1月に息子の足の手術で
病院付き添いで長野県に行ってきた。
その時は母親の体調が悪く
孫には会えずとっても残念でした。
まあ行先が病院なので
そこで会うのも心配だから、
それはそれでよかったんやけどね。
息子の足の手術も成功し、
もう今はすっかり全快状態なので、
よかったよかったと
ほっとしているところだ。
そしてそれから5か月。
孫がもうすぐ1歳を迎えることになる。
息子からのメールでは
何回かに一回はつかまり立ち
しているという。
そんなことを聞くと
これは会わなくちゃねえ
という気持ちがますます
大きくなってきますねえ。
そして同時に、doironの車も
買い替えようという時期が
重なって来たのだ。
まもなく発表があるよと
うわさされていたトヨタの
「RAV4」に焦点を定め、
その発表時期も待っていたのだ。
昔からこの車に乗りたかったのですが、
国内で作られないようになり、
残念がっていたところだった。
それがここにきてようやく
日本国内でも売られるようになる
と発表になったので、
ヨッシャーとよろこんでいたのだ。
なにせ長年愛用したエックストレイルも
10万キロを超えて11万キロに
迫る勢いだったのだから、
待っていた甲斐があったというものだ。
事前に何度か話をしていたので、
結局カタログが出る前の
内部発表があった時点で、
買い替えのお話をいただいた。
詳しいカタログもまだ出ていない
段階でのことだ。
ほぼその時点で話を決め、
一週間後くらいに発注をしたのだ。
それはまだ3月の時点だった。
それからいろいろと店の人と
話をしていたら、
3ヵ月後くらいには納車されるだろう
という感じになっていった。
じゃあさあ、納車されてきた新車で、
慣らし運転しながら
孫に会いに長野に行けばええやん
ということにしたのだ。
我が家では孫に会うには
土日でないとなかなかうまくいかない。
親は二人とも働いていて、
孫は昼間は彼らの義理母さんたちに
育てていただいているからだ。
そんな中この時期だったら
車も新車で大丈夫だろう、
ということで上田駅前の宿を抑えて、
さあ行くぞと段取りをしていたのだが、
惜しいことにその予約が
後で決まった納車の
五日前の日付になってしまっていたのです。
仕方なく今回はミセスの
軽自動車で行こうということに
なりました。
まあいきなり新車で長野も、
ハードといえばハードかなあ
って感じだしね。
それに軽四での長野は
孫誕生日に日帰りで
行ったこともあるから、
全然大丈夫ですしね。
さあでは出発しましょう。
孫が生まれて4回目の長野です。
出発は午前5時です。
昼頃には向こうにつくかなあ
という感じですね。
渋滞もない中、
順調に進んでいきます。
それで早い時間に着きそうですから、
この日は軽井沢の方へ
親子3代で遊びに行こうと、
息子たちは計画している
と連絡をくれていました。
するとどうでしょう、
中央高速の電光掲示板に、
G20の軽井沢会議開催中で
大渋滞でそっち方面は
避けてください
のような文字が流れているではないですか。
慌ててそのことをメールで送り、
再検討です。
結局その日は有名なお蕎麦屋さんと、
孫の誕生日プレゼントを
買いにいくことで落ち着きました。
昼にそんな蕎麦屋に
行くんだったらと
こちらはおなかをすかした状態で
向かっていかないとね。
梓川のSAでかなりゆっくりし、
それでも約束時間前に
上田の某スーパーの駐車場で
待ち合わせです。
ミセスとウロウロしていると、
ああ向こうから息子がやってきます。
おなかに子どもを抱っこするような
装備を付けてやってきましたよ。
ああ、あの息子もこうして
子育てするようになったんやなあ
と感激しましたねえ。
続く
災害に備えて頑張って
土嚢を作った土の名残みたいです。
実際土嚢が積まれていますが、
微妙に虐げられている
古墳の町にはこんな古墳も
ではここからさらに
先に北側に3墳が並んでいる
これが「助太山古墳」ですねえ。
この古墳は横に隣接する
