ハブ ア ナイス doi!

いつまで続くのかコロナとの戦い。
全て解放されて、もっと、もっと
心から楽しまないとねえ。

いざ伊賀上野3

2016年06月20日 21時25分03秒 | ウォーキング

忍者博物館に



ちょっと興味をひかれながらも、
俳聖殿のほうにやってきました。



松尾芭蕉の生誕300周年を
記念して建てられたものです。

最初来たときは集団がこの辺りも
うろうろとしておりましたが、
すぐに去っていきました。

こういう施設は静かに
のんびりとみるのがいいですね。

この建物はなんと
芭蕉そのものの旅姿を
イメージしながら建てられたそうです。

上層の屋根は芭蕉の傘、
その下部が顔、
下の屋根が蓑と衣を着た姿だとか。

ふむ~、ちょっと無理がありますかねえ。

まあ、この建物で
印象に残るのは、
傘の部分に当たる
檜皮葺の屋根の部分のふちが
ちょっと歪んでいて
好感が持てますねえ。

集団が去ったあと、
建造物の中をのぞいてみると、
芭蕉の等身大の
伊賀焼像が置かれていました。



それにしても、
こんな芭蕉像は
どんな姿から
描かれているんでしょうねえ。

表情、身長、体重、衣服なんか
きっとどこかからの引用
なんでしょうねえ。

で、それで思い出しました。
先日、本で伊勢参りの
浮世絵を見たときのことです。

おかげまいりの様子を
描いたものですが、
そこに描かれた庶民の姿が
とてもおもしろかったんです。

中でも、よく見ると
おっさん庶民の顔が
丸顔のとても優しい顔で、
思わず笑ってしまったんだ。

それで、ほかの浮世絵
なんかを見てみると、
そこに現れる庶民の顔の多くが、
そんな親しみを持てる
ユニークな顔で描かれていることが多い。

もし何かでそんな絵を
見かけることがあったら、
一度そんなところを
じっくり見てみてくだされ。

風景はしっかり描かれていても、
登場する庶民の顔は
とっても漫画チックなんです。

この芭蕉の顔も
あちこちのそんな絵に
描かれたんでしょうねえ。

肖像画みたいな絵もあるそうですしね。

この俳聖殿の芭蕉の顔も
そんな昔の絵のように、
親しみ深い表情をしておりました。

俳聖殿の周りをぐるっと回ってみますと、
おお~これは避雷針ですね。



檜皮葺の屋根も
そのうちに吹き替えしないと
いけないだろうし、
こういう過去の遺物は結構手間や
お金がかかるもんなんでしょうねえ。

いずれにしても旅と俳句に
その生涯を送った芭蕉への
敬慕を込めて作られた
なかなかの建物でした。

さあ、ではもう人々も
少なくなったでしょうから、
城の方に向かっていきましょう。

普通の正面坂は帰りの人々で
混みそうですから、
こういう門を出て



こんな案内をもとに



裏道から城のほうに



上がっていきましょう。



結構緑もこい静かな道です。



てくてくと上がっていきますと、
おお~これが「伊賀上野城」です。



白い三層の美しい城郭が
鳳凰が翼を休める姿に
