一言寺を出てさらに進んでいきますと、
周りに何の施設もない空き地に、
一本の石が建っていました。
そこに書かれていたのは
「平重衡郷墓」という文字です。
え~これが平清盛の5男である
平重衡の墓?
これは墓本体ではなくて
案内なのかなあ。
近くに墓があるのかなあ。
よくわかりませんでした。
でもさすがに京都、
もしこれが本当の墓だった
としてもああそうかあで
終わってしまいそうな感じです。
謎を抱えたまま次に向かいましょう。
交差点に差し掛かると、
カーブミラーとごみの合間に
石が二本立っています。
ひとつは「親鸞聖人日野誕生院」
と書かれています。
そう、この先にある法界寺が
親鸞の生まれたところだったのですね。
そこには日野薬師もありますので、
もう一つの石には
「右 ひのやくし」と
書かれています。
ああ、今回最後の見ものですね、
訪ねていきましょう。
ん?でも待てよ、
なんか小さな道標が立っていますよ。
「鴨長明方丈石」
というのがここから
1000mと書かれています。
資料では100mと書かれていますが
間違いですね。
鴨の一族である鴨長明の事は
下鴨神社の横の河合神社のところで
学びましたね。
そこで禰宜になり損ねて
大原に移り住んだと書かれていました。
そこから最後にここにきて
61歳で亡くなったのですね。
ほかにも死んだ場所はある
といわれていますけどね。
河合神社には、彼が住んでいたという
小さな屋敷「方丈」が再生されていましたね。
その時にdoironが
撮影したのがこれです。
組み立てて運べるような小さな家です。
昔のプレハブ小屋みたいな
ものだったかもしれません。
そんな彼が大原を出て最後に
方丈を立てていたのが、
ここから一キロほど山の中にある石の上で、
それが方丈石といわれているそうです。
この時は実際にはいきませんでしたが、
ネットにはそのことが書かれていまして、
かなり山の中だったそうです。
こんな写真が掲載されていました。
よくもまあこんな山の中に
粗末な方丈で生きていたものですねえ。
方丈石の案内に関しては、
この1000mのほかにも、
こんな案内や
800mのこんな石の案内も立っていました。
ファンは訪ねていったり
するんでしょうねえ。
あちこち歩いて最近ほんとに
思うのですが、過去の歴史や
様々な思いを何らかの形で
残しておこうと思う人は
多いのですねえ。
若い時にはあまりきずかなかったけど、
世の中にはそういうものが
いっぱい残っていますねえ。
そこからしばらく歩いていくと、
親鸞聖人ご誕生の地という
石が建っています。
その横にあるのが日野誕生院ですね。
親鸞はここで生まれて、
その横にある法界寺の薬師如来など
見ながら育ち、浄土真宗を
生み出していったのですねえ。
ここがその法界寺です。
中身は残念ながら
撮影できていません。
さあこれで、今回の見どころは
だいたい回りましたねえ。
時刻もお昼を回っています。
ぼちぼち昼食を考えていきましょう。
え~車なので、ビールはあきません。
歩いていると、おお、まったけご飯の
旗が上がっているではありませんか。
お食事処に入りましょう。
注文したのがお蕎麦と松茸ご飯と
てんぷらの定食です。
めちゃめちゃ豪華ですねえ。
もう晩飯はお茶漬けだけに
しておきましょう。
それにしてもこの地域は、
小野小町や醍醐天皇、
豊臣秀吉、鴨長明、親鸞と
とても豪華な顔ぶれが
残っていましたねえ。
これから秋にかけて
紅葉もきれいになりますから、
前半の山科川の散歩も合わせて
なかなかいいコースでした。
さて次は、三重県に行きます。
友達の三重の仕事に便乗していた
三重県散策歩きの続きです。
津、鈴鹿、松阪、四日市、桑名と
歩きまわりましたが
今回は、まだ未踏だった
亀山に行ってみることにしました。
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