埴輪とかも見つかっておらず、
そしてその横が「中山塚古墳」で
いずれも陪冢の方墳です。
これらからそれぞれ
発掘時には何万人もここに
帝釈すなわち大石を
そういう意味で、世界遺産になる前も
そのものは今
そんな古墳を見て、さあ最後に
ここは有名な国宝となる
そして最後が前回見つからなかった
調べてみたらテニスコートの
応神天皇陵もこの古墳の存在を
これにて、あたらしく世界遺産に
ーーーーーーー
昔の職場や一時住んでいたことも
最近、新聞や雑誌でも
これらの古墳群の旅を
いろいろと特集しているようですね。
被葬者はだれなのか、
それさえもまだまだ謎の多い古墳群。
これを機会にあわせて近々竹内街道を
歩いてみようと思っています。
土師ノ里の駅の方に
戻りましょう。
途中、こんな世界遺産の
垂れ幕が付いていますねえ。
その背後の緑もまた古墳です。
唐櫃山古墳といいます。
前方後円墳でありますが、
道路で大きく削られています。
でもまあ、こんな堺大和高田線沿い
ですから、藤井寺市はここを
何かにいかせないかと
計画中なんだそうだ。
まあ世界遺産に決まったから
そういう取り組みも
しやすくなるでしょうねえ。
駅まで戻ると、その駅のすぐ西側に
小さな小山があります。
これが「鍋塚古墳」ですねえ。
まさに駅前にデーンと存在しています。
ここは5世紀前頃の古墳で、
この後訪れる仲姫命陵古墳の陪冢です。
見た目は円墳ですが実際は方墳。
例のごとく埋められていたものの
配置でわかります。
ここは上に登れるように
なっていますよ。
てくてくと上がっていきますと、
ここには樹木はありませんね。
墳頂もこんなにのどかな
草っぱらになっています。
もともとは樹木なんかも
あったそうですが、
それらは全部取り払われて
国の史跡として残っている古墳です。
この上からだと、
次に向かう仲姫命陵古墳が
よく見えていますね。
ここも天皇本人ではないのに
「陵」が付いていますねえ。
仲姫命は応神天皇の皇后。
大きさ的には古市古墳群の中で
応神天皇陵の次に当たるのですが、
実際の天皇陵と離されて
作られているのが何か
感じるものがありますねえ。
時期的には4世紀後半の時期で
応神天皇陵よりも古い前方後円墳です。
ここは何かほかのところよりも
さらに一段と静かな感じで
たたずんでいますねえ。
墳丘の形もきれいで、
秋には赤く高揚する樹木が
きれいで女性の墓という
雰囲気がするそうです。
この古墳の堀に沿って
逆時計回りに回っていきましょう。
静かな地域なので神社なんかも
ありますから、ちょっと寄っていきましょう。
ここは澤田八幡神社といいます。
古墳の方から下へ降りていきますと、
本殿の横に出ます。
そこからさらに下に降りていきますと、
おお境内になんと踏切が
あるじゃないですか。
これは不思議な感じですねえ。
鳥居をくぐって、本殿に
向かっていきますと
目の前の踏切の向こうに
電車が走っていきますよ。
ああ、これもナニコレ珍百景
じゃないですかあ。
ここの神社は八幡様ですから
主祭神は応神天皇ですね。
だんじり小屋なんかもあって
地域で親しまれている神社って
感じですねえ。
再び古墳の方に戻っていきます。
それにしてもこの辺り、
町の配置や地形も古墳に
決められていて、町の中に
古墳がぽつんとあるという感じではなく、
古墳の周りに町ができていってる
という感じです。
こんな段々のある街の姿なんか
見てると強く感じますねえ。
しばらくまちなかを歩いていますと、
突然目の前に緑の大きな公園があります。
それが「古室山古墳」です。
ここはとてもきれいに
整備されていて中に入って
墳頂にも登れるようになっています。
実際その時も、犬を連れた人や
高齢者の人たちが中で
散歩をされていました。
後円が高くなっておることから
古いタイプで、4世紀後半から
5世紀前半の頃の前方後円墳
とされています。
墳牒はとても気持ちのいい所で、
隣接する西名阪自動車道が
よく見えます。
