神の手は力ある働きをする。

 主の右の手は高く上げられ、
 主の右の手は力ある働きをする。

(詩篇118編16節より)

夢と神。

2022年01月08日 | キリスト教

 タイトル、『神と夢』にしようかなとも思ったんですけど、なんとなく『夢と神』ということにしてみました♪(^^)

 それで、大体1月1日くらいに「初夢見た~?」とか、「マジ変な夢見ちゃってさ~」的な話って、老いも若きも(?)したりしますよね

 聖書にも、ヨセフが見た夢など、神さまが見せてくださった不思議な夢についてや、その夢の持つ意味、夢の解き明かしについてなどの記述があります。

 最近読んでいる本に、夢に関して妙に「うんうん」首を縦に振ってしまう文章があったのですが、そこには大体次のようなことが書いてありました。簡単にいうと、わたしたちの見ている夢というのは――科学的に言ったとすれば、わたしたちの脳の無意識の産物なわけですよね。にも関わらず、たとえばわたしが比較的親しいと思っている人間(家族とか)でさえも、夢の中に登場人物として出てきた場合、相手が何をしゃべってどんな行動を取るかって、予測できないというか。

 たとえば、友人Aちゃんが夢に出てきて楽しそうだったり嬉しそうだったりしても、夢の中のわたしにはその理由がわからなかったり(でも、夢の中でわたしは「Aちゃん、なんかいいことでもあったのかな」と思っている)、相手がその説明をしそうだな……と感じたところで目が覚めるとか、あるいはBちゃんが出てきて何か怒っている。でも理由がわからない。そこで、「わたしなんかBちゃんが怒るようなことしたっけ?」と思いつつ、「いや、心当たりないな」と思い、堂々とした態度でその理由を聞くなりした場合――正直、この場合AちゃんもBちゃんもわたしの無意識の産物なわけですから、わかりそうなものですよね。Aちゃんが何故嬉しそうなのか、あるいはBちゃんが何故怒っているのか、彼らが何かしゃべる前にそのセリフですらも、実は用意しているのはわたしの無意識なはずなのですから……「こんな夢に大した意味などありゃしないんだ」で終わってよさそうなものです。

 まあ、たとえが平凡すぎましたけど(笑)、この本の中には他に、寝ながら見ていた夢があんまり素晴らしく……明らかに主人公の頭が造りだしたものでない、造りだしようのない世界に長くていて目が覚めた時、そちらの世界があまりにリアルすぎて、目が覚めた現実とどちらが現実なのか見分けがつかない――といった描写がありました。というより、この場合は夢のほうがあまりに現実に近すぎて、そちらに長くいすぎたせいで、本来の現実のほうがあまりにみすぼらしいように感じられた……といったことだったと思います。

 ところが、こんな素晴らしい現実感覚のある夢をずっと見られたらいいのですが、この主人公の男性は次に、自分の存在自体を闇の中でバラバラにされるような恐ろしいばかりの恐怖を味わいます。言うまでもなく、この場合はそれがまるで現実としか思えないリアルさを持っており……主人公は狂乱状態で目を覚まします。

 いえ、人が死んでからいく天国とか地獄って――もしそういうことだったとしたら、ある意味怖いな~と思ったというか。「眠りは死の兄弟」と言いますが、この場合もやはり、無意識を自分ではコントロールできない……というより、この無意識の底には誰か自分の自我と呼ぶべきものの他に、「何かいる」、「誰かいる」と感じる、そのあたりに人間の恐怖や不安や喜びに深く関わるものの正体があるような気がするわけです。


 >>一つのことばが私に忍び寄り、
 そのささやきが私の耳を捕えた。

 夜の幻で思い乱れ、
 深い眠りが人々を襲うとき、
 恐れとおののきが私にふりかかり、
 私の骨々は、わなないた。

 そのとき、一つの霊が私の顔の上を通り過ぎ、
 私の身の毛がよだった。

 それは立ち止まったが、
 私はその顔だちを見分けることができなかった。
 しかし、その姿は、私の目の前にあった。
 静寂……、そして私は一つの声を聞いた。

 人は神の前に正しくありえようか。
 人はその造り主の前にきよくありえようか。

 見よ。神はご自分のしもべさえ信頼せず、
 その御使いたちにさえ誤りを認められる。

 まして、ちりの中に土台を据える泥の家に住む者は
 なおさらのことである。

 彼らはしみのようにたやすく押しつぶされ、
 彼らは朝から夕方まで打ち砕かれ、
 永遠に滅ぼされて、だれも顧みない。

 彼らの幕屋も綱も
 彼らのうちから取り去られないであろうか。
 彼らは知恵がないために死ぬ。

(ヨブ記、第4章12~21節)


