その古室山古墳をくるっと
回っていきますと、
西名阪の下に出るのですが、
その下のところに
小さな山が見えます。
ああ、あんなのも古墳だったりして
と思って写真を撮ったりしてたら、
なんとやっぱり古墳だったんですねえ。
なんか失礼ですが、
災害に備えて頑張って
土嚢を作った土の名残みたいです。
実際土嚢が積まれていますが、
災害に備えて頑張って
土嚢を作った土の名残みたいです。
実際土嚢が積まれていますが、
調べたらあれは高速道路から
落ちてくる水滴が土を削るので
補強においてあるそうです。
微妙に虐げられている
古墳のように思いますが、
じつはここだけ高速道路の橋脚が
1本ないように設計されており、
かなり費用のかかった
古墳なんだそうです。
残念ながら世界遺産の
古墳には入ってはいませんがね。
古墳の町にはこんな古墳も
結構あります。
ではここからさらに
南の方にと思ったのですが、
あちらは大きな古墳の周りで
何となくわかりにくかったので、
後に回しましょう。
先に北側に3墳が並んでいる
ところを見に行きます。
また北の方に戻ってから
東向いて進んでいきます。
これが「助太山古墳」ですねえ。
この古墳は横に隣接する
他の古墳と合わせて三塚古墳
といわれていますが、
他の2墳は仲姫命古墳の陪冢
といわれていますが、
この助太山古墳はそうではなく
単独の方墳です。
埴輪とかも見つかっておらず、
この辺りに住んでいたといわれる
土師氏の豪族の墓ではないか
という説があったりします。
そしてその横が「中山塚古墳」で
さらにその横が「八島塚古墳」。
いずれも陪冢の方墳です。
これらからそれぞれ
発掘されたものというより、
この二つの古墳の間の溝の中から
出土したものが、大変なものでした。
「修羅」といわれる
でかい木で作られた
そりのようなもので、
古墳に使われたような巨石は、
海と水路で運ばれたほかは
この修羅の上にのせて運ばれた
といわれています。
発掘時には何万人もここに
やってきたそうです。
この木製のそりのような
修羅は大発見だったそうです。
ではなぜこの木のそりを
「修羅」というか。
勉強しましょう。
最近doironはこのブログの中で、
興福寺の阿修羅のことを
書きましたよねえ。
あの阿修羅が帝釈天に戦いを
挑むことがありました。
でも帝釈天は強かったのですが、
阿修羅の戦いに
心を動かされたそうです。
帝釈すなわち大石を
動かすということで、
そのそりに「修羅」という
名前が付いたそうです。
そういう意味で、世界遺産になる前も
この三塚古墳はとても
有名になったそうです。
そのものは今
「大阪近つ飛鳥博物館」に
保存されています。
そんな古墳を見て、さあ最後に
あと3つの古墳に行きましょう。
応神天皇に向かっていくと、
そこにあったのが
「大鳥塚古墳」です。
埴輪や鏡が出土した前方後円墳です。
そこを出ると、すぐ目の前に
巨大な応仁天皇陵の古墳が見えてきます。
拝所はこんな感じに
整備されています。
そしてその拝所の横にある
うっそうとした森が
「誉田丸山古墳」です。
ここは有名な国宝となる
「金銅製龍文透彫鞍金具」が
見つかった円墳の陪冢です。
この金具はこの地区の
古墳群の象徴のように
出てきますねえ。
そして最後が前回見つからなかった
「二ツ塚古墳」です。
調べてみたらテニスコートの
向こう側の古墳のようでしたねえ。
やっと見つけました、
この古墳です。
応神天皇陵もこの古墳の存在を
よけて、無理して建てている
形跡がありますから、
ここはとても重要な人の古墳で、
応神天皇の母ではないか
という説もあるようです。
これでようやく古市古墳群も
すべて周りましたねえ。
百舌鳥古墳群よりも
こちらの方が街の中に
入り組んで存在していた
ような気がします。
これにて、あたらしく世界遺産に
なった百舌鳥・古市古墳群の
探索旅の終了です。
お疲れさまでした。
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古市もかなり歩き回りました。
昔の職場や一時住んでいたことも
昔の職場や一時住んでいたことも
あわせて懐かしいところです。
最近、新聞や雑誌でも
これらの古墳群の旅を
いろいろと特集しているようですね。
被葬者はだれなのか、
それさえもまだまだ謎の多い古墳群。
これを機会にあわせて近々竹内街道を
歩いてみようと思っています。
最近、新聞や雑誌でも
これらの古墳群の旅を
いろいろと特集しているようですね。
被葬者はだれなのか、
それさえもまだまだ謎の多い古墳群。
これを機会にあわせて近々竹内街道を
歩いてみようと思っています。