そうかあ、逆に言えばこの古墳は
西名阪からもよく見えるわけですねえ。
藤井寺の降り口を過ぎて、
しばらく行ったところで
左側に見えてくるんですねえ。
今度確認しておきましょう。
ここは梅や桜も植えられていて
ちょっとした行楽地。
もしdoironの古墳を作ろうと
計画されるなら、
こんな見晴らしもよく花の咲いている
墓がいいので覚えておいてください
って何言うてまんねやあ。
続く
その対象となっているのは、
世界遺産すべてを網羅するのも
を訪ねる旅行に行ってきましたので、
書いていきましょう。
今回の旅の始まりは近鉄の
天気の様子を見ながら
そもそも歩き始めとなったこの駅なんですが、
土師というのは、古墳の築造や
そんな地域を「土師ノ里」といっていたが、
書かれていますねえ。
またここで見つかった水鳥の
そんな古市古墳群の
まずは土師ノ里の少し北側にある
ちなみに、倭の五王は
もちろん説有りですがね。
5世紀後半に作られた古墳で、
まあ訪ねて行ってみると、
で、調べてみると古墳の向き
土師ノ里の駅の近くに
そもそも古墳は大きな
この前の道は何度も
残念ながら投稿した記事や
写真は乗らなかったなあ。
う~ん、タイミングが合わなかったのかあ。
それともやはり出来が悪かったのかなあ。
まあ、仕方ないね。
代わりにメインイベントに参加した
ほかのリポーターの写真は
きれいに乗っていたねえ。
よかったですねえ。
こうして掲載してもらえると
テンション上がるもんねえ。
来月は頑張ろうと。
で、ここんところは指示が続いた
イベントに取材に参加しています。
そのイベントというのがねえ、
子育てのイベントだ。
ひとつは子どもたちに
絵本を読んで聞かせるというもの。
ある団体の女性が大きな絵本を広げて、
情感たっぷりに読み上げるというもの。
まあしっかりされているので
みんな感動ものだったね。
そしてもう一つは
「パパと一緒に遊ぼう!」
というもの。
水遊びや砂遊び、笹飾りなどをしながら、
パパ中心に遊んでいくというものだ。
来ている子どもたちは
8か月くらいの子どもから
三歳くらいの子どもなので、
もうまるで孫を思い出すような状況だ。
ウヒャー!!
こういう取材に行くと、気が付くのは
もう参加者はすべて年下なのです。
なかみを見ていて頑張って
子育てしているなあという感想も、
自分に取ってみたらもうはるか昔の
自分の姿のようなもの。
あ、マラソンやトライアスロンやっていたので、
いうほどそんなにしっかりと
子育てしたわけではないですけどねえ。
まあ取材する自分の歳周りは
そんな感じなのです。
だからまあ、参加者を
取材対象として元気に写そうとすると
こちらもテンションをあげて
ゆくのですが、それがどうも
一人浮いてしまうような感じで、
ちょっぴりきまりが悪かったり
することが多いのです。
そしてなんと今回取材に行ったこども園は
doironが約60年前に卒業した
という当時の幼稚園ときている。
ウヒャーと驚くでしょう。
ここに参加している人たちが
まだ生まれてもない頃に
ここを卒業しているわけですから、
もう関係者から言ってみたら
わけの分からん取材人なんですなあ。
とはいえ、ボランティアみたいな
仕事とはいえ謝罪も
もらっているわけなので、
やるべきことは一生懸命
やらなければなりませんね。
昔とった杵柄で、こうしよう、ああしよう
と思い出して現場に立っています。
そうそう撮影時には
「あ~お父さん、笑顔でね~」とか
言っていますが、もし祭りの立場になったら
こちらの役員としては、そんなパパに
「しっかり曳かんかい」と注意するような
年齢的立場となっているので、
その差がなんか変な感じなのだ。
結局、真剣なまなざしで絵本に
引き込まれている
目のきらきらした子どもたちや、
お父さんとシャボン玉を作って
喜びまくっている子どもたちなどは
結構写せたかな、と思っています。
どれか採用してもらえないかなあ。
こういう写真ていうのは、
景色や道標、お地蔵さんなど