見立てられ「白鳳城」とも
呼ばれています。

もともとここにあった城を
おおきく改修したのは
「藤堂高虎」です。

日本全国に忍者を走らせ、
城の研究をさせたというだけあって
かれは見事な城づくりを行いました。

大阪城の襲撃に備えて、
西側に作った石垣は高く、
それは日本一高い
石垣だったそうです。

そしてその見事な城の様子は、
あの映画監督「黒澤明」の
目に留まり、
映画「影武者」のロケ地にもなったそうです。

ああ、この城塞を
仲代達也が歩いていったんでしょうなあ。

この城の中に入るのも有料ですが、
まあこれもここまで来たんですから、
頑張って500円を払って
登閣しておきましょう。



中に入るとすぐに藤堂高虎が
お出迎えです。



この人の後ろに移っている
使っていた兜のデザインが
ユニークでしたね。



大きな角が2本横に飛び出している
というもの。

これは確かに強そうです。

そしてその横にいたのが
マスキャラの「た伊賀―くん」です。



忍者関連じゃなかったんやあ、

と続く。


いざ伊賀上野2

2016年06月19日 20時52分53秒 | ウォーキング

お城の入り口には、



みんなおそろいの
青いシャツを着て
番号のついた旗を持ちながら
10名くらいの人が集まっています。

どうもこのあたりの
解説をする人たちのようです。

「ご主人さん、案内しましょかあ」

と言って酔って来たら、
「いやああちこちうろうろ
するんでいいですよ~」
と断ろうと思っていたのですが、
残念ながら一言も声がかかりませんでした。
変なおっさんやなあと
思ったのでしょうかねえ。

それにしてもあんなにたくさんの
解説者がここにいるのかねえ、
などと思いながら、
公園の中に入っていきます。
というのも中にいた人は、
ご近所の通行人のような人が
一人いただけですもの。



最初の階段の途中にあったのが



「芭蕉翁記念館」です。



現在の伊賀市の売り物の一つが、
この俳聖と言われた

松尾芭蕉

の産まれたところということですね。

その松尾芭蕉を慕っていた
建築会社の社長から
この建物が寄贈され、
「芭蕉翁記念館」として
生まれたそうです。



入館料は300円ですが、
まあせっかくここまで来たんです。
入っておきましょう。



小さな記念館ですが、
軸装の部、工芸の部、
書棚の部と別れて展示されています。

残念ながら管内の写真は
撮れませんが、
やはり芭蕉本人の書であるとかは
じっくりと見てしまいますねえ。

展示館の中では客は自分一人だけでした。

記憶に残ったのは、
彼が処女出版として
30編の句集「貝おほい」を
「上野天神宮」に奉納しているが、
その中で彼が書いている
俳句との向き合い方が
微妙で絶妙であったことかな。

「・・・ふしふし多き小歌にすがり、
あるは流行言葉の一くせあるを種として、
云捨られし句どもを集め
右と左にわかちて
つれぶしにうたはしめ・・・」
などと書いてある。

