「愛するということ」エーリッヒ・フロム著/鈴木晶訳
知人が読んでいる、と聞いて、私も!と勢い込んで買ったのが1958年発行の旧訳で。
堅い内容の堅い文章にくじけました・・
で、書き込んであるからヤダ、というのを無理に頼み込み貸してもらった新訳版。
読みやすかった笑
これは、世間からは本能だ、と思われている「愛する」ということが、実は技術であり習得すべきものなのだ、という理論の本。
人は孤独を怖れる生き物ゆえに、自ら欲して集団に属すが、その欲求にすら気づいておらず、成熟した愛と共棲的結合の区別もつかず愛に悩んでいるそう。
愛とは自分の生命を与えることであり、自分の中に息づく表現を与えること。与えたことで相手の中に生まれるものが跳ね返って自分にとって与えられる。
そして、成熟した愛とは、自分の全体性と個性を保ったままでの結合であり、2人が1人になりしかも2人であり続けるというパラドックスが起きることである。
・・に始まり、兄弟愛(隣人愛のこと)、親子愛、異性愛、自己愛についても詳しく記述。私が知りたかったのは親子愛の部分。
自分の母親としての素質に何か問題があるんじゃないか?という疑惑があって。
ちょっと読み解くと
殆どの子は幸運にも母性愛という無償の愛を受け取ることで、自分が存在するだけで愛されるべき存在である、と認識する。
その後父親から条件付きの愛をたっぷりもらうことで自己愛を正しく掴み、それですべての人を愛せるようになる。
この2つが上手くいかないと弊害が出る。
という事が書いてありました。
弊害部分を読むと、私自身は支配的な母に育てられたみたい。
この部分→母親に保護されたいという欲求を父やその後に出逢う父親的な人たちに転嫁するし、極めて一面的な父親志向的人物となり、法・秩序で権威には全面的に屈服するようになるが、無条件の愛を期待したり、受け入れたりする能力の欠如した人間になる。
あー、昔の自分だな、と。
高校生の頃から社会人とお付き合いしたり、保護されたい欲がすごかった。
結婚相手も結構歳上で。それなのにその相手が結婚してみたらまさかの末っ子気質で、歳上なのになにもかもお世話する羽目になり、何かが満たされないまま20年以上経っちゃった。
本当に愛情深い女性は取ることより与えることに幸せを感じる。
そんな私が母親になった。だけど息子は私と違い母親に愛情がありすぎて構い過ぎた結果、みたいな部分にあてはまってる。
私、結構ドライな母だと思ってたけど、息子に言わせると心配しすぎ!構いすぎ!!なんだって。え、そーなん?ちょっと安心したわ。
だけど、そういう母に育てられ、かつ父親が子に関心が薄いと、幼児期の母親への愛着にいつまでも固着し、大人になっても母親に依存したまま無力感を持ち続け、いつでも何か貰いたい保護されたい、世話されたいといった願望を抱きつつ、規律、独立心、自分で自分の人生をコントロールする能力などが欠如する、あらゆる人の中に、または目上の男性の中に「母親」を探す、と。
この辺りに当てはまってて、ヤバイかも。
そして
↓
母子というのは、一体だった2人が離れ離れになること。母は子供の巣立ちを耐え忍び、かつそれを望み、後押ししなければならない、と。
巣立ち、を考えると耐えるとかそんな感情ないんですが・・。早く巣立って!!って思う。やはり私には何か欠陥があるんだろーか。
だけど、子から何か取ろう、という感覚はないし、与えるだけでいいかなぁ。
受け取ったものを大事にして立派に社会を渡って行って!と思います。
あとは、自己愛が足りないとその埋め合わせのために利己主義になるし、他人を愛せない、とか。なるほどね、というところはたくさん。だけど、元々古い本のせいか、こういう理論を学び、応用している人は現代に多数いるんだな、多分。
心理を扱うブログなんかを読むと、もっと具体的にどうすれば良いのか、とか書かれてるものがたくさんあり、然程目新しい発見はなかったような?
本は参考にはなるけどそれが真実とは限らない、という事を強く感じた一冊。
しかも、自分でダメ?と思えてしまう箇所が沢山あって、かえって自己愛を否定してしまいそうになりました。内観の仕方が下手なのかな。
だけど、ここ数年いろいろ読んだり習ったり実践してきたことの基本、みたいなのを学べて良かったです。