 これはあくまでわたしの私見ですので、反対の意を示す方もたくさんいらっしゃると思うのですが、わたし自身は自分の無意識の底の底あたりにはどうも、神さまと繋がっているような、非常に細くて狭い、小さな抜け道のような領域があるのではないかと感じることがあります(もちろん、信仰心の強い方はこの領域を非常に大きなものとして無意識に持っておられることでしょう)。

「何故人間に意識があるか」ということは、ここまで科学が進んだ現代もはっきりとはわかってないそうですが、脳は色々な機能を司る統合的な総司令官といったところがあると思います。たとえば、人間から海馬をとってしまうと、それ以上新しい記憶を蓄えられないとか、有名な話なわけですけど……そうした脳の機能について普段まったく意識しないのと同じように、「何か自分とは別のものが勝手にやってる」領域って大きいと思うわけです。

 というより、人間の表層意識なんていうものは、ひとりの人が生きるために全身がこの瞬間も絶え間なくどれほどのことをしているかを思えば、ほんの数%くらいの領域しか占めていないのではないかという気がします。でも、人間にとっては何より、その部分がもっとも重要であり、その人をその人たらしめる「何か」、その人が死んでしまったら取り替えのきかない「何か」といったものが、肉体の命と同じくもっとも大切なものなわけです。

 何やら当たり前のことを書いてる気もしますが(笑)、このわたしたちの意識が普段認識しない領域に神さまがいる、神さまと(わたしの意識がその気にさえなれば)いつでもコンタクトできる領域がある……そしてそこへ繋がる通路を通って死後、人間というのはもしかしたら天国(あるいは地獄、ないしはハデス)へ行くものかもしれないな~なんて、その小説を読みながら思ったり

 それで、前の意識のあった肉体のほうが死んだ場合――それは前はそちらに繋がっていた通路が閉じて、今度は夢を見ている時とは違い、意識はそちらへ戻ることが出来ない。その、「元の肉体へ通じる扉が閉じて、いつも夢を見ている時とは違い<戻ることが出来ない>」ということが、もしかしたら人の<死>というものかもしれないと、なんとなく連想的に思ったのです(^^;)

 ただ、死後の世界が天国のように素晴らしかったとすれば良いのですが、天使たちの群れもなければ麗しい花畑もなく、イエスさまの抱擁もない世界を死後の世界と信じておられる方のほうが、日本では多いかもしれません。生きている間、イエスさまを信じていればいるほど、祈っていればいるほど……そちらの世界のイメージは現実以上に素晴らしいものとして強められていきます。

 もっとも、キリスト教寄りに考えるのではなく、人が一般的に考える天国というものは、きっとすべての人が「同じように」認識できる素晴らしい世界なのだろうとは思います。けれど、普段からそちらへ触れている頻度が高ければ高いほど……きっと、天国へ繋がる通路を歩く時、不安も恐怖も一切なく、それは光の世界で天使か、あるいはイエスさまその人が手を引いて導いてくださるくらい――何も怖くなどない、確信に満ちた世界であるに違いありません。


 >>主は私の羊飼い。
 私は、乏しいことがありません。

 主は私を緑の牧場に伏させ、
 いこいの水のほとりに伴われます。

 主は私のたましいを生き返らせ、
 御名のために、私を義の道に導かれます。

 たとい、死の陰の谷を歩むことがあっても、
 私はわざわいを恐れません。
 あなたが私とともにおられますから。

 あなたのむちとあなたの杖、
 それが私の慰めです。

 私の敵の前で、あなたは私のために食事をととのえ、
 私の頭に油をそそいでくださいます。
 私の杯は、あふれています。

 まことに、私のいのちの日の限り、いつくしみと
 恵みとが、私を追って来るでしょう。
 私は、いつまでも、主の家に住まいましょう。

(詩篇、第23編)


 それではまた~!!






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1 コメント

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Unknown (ochikobore)
2022-01-09 19:32:58
私もこの頃なんとなく 神様が懐かしいような
昔の記憶のどこかにあるような気がする時が あるのです。でも通じてたらいいなとブログを読んで感じました。
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