芭蕉といえども、
思いつくままに歌にしたのではなく、
いろんな思いの結晶として
「俳句」をひねり出していたんだろうねえ。

ま、ここはそんな芭蕉の
生まれた地なのである。

ぐるっとひとめぐりして、
そして外に出たときにウヒャーとおどろいた。

「山道に観光客が満ち溢れ」

あ、勝手にうたってしまいました。

いま歩いてきた道を
doironより10歳くらい上の人たちの
大集団がドワーっと移動していきます。

一番前には「番号札」を掲げた
解説員が1グループ20人くらいを
引き連れて、
何グループも続いていきます。

ウヒャー、大集団と激突してしまったぞー。

あの入り口にいた
解説員のおじさん、おばさんたちは
この大集団を待っていたんですねえ。

これはまずいです。

どこを歩いていても
「はい、そこのおっちゃん。
番号札のところについてくださいよ~」
なんて言われそうです。

最初は人の少ない方へ
向かっていきましょう。

ふむふむ、これが母の像ですかあ。



なんてとこを歩いているんですかあ。

それでなくても、
うちの義母さんは今は
大変なんやからねえ。

なんていいつつ、公園の片隅を
歩いているうちに集団は離れていきました。

どうも城の方へとみんなで
向かっていったようですね。

あ、ここがテレビなどでも有名な、
あの「忍者博物館」ですかあ。



まあ、興味がないわけでもないんですが、
おっさん一人で入って行って、
「はい、いまから手裏剣投げを
やりますよ~」
なんて言われてもねえ。

では水雲渡りの探検です~
なんて言われたら溺れてしまいそうです。

建物の中はというとねえ、
隠し扉があったり、
秘密の抜け道があったりするんですよねえ。

はいはい、すごいですねえ、
わかりましたよ。

でもうちの家にも、
ギシギシ響く廊下があったりするんですよ。

で、最後は「僕も忍者になりたーい」
とか叫べばいいんですよねえ。

でもそれはちょっと、
おっさん一人じゃ無理がありすぎますなあ。

さすがに入館料を払って
ここに入ろうとは思いませんでした

と続きます。


いざ伊賀上野1

2016年06月18日 21時20分46秒 | ウォーキング

病院への母さんの見舞いは
お出かけする日以外は
たいてい行っている。

ミセスなんかはほぼ一日中
病院で過ごすことが多く、
たまに家の用事を済ましに
帰ってくるという状態だ。

それはそれで大変だなあ
と思うと同時に、
普段ミセスがやっていることのいくつかを
doironがまかなうようになっている。

ま、主に家の片づけ
(我が家と引っ越してきた義母さんち)
と買い物などだ。

これらは計画的にやらないと
ずるずる行ってしまうので、
doironが病院に行ってない日は、
「よし今日の朝は義母さんちの片づけだ」
「午後から買い物に行くから
必要なものを書き出しといて」とか
指示しながら、時間とやることを決めて
忙しく動き回っている。

また、ボランティア仕事や
人と約束して出かけたりする日以外で、
たまに天気が晴れると
「今日は買い物もないので、歩きに行って来たら」
とミセスに勧められて
プラッと出かける日も幸い許されており、
ミセスの手のひらの上で、
気を遣いながらなにかと
バタバタとしているこの頃だ。

フルで仕事はしていなくても
何かと人生忙しいものだねえ。

以前から約束していたサミットに
出かける前の先日も、
雨降りと予測されていたのだが、
朝起きるとカンカン照りの日があり、
「出かけて来たら~」という
ミセスのありがたいおすすめによって、
前から歩きたいと思っていた
「伊賀上野」に出かけることにしたのだ。

忙しい中、非常にありがたいものだ。

ま、普段のたゆみない努力が
こういう場面を生んでくれるのだろう、エヘン。

そこは場所的にはちょっと遠いのだが、
一か所に車を止めてその周りを
グルリンと歩いて、
何かあればすぐに車に戻って
帰宅できるというコース取りを
とることができるのがこの場所の利点である。

