ハブ ア ナイス doi!

いつまで続くのかコロナとの戦い。
全て解放されて、もっと、もっと
心から楽しまないとねえ。

堺を歩いたさかい4

2019年05月29日 21時15分29秒 | ウォーキング

このザビエル公園のあたりから、
街道が東に向かって出ています。

北側が長尾街道で南側が竹内街道。
そして西高野街道も
この辺りが起点です。
海路を伝ってここまで来た人が、
中百舌鳥古墳、古市古墳を経て
奈良方面あるいは高野山へと
向かったわけですね。

そして前二つはdoironが
働いていた場所を通っていましたねえ。

実は大阪府が出している冊子に
記事を載せたことがあります。

ああ、あのころからクリエイターな
仕事をしていたんですねえ。
その先で通るのがdoironが
入社試験を受けた
食品酢の会社ですねえ。



あの時人生変わっていたら
どんなおっさんになってたでしょうねえ。

そうそう堺の町は昔は
傘いらずといわれていたそうです。
大きな商売人がひさしを出して
商売していたからだそうです。

そんな堺の伝統産業会館
というのがありました。



中をのぞいてみますと、
お土産なんかも売ってましたねえ。



そして伝統産業ということで
鉄砲も売っている・・・
わけではなくて、
包丁などの刃物が売られていました。

本当にいい包丁が欲しければ、
ここに来るのもいいですねえ。

あ、七道のイオンでも
堺の包丁店があったなあ。
そしてコースはその先の材木町の
交差点に差し掛かります。

ここにはこんな道標が





「左妙国寺」「右住よし大さか」
と刻まれています。

そしてこの交差点の向かい側には
「朱座之址」の石もあります。



江戸時代、朱及び朱墨などの
関連商品を扱う商人による
座が存在していました。

そこでは有毒な「朱」は、
顔料や薬品などに用いられてきました。
そんな種の発売を織田信長は
認めていましたが、
豊臣秀吉によって否定。
 1609年、朱は、
中国などからの輸入に頼っていたため、
国内市場は衰退したそうです。

しかし徳川家康は、
衰退した朱座の再建を認め、
小田助四郎・甚太夫に
堺と江戸に朱座を設置させたので
ここがそのあとなんだそうです。

それにしても、織田信長、豊臣秀吉、
徳川秀吉にこの石が関連している
なんてすごいですねえ。

ここからコースは東向いて
進んでいきます。

ずっと先に進んでいきますと、
そこには宝珠院といわれる寺があり、
そこに後に堺事件といわれる
外国人切り捨て事件の
土佐藩の11名の墓があります。



上陸したフランス人を
切りつけた彼らの行動に怒った公使が
彼らの斬刑を命じて、
20人の切腹が行われましたが、
あまりに悲惨だったために
11名の切腹で終わった
という事件があったそうです。

ここには大きな札が立っています。



もともとこの宝珠院は
その向かいにある妙国寺の
施設だったんですねえ。
その妙国寺は夜泣きのソテツ
という伝説で有名です。

時は戦国時代、遠い南の国から
運ばれてきたというそこのソテツは
当時大変珍しがられ、
天下統一を果たした織田信長も
欲しがっていました。

そしてついにその権力をもって
安土城へ移植させてしまったのですが、
そのソテツは毎夜毎夜
「堺へ帰ろう」とすすり泣くらしいのです。
激怒した信長が部下に命じて
ソテツを切らせたところ、
切り口より鮮血が流れ、
大蛇のごとく悶絶。

さすがの信長も気味悪がり、
ソテツを妙國寺に返し届けました。

痛めつけられたソテツは
今にも枯れそうになり、
日珖上人が読経したところ回復。
ここから「蘇鉄」という名が
ついたと言われています。



そんなソテツが境内にあるそうですが、
まあ入館料もいりますし、
ソテツは熊野古道でも
たくさん見かけたので、
パスしておきましょうかね。

まあ妙国寺は道標にもきざまれるほど、
昔の人には有名なお寺
だったのですねえ。

さあではここから少し
Uターンして、七道の駅の方に
向かっていきましょう。

続く


最新の画像もっと見る

コメントを投稿