何かの足しにでもなっていたとしたら、望外の喜びです♪