それに伊賀上野のあたりは
全く土地勘がない地域ではない。

義理の両親がかつて一度住んでいたことの
ある地域に近い場所である。

なので、昔は月一程度には
そのあたりに出かけていた。
ま、今ほど濃密に周りを眺めて
いたほどではないけどね。

当時は上野市だったが、
10年ほど前に両親の実家のある街も含めて
「伊賀市」という名前になったところだ。

忍者の町、あるいは俳句の松尾芭蕉の町
として知られる場所だね。



家から車で1時間ちょいのところにある。

では、出かけて行ってみよう。

まずは、阪和道から西名阪自動車道に乗る。
行き始めたころは、
西名阪道は通っていたが、
まだこんな阪和道もなかった。

当時の車はまだまだ馬力も弱く、
西名阪道のアップダウンもきつかったなあ
という印象だ。

最近通ると、天理の先の「高峰」の
サービスエリアや月ヶ瀬の
サービスエリアももう
使用されなくなっている。

しばらく通らない間に
かなり様子が変わっているものだ。

インター周辺のお店も、
見た目でさえ随分と変わった印象。

あれ?あそこにあった食堂がもうないやん。

また西名阪は有料部分以外は
一般道となるのだが、
昔は60キロに規制されていた
最高スピードも70キロまで
上げられている感じだ。



さて降り口はというと、
これは行き先を「上野」とした出口は二つある。
しかし、上野の市街地へ入っていくには
二つ目を利用したほうが近いだろう。

25号線から降りてしばらく走っていくと、
やがてにぎやかな街に出てくる。

そこが近鉄伊賀線の「上野市」駅だ。

さあではこの周辺で駐車場を探してみよう。

結局、城の駐車場も有料だし、
さあどうしようかと思ったところで
うろうろしていたら、
ちょうど伊賀市役所の駐車場が
無料のようだ。



ちょうど市役所に入って
地図とかも探してみよう
という用事もあったのでそこに駐車。

まあ、この辺を歩いた案内も
ブログに書かせてもらって
宣伝もするので、
そのままそこに止めておくことにした。

第一、駐車場もガラガラなのである。



ではナビをセットして
歩き始めることにしよう。

まずは市役所の北にある城の方へと
歩いていくことにした。

ようやく歩き始めて、続く。


退職者サミット3

2016年06月17日 20時28分23秒 | 最近の出来事

大事な大事な要件を抱え
また、それぞれの家庭に
いろいろと事情も抱えつつ
ついに今回、初の
退職者サミットが終了した。

首Dさんは、調子を取り戻した形で
料理も食べきれないほど食べていた。

T本さんは、これを契機に
もっと楽しいところに行こうと
もうすでに次回計画を切り出した。

doironは慣れない車を転がしながら
目いっぱい楽しいところを探索した。

こうして3日間を目いっぱい楽しみ
ようやく家に帰った三人は
今頃はぐったりとしつつも
余韻を味わっているところでしょう。

議題はいろいろあったよ
東京都知事のこと
イチローのこと
北海道地震のこと
株のこと、投信のこと等
ま、ま、どれも好きなことを言って
楽しませてもらった。

詳しくはまた後日写真もまとめて
紹介しよう。


まあ、とりあえず今日は寝るぞ~


明日から退職者サミット

2016年06月14日 21時15分37秒 | 最近の出来事

さあて、いよいよ明日から
退職者サミットが始まる。

みんなそれぞれの家庭の事情などもある中で
一同に会して2泊3日で
3人が集まり、退職者としての
メリットを生かして、
会議、遊び、食事、温泉を
満喫する旅だ。

昼の会議には遊びを経験しながら
これからの退職者の
在り方について激論する。

そしてそのあとしっかりと
温泉で心を癒した後は、
夜の会議でとれとれ海の幸と
アルコール飲み放題を味わう
というハードなものだ。

初日泊は白浜や串本も超えてたどり着く

「勝浦」

である。
熊野灘の雄大な香りと響きに包まれ、
神々の宿る神秘的な那智の山々に
体を癒し心を静めて
向かい合うことだろう。

翌日は間もなく徒歩で
到着するであろう熊野をかすめながら、
静かに伊勢志摩へと向かうのだ。

泊まるのは「相差」。

ここはむかし大学を卒業した年に、
卒業おめでとう旅行で
姉夫婦に招待されて、
両親も含めていったことがある。

もう40年近く前だ。
あの頃と同様に、
どんな海の幸が我々を迎えてくれるのか
これもまた楽しみである。

そして最終日は、
そんな日々を前置きとして、
いよいよ伊勢の神々との対話だ。

「ええじゃないか、ええじゃないか」

と心を込めてお祈りをしておこう。

ブログは途中経過も含めて
できるだけ報告するつもりなので、
たまにはチェックしてみてね。

ではこれから用意して、
明日早朝より頑張っていってきます。


あなたの皮下脂肪を飲み干せ!