歩いている時は周りの状況などを
できるだけ忠実な記録として
取材時なんかは人の姿を
ただ写すだけでなく、
気持ちまで表現できるように
しないといけないのでむつかしいねえ。
目線の動き、手の動きひとつで
全く違った写真になるもんね。
ただ単にシャッターを押すだけでなく、
ここという瞬間を見分けるのもまた
こちらの手腕だったりするんですね。
そんな広報紙の確認は月末に、
駅の片隅にどんと積まれるのを
見に行って確認しています。
昔はそれぞれ掲載前に
向こうから確認してきたんやけど、
最近はもうその辺は任せっきりに
なっているので、
「ああもう任せとくよ」
という感じで、気楽といえば気楽なんです。
さあて8月号はどうなりますか。
一歳になる。
ああ、息子に対してこんな時は
どんな行事で祝ってあげたっけ、
と過去のアルバムを見てみると
こんな感じでした。
で、孫の誕生日はどうかというというと、
こどもの時の様々な儀式のひとつとして
長野県の方の儀式に沿って
行われているようです。
向こうでは、名前の入った餅を
大量に作って、それを前掛けなんかに
入れて担ぎ上げたりするようで、
こんな画像も送られてきた。
可愛いねえ。
何よりも親の手助けをもらいつつ
餅を抱いて立ち上がっている写真は
可愛かったねえ。
そんなおもちもこちらに送られてきた。
こんな感じ。
いくつかあったので、
少しづつ焼いていただきましょう。
そんな爽ちゃんにたいして
ジジババが、あげたプレゼントは
先日訪ねて行ったときに
買ってあげたおもちゃだ。
それで遊んでいる動画も
送ってもらったりしている。
まあ便利な時代になったものだ。
で、孫の写真なんですが、
やはり親に言っていないので
ハートで目隠しです。
まあ僕はいいかなあとは思うのですが、
人によってはやはりそうしないと
という人が多いようですねえ。
まあとにかく孫も1歳。
じじいはどんどん年老いていきますなあ。
では誉田八幡宮に入っていきましょう。
と、その前に歩き始めに
修理した靴のもう片一方も調子悪いです。
これも残っているガムテープで
修理していきましょう。
う~ん、もうこの靴はお役御免ですねえ。
帰宅したら廃棄ですねえ。
お疲れさんでした。
そしてもう一つ修理すべきものがあります。
それが歩き始めにもらった
古墳の地図です。
この辺りの地形がわかりにくく
頻繁に地図を広げていますので、
折り目が破けてボロボロになってきました。
これはどうにかしないとなあ
と思っていたら、ああそうです、
これもガムテープで補修すればいいんです。
幸い地図は二枚もらっていますので
予備を使えばいいのですが、
保存用に置いておかないと
これもボロボロになりそうですからね。
こんな感じで修理しました。
ああ、それにしても靴の事といい、
地図の事といい、なんか
ついていないようですが
何となく乗り越えていきます。
この先で転んでひざもケガしましたが、
ああこれもガムテープで
修理しておきましょう、
ということにはなりませんがね。
急遽買ったガムテープが
とても役に立ちました。
では誉田八幡宮にに入っていきましょう。
すぐに誉田林の古戦場
の跡の碑があります。
大坂夏の陣で、真田信繁も
この近くに先陣を気づきましたが、
うまく戦えず撤退してゆきます。
豊臣方の敗走が始まっていくのです。
この辺りは夏の陣の激戦区でしたねえ。
さらにこの神社の東の方に
行きますと大きな石の橋が
架かっていました。
これが放生橋です。
この誉田八幡宮から応神天皇陵の方に
進む橋で、昔はこの神社に
古墳の拝所があったのです。
これが河内名所図会の中の
応神天皇陵と誉田八幡宮の絵です。
天皇陵にずっと階段が付けられ
その上に施設のあったのが
わかりますねえ。
昔はこんな感じであったのですねえ。
でもまあこの施設のおかげで、
この天皇陵の緑が残っていく
ことになったんですねえ。
当然、この八幡宮の主祭神は
この応神天皇なんだそうそうです。
ではこの誉田八幡宮を出て
