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全て解放されて、もっと、もっと
心から楽しまないとねえ。

熊野古道聖地の入口へ3

2014年05月20日 21時50分52秒 | ウォーキング

紀伊名所図会に描かれている四ッ石地蔵の絵には、
地蔵の周りでたわむれる
子どもたちの姿や地域の人が描かれていて、
とても味のある絵です。



肥満気味の犬も描かれているのも愛嬌です。

この地蔵様は、絵では野ざらしですが
今は木の地蔵堂に入っています。



そしてこの地蔵堂の周りにある大きな石が、
この地蔵の名前になっています。



かつてこの地域にあった
三上院千光寺(今は廃絶)の礎石だと
そこの案内板にも書かれてありましたが、
最近の説ではその形から見ても
礎石とは考えがたいと言われています。

亀ノ川にかかる六ヶ橋を越えて、



田園地帯の中をこんな案内に導かれていきます。



地面にはこんな表示が施されています。



もしかして、この絵のワンコは
紀伊名所図会で四ッ石地蔵に描かれている犬を
意識しているんでしょうか。
それはちょっと考えすぎでしょうね。

道はやがて県道136号に出ます。



そこを渡ったところが
松坂王子跡です。



車に気を付けて渡りましょう。

早くから、地元の且来(あっそ)にある
八幡宮に合祀されたので、
ここには石の祠と地蔵だけがたたずむだけでした。



ちなみに且来という地名は、
神功皇后が皇子である
応神天皇を抱いてきたとき、
この地の人のもてなしが大変良くて、
「あした(旦)また来よう」
といったところからつけられた地名だとか。

紀州の人のもてなしの篤さを
うかがわせる地名となっています。

ここからしばらくは車の多い県道を南下します。

しばらく行くと左に道が分岐しています。
そこが、熊野古道の雰囲気を
たっぷり漂わせている石畳道への入り口です。

それがこれ。



熊野古道の写真によく出てくる
杉木立&石畳の道に似せて
作られてあるのでしょう。



ほんの少し県道を走る車の喧騒から離れて
雰囲気を味わいましょう。

そしてまた再び県道に出て、
クリーンセンターの煙突を目指して、
クモの形をしているというクモ池のふちを歩いていると・・・



またまた出ました。



徳本上人の名号碑です。

さすがに旅人の無事を祈る碑石です。
横にはご丁寧に「交通安全」の
看板も立てられていました。

まだしばらくは県道を進みます。

すると峠のところに現れるのが
「呼び上げ地蔵」です。



安政二年(1855年)の大地震の時に、
逃げ場を失った人々が
この峠の地蔵さんに呼び上げられて
助かったという逸話が残っていることから
つけられた名前だそうです。



あの「稲村の火」で有名な
安政の大地震はその前年の
1854年の出来事です。
でもわざわざプレートを張り付けて
1855年に訂正してあるところを見ると、
こちらを襲った津波は
安政南海地震によるものだったということでしょう。

地蔵の呼び上げで、
と言われていますが、
稲村の火の教訓が
この地にまで伝わっていて、
きっと人々を高台に避難させたのでしょうね。

親切なことに横に掲示されているプレートに寄りますと
ここの標高は20mだということです。



内陸地のこのあたりなら
これだけ高ければ大丈夫でしょうね。

しかし過去のこととはいえ、
実際にあったこんな話を目にしたりすると、
近い将来発生が予想されるという、
南海・東南海地震への
カウントダウンが始まっているようで不気味ですね。

過去を辿ってみると、
1605年の慶長地震、
1707年の宝永地震、
1854年の安政地震、
1946年の昭和南海地震といった周期で
大地震が起こっているんですね。

特に海沿いに住んでいる人は
皆さんそれぞれに
津波時の自分の呼び上げ地蔵を
設定しておく必要があるということですね。

この呼び上げ地蔵には
台石に文字が刻まれています。



それが、「志おみとうげ 大くり道」の文字だそうです。

後ろの大くり道は、
あの小栗判官の「小栗道」のことなんですね。
これもやはり文字がさほど普及していない時代の
聞き言葉で誤解されていた表記なんでしょうね。

そして真ん中には「三界万霊」の文字が
刻まれています。その文字について
その時は深く考えなかったのですが
後に熊野古道以外の場所で
ふたたび出会うことになります。

ここから坂を下って次の松代王子へと進んでいきます。

続く


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