2016年06月13日 21時26分41秒 | 最近の出来事

昨年末の病気以来、
ぴたっと5か月ほど運動が止まった間に、
一気に体重が増えてしまった。

これがねえなかなか元に
戻らないんだよね。

やせたほうが体にもいいしね。

なのでカロリー消費は昔ほどじゃなくても、
かなり頑張っているんですよ。

ふらふらと遊びに行っても
10km以上歩いては、
カロリー消費をしているし、
出かけても夕方には必ずジムにも行って
欠かさず運動をやっているのにだ。

それでもこういう状態ということは、
消費カロリーより摂取カロリーのほうが
大きいということにほかならないんだよね。

まあ、食べる量は以前と
あまり変わっていないもんなあ。

逆に言えば、これまでさほど
太らなかったのも、
運動やってた頃の消費カロリーが
いかに多かったかということも
言えるのだろう。

大きな消費カロリーを支えるために、
摂取していたカロリーも
それに比例して多かったということやね。

まあ、それがまた胃腸を鍛えて
ウルトラにも向いてきた
ということもあるんだろうな。

そんなカロリー摂取状況が
体にとって普通になって
しまっているんだろうなあ。

でももうそんなことは言ってられない。

今の状態を脱するために
これからどうすればよいかを、
ホンマにぼちぼち実行してかなくてはならない。

つまりまあそれは、
摂取カロリーを減らし、
消費カロリーを増やす
というほかはないだろう。

とまあそんなことを考えている最近、
ゼロコーラを買ってきて飲んでいたら、
ふと面白いことに気が付いたのだ。



そのコーラのラベルには
こんなことが記載されている。

「コカ・コーラ史上最強のゼロコーラ」

という記載だ。

昔は、エイドでコーラを飲んで
トライアスロンやウルトラを
乗り越えてきたんだが、
このゼロコーラだったら
無理だったろうな。

まあダイエット中の体にしてみれば、
「ゼロ」はとてもありがたい飲み物といえる。

でもねえ、もっとすごいことに
気が付いたんだ。

それは
「コカ・コーラ史上最強のマイナスコーラ」
だったらもっとすごいのにってことだ。

コーラ1本で水分は補給されるが、
消化するために
体からカロリーが奪われる
というものだ。

例えば500ml飲めば
100キロカロリー消費される
なんてのがあれば
これはもう最高だ。
飲めば飲むほどダイエットになっていく。

こんなコーラが売り出されたら
もう爆発的に売れるだろう。
もしかしたら医者の処方箋が
ないと買えなくなったりしてね。

でも今のいろんな科学進化や
医薬進化の状況からみて
不可能ではないと思うけどなあ。

え~、このブログを見て
そんな飲み物を発売するようになったら、
顧問にしてください。

そして、売り言葉は

「あなたの皮下脂肪を飲み干せ!」

これで決まりやね。

それともう一つこんなニュースがあった。

北海道で7歳の息子が
「しつけ」で置き去りにされ、
6日後に自衛隊の施設で見つかったという話だ。
彼は6日の間、
水だけを飲むだけで
体重が1割ほど減ったらしいのだ。

ということはまあ、
doironが目標にしている
ダイエットを6日で達成したことになる。

すごいじゃん!そのニュースを聞くたびに、
「ああ、あんな自然のきれいなところに、
しつけということで置き去りにしてもらえないかなあ」
なんて考えてしまうのだ。

還暦のおっさんにしつけはないか、
だったら「おしおき」かなあ。

とまあ、そんな具合に変な目で
ニュースを見てしまうのであるのだ。

いやあ、とにかくこれから
夏に向けてより一層楽しく
元気で過ごすためにも、
体重をしっかり落とさねばなあ
と考えているdoironなのでした。


淀川完歩35 毛馬についた

2016年06月12日 21時15分47秒 | ウォーキング

ここから先は「禁漁区間」という
石を過ぎると、淀川の重要機関



毛馬の閘門に到着です。



毛馬という地名ですが、
不思議な名前ですねえ。
まるでたてがみに覆われたような
強そうな馬がいたとか、
馬の上で髪の毛を揺らしながら
活躍するdoironのような
侍がいたからとか
そんなんでしょうか。

調べてみますと・・・
この辺りは旧東成郡毛馬村の一部で、
天正年間に織田氏が
この地に毛馬城を築き布陣したこと、
また古くは雑草の茂る
毛志島と呼ばれ、
それがなまって毛馬となったこと
に由来するとの2説があります。

前者だとまださらに
毛馬の意味が分かりませんねえ。
色のきれいな馬でもいたんですかねえ。
よくわかりませんでした。

今、この毛馬という土地には、
前回doironが歩いた
大川(実はこれが昔の淀川)と
今の淀川の接する閘門があります。

なぜ閘門かといいますと、
いらない水などを排出するためです。
いや、それは肛門
じゃなくて
本線と大川の水位が異なるために
その調整をする水門がついているのです。



またそのほかの機能としては、
大川の水を強制的に
淀川本流に戻す排水機場もついています。

実際どのようなときに
どんな施設が動くのか、
その仕組みなんかも
よくわかりませんが、
そこにある大きな施設が
淀川河口地域の水環境改善に
大切であるということは
よくわかります。

ちょっと周辺を歩いてみましょう。

自転車が一台通れそうな
小さな入り口から、



閘門の前のところに入っていきます。



この大きな名前の書かれてあるのが、
校門の内壁でしょうね。

川側の景色はこんな様子です。



橋を渡ったところに
いくつか案内板などが
ついています
順番に見ていきましょう。

まずこれが「毛馬洗堰」の説明版。



あれ~これは旧の洗堰施設かなあ。



10の門のうち3門残っている
と書かれてある。

う~ん、ここの施設は複雑すぎて、
また新旧があって
何がどうなっているのか
よくわかりません。

くるっと回るとこれは

「沖野忠雄」像です。



この人が毛馬閘門の築造に
貢献した人だそうです。

その像の後ろには
「淀川改修紀功碑」が立ち、



その周りには大阪城築城の際に
運ばれた石垣の石が
ここで船から落ちて
川底に転がっていあたもので
「毛馬の残念石」と
名付けられて転がっています。





それからこれが「眼鏡橋」の旧跡です。



淀川改修の際に集められた
土砂などを運搬するために
設けられた長柄運河の
入り口にかけられていた橋です。



おおきな丸い橋げたを
眼鏡に例えていたようです。

あ、そうそうこの毛馬の残席あたりには、
こんな風に北を向いて立つ
「北向き地蔵」もたてられてありました。



それから淀川改修に当たり、
昔大切な技術を持っていた人に
オランダ人の「デ・レイケ」さん
という人がいました。

これまでの淀川歩きの中でも
何度か出てきた人です。

そんなデ・レイケさんとの交流から、
日蘭交流の400周年記念広場
なんてのもここにありました。



琵琶湖は上流から流れてきて、
南郷洗堰、天ケ瀬ダムなどと
並んでこの毛馬の当たりは
この川の水の流れを制御する
大きな施設の一つとして
活躍している施設でしたねえ。