次の古墳に進んでいきましょう。
次は応神天皇陵の東側にある
小さな古墳です。
まず最初が「栗塚古墳」ですねえ。
住宅街の中にデンと小山が
残っています。
これが応神天皇陵の陪冢で
方墳の栗塚古墳です。
見た目、中々方墳とは見えません。
樹木等で崩れているのもあるのですが、
発掘時に埴輪が方墳の形で
ずらっと直線的に並んでいたので
方墳だと分かったそうです。
そしてこれが東馬塚古墳です。
あえて応神天皇陵の外壁の上に
作られていたので、
応神天皇と関係の深い陪冢だ
といわれています。
それにしてもこの辺りは
住宅がいっぱい立っていて、
それでいて道もくねくねで
わかりにくいですねえ。
それぞれの古墳を探し当てるのに
とても時間がかかりました。
それにこちらの気持ちも
ちょっと萎えてきましたねえ。
今日はこれくらいにしておきましょうか。
資料のこんな感じの赤の
マーカーのところを見てきましたよ。
世界遺産に登録される古墳は
あと10基です。
今日は気持ち的にもこれくらいにして
引き上げることにしましょう。
ここからだと道明寺の駅に
近いので歩いていくことにしましょう。
そうして歩いていると、
以前雨の中を歩いた記憶が
よみがえってきました。
道明寺のそばを歩きながら
駅へ向かいます。
今日はこんなコースを歩きましたねえ。
せっかくここまで世界遺産を
訪ねてきたので、
あと残りの古墳も近いうちに
訪ねてきましょう。
道明寺から電車に乗り、
次の古墳のあるあたりを
ちらっと見ながら、藤井寺迄。
置いてあった車に乗り、
つかれたあとか思いながら、
修理した靴で帰宅した
doironだったのでした。
古いぞ古市古墳群
とりあえず6話終わりです。
羽曳野市役所の前には
こんなお土産屋さんもありました。
百舌鳥・古市古墳群の
お土産屋さんができていましたねえ。
この古墳群が世界遺産に
登録されただけで、
堺市の経済効果は400億円
と新聞に書いてありました。
まあこの羽曳野、藤井寺の方にも
その効果は及ぶのでしょう。
お土産屋さんもきっと大繁盛だぜ~、
とか考えつつ、
さあ次の古墳を目指しましょう。
次に目指す大きな古墳は応神天皇陵です。
応神天皇は日本の第15代天皇です。
仁徳天皇の父親にあたるわけですね。
この応神天皇陵というのが
仁徳陵に続いて日本で
第2位の広さであるという。
で、この応神天皇について
少し調べてみると、
どうもいろんな資料を見るにつけ、
何となく存在さえも
否定されているところもあるようだす。
仁徳と応神は同一人物
という説なんかもあり、
どうもこの辺りを突き詰めていくと、
古墳そのものも見直されるような感じだ。
まあでもここでは宮内庁のいうとおりに
話を進めていきましょう。
応神天皇陵に向かいつつも
周りの古墳から確認していきましょう。
ここは外環の道路に
一旦出てきたところにある
「はざみ山古墳」。
この古墳の周りには堀があるのですが、
後円部分だけ埋まってしまっています。
なので堀の形が和ばさみに似ているので、
こんな名前になっています。
そういえば古墳の名前は
いろいろあって面白いよ。
百舌鳥古墳群では「どんちゃ山古墳」、
古市でも「サンド山古墳」とか
「ボケ山古墳」とかがあるが、
ほとんど名前の由来がわかっていない。
でもこのはざみ山は
はっきりしているようだ。
そんな古墳を見ながら
ぐるっと回っていくと、
応神天皇陵前交差点に出てきます。
ここがその天皇陵です。
古市で最大の天皇陵なので、
写真を撮ってもなかなか全体の
雰囲気がよくわかりませんねえ。
古墳の取材はむつかしいですなあ。
まあここは古市最大の古墳ですから、
航空写真なんかで
紹介するときにはたいてい
写っているから確認しましょう。
この古墳の周りの道を
反時計回りに歩いていきます。
この応神古墳で注目すべきなのは、
墳丘に生えている樹木などの植物だ。
たいていの古墳は後に
自治体などで樹木が植えられたり
しているのだが、
ここはