ハブ ア ナイス doi!

いつまで続くのかコロナとの戦い。
全て解放されて、もっと、もっと
心から楽しまないとねえ。

熊野古道 聖域の入口へ 5

2016年01月26日 20時44分22秒 | ウォーキング

やがて道の先に
「のごし橋」が見えてきました。



この橋の先から、
道はしばらく山の中に入っていくようです。

その橋のたもとにあったのが
「藤原定家歌碑」です。



後鳥羽上皇の熊野御幸にお供した定家は
「後鳥羽院熊野御幸記」を記しています。

当時の御幸の様子や
世俗の風情がよくわかる読み物として、
熊野を行く人たちの
いわゆる一つの道案内にもなっています。

その定家が、この富田川
(かつての「岩田川」)の景色を
美しくも厳しい道であることを説いています。

その日の目的地「滝尻の宿」で
詠んだ歌がここに刻まれています。

「そめし秋を くれぬとだれか 
いわた河 またなみこゆる 山姫のそて」

彼が、この御幸記を書いたときの
年齢がまだ40前の38歳。

御幸記の中での彼の活動は
かなり多彩に及んでいるそうです。

熊野御幸記は国宝であるが
その内容はネットでも読むことができますから、
ぜひ参考にどうぞ。

こんな植木に埋もれてしまいそうな



案内に沿って進んでいきますと、
いよいよ道は山道へと変わっていきます。





途中にこんな道祖神と
庚申塚があります。



とくに庚申塚はずっとあった
6本手の庚申さんです。



庚申さんには、なくしものを探すと同時に、
病気も払いのけるとされていますから、
doironの病気が再発しないように
しっかりお願いしておきましょう。

庚申さんのお伝え人である猿も
しっかり掘られてありました。



あ、これはちょっと大人の
備え石かと思ったら違ったようです。



なんでも庚申さんに穴の開いた石を
備えることは、
耳の病気にいいといわれているそうだ。

さあ、まだまだ山道は続きます。

この辺りの淵は「念仏淵」
といわれているそうです。



なぜかといいますと、
熊野に詣でる人がこの淵で念仏を唱えると、

「仏、仏」

と淵の底から仏の声が聞こえてくるそうなんです。

いろんな風習やあやしい出来事が
熊野への接近をさらに物語っているようです。

こんな木の橋や



階段を



上ったりしながら歩いていきますと、



前方に橋が見えてきました。



国道311号の「蕨尾橋」です。

ああ、これで山道は終わりか
と思ったら、決してそんなことはありません。

この橋を潜ってしばらく行きますと



道は上り始めます。

途中、こんな二体の庚申さんがありました。



っと、この時です。

庚申さんのすぐそばに
大きな木を丸田切りにしたような
何かが置かれています。

近寄ってみますと・・・

おお~なんとこれは備え付けの
ハチの巣箱だったのです。



この巣箱はこの地方では
「ゴーラ」と呼ばれます。

梅の産地といわれるこの辺りでは、
ミツバチの養殖も結構盛んです。

ウバメガシで炭を作り、
梅林の周辺にはこのゴーラを置いて
ハチを育てるという、
地域の環境にあった暮らしが
今も続いているそうなんです。

まったくどういうものなのかわからない
「御日侍供養塔」のほか、



この辺には「徳本さん」の
名号碑も置かれてある。



しかし、熊野古道には
この徳本さんの名号碑はとても多い。
毎回歩いていると
どこかで見かけているような気がする。
帰りには日高町にある徳本さんの
誕生院によってみようかな

結局ひと山超えた感じで歩いていくと、
ようやく人里が近づいたような
感じになってきた。





ああ~よかった。

病後、ちょっと控えていた
山登りの簡単なところを
クリアしたぞって感じだ。

一般道と合流して、



アップダウンをもう少し続けていくと、



こんな日吉神社なんかも迎えてくれる。



またまた犬にほえられたりはしたけど、
この辺は気持ちのいい道だ。

この辺りは「北郡(ほくそぎ)」
といわれる場所だ。



実は今回の古道歩きで
ひとつ楽しみにしていた橋が
ここにはかかっているのだ。

それはどんなかというと・・・続きます。


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