ここから長良橋を越え、



距離標も9キロとなったところで、



前方にJR京都線の鉄橋が見えてきました。



ではここらで今回の淀川歩きの
終点といたしましょう。

ここからJRに沿って
町の中に戻っていきます。

途中、中崎町の古い民家を
改良したようなお店が
いっぱい並ぶ中を歩き、



地下鉄の中崎駅でナビをストップ。



今回はこんな感じで
約10キロを歩きました。



たぶんあと残りは9キロもありません。
次回の歩きで一応淀川完歩終了でしょう。

でもねえ後半は対岸のほうにも
見どころがいっぱいあったようで、
そのへんも含めて
まだまだおつりで歩いてみよう
とおもいつつ、今回はこれで終了です。


淀川完歩34 懐かしの赤川鉄橋

2016年06月11日 21時13分21秒 | ウォーキング

この「せんにん塚」のあるところで



昭和20年6月7日の大空襲の時に、
戦死した数万人の中から
身元不詳の千数百人の遺体を
ここに集めて廃屋の木材で
荼毘にふしたそうです。

おお~今は高齢者が集まる
平和な公園の片隅で、
その昔なんという悲しい出来事が
あったのでしょうか。

各地を旅すると
そんな人の心の浮き沈みまで
時折大きくかぶさってきたりしますねえ。

この「仙人つか」の隣には
平和祈念の地蔵もおかれています。



さて、ではdoironも
非核だけでなく
平和そのものを祈りつつ
先へと進みましょう。

おっ、ここにはワンド群の
自然と生き物の様子を
「イタセンパラ」を中心に
説明してあります。



一時はこのワンドに住めなくなった
イタセンパラも昨年から
住めるようになった
と書かれてあります。



いろんな研究などから
生育環境が復活されたんでしょうねえ。

いやいやほんとに
関係者の努力に
頭が下がりますねえ。

わんどはまだまだ続き、
多くの人が釣りを



楽しんではるこの辺りは
距離標にして12kmとなりました。



前方には赤川鉄橋の
橋が見えてきています。



と、このとき川と反対側の
堤防上にこんな碑がありました。



「赤川廃寺」と書かれています。

河原のこういう社寺は
当時水害の多かった地域の
守護として活躍している
お寺がたくさんありました。

しかし明治の大改修などで
河川をまっすぐに
引き直すなどの作業で
消えたお寺はいくつかあります。

前回の14.5キロ地点くらいには
「橋寺廃寺跡」もありました。



いずれにしてもあの
明治18年の大水害以来、
川の付き方や管理の様子は
ずいぶん変わっていったようです。

右に広がっている
ワンドの景色がなくなり始めるころ、
この先に通っている
「赤川鉄橋」のすそのところまで
やってきました。



この線路はかつて杉本町から
新大阪まで通っていた
「城東貨物線」の一部です。

阪和線に乗ってたら、
この線路どこへ行くねん
みたいな線路が
町中に向かって伸びていたのを
思い出します。



その延長上にあるこの橋には、
かつて線路が走る部分の横に
人が渡るための木の橋が
架かっていました。



いまはこんな風に
複線化が図られていて、
木の橋もありませんでしたね。



開通を目指す
「おおさか東線」にするために
複線化がすすめられ、



2013年にこの木の橋は
通行止めになったそうです。

人間橋が通行止めになるときは、
一つの橋に鉄道橋と
人道橋の二面を併せ持つ
珍しい風景がなくなるということで、
マスコミも大きく取り上げ
多くの人々が惜しまれつつ
集まったそうですな。

実は、doironもかつてこの橋の
たもとには知り合いのうちがあって
30年くらい前に訪れたことがあります。

そのときはこの木の橋を
半分くらいまで渡った
記憶がありますね。

そんな30年間に
いろんな思いや出来事がありましたが、
ここにきてあの時の記憶が
壊れていた時計が
動き出すように
ふいにつながった気がしましたね。

そんな懐かしい橋を過ぎたら、
住所は都島区のほうに入っていきます。

赤川鉄橋の少し先に、
人も車も渡れない橋が
1本かかっています。



これは、大阪市の上水道を
運ぶためのものです。

水道水を運ぶために
ここまでの橋が必要なんですねえ。

さあ、もうここまで来たら、
自転車選手やマラソンランナーの
姿は少なくなりました。



道の草も結構茂っています。
こんな状態でロードバイクに乗ったら、
道端の草が引っ掛かって
タイヤが外れたりしそうです。

遠くを見たら、
大阪市内のビルも
いっぱい見えてきました。



そしてそう、doironが指をさしているのは、



毛馬閘門の近くにある
淀川大橋の特徴のある姿です。

写真はそばにいた人に頼んだり
マル秘チェックの方法で
タイマー撮影したりします。

先日歩いた大川の終着地点が
いよいよ目の前に見えてきました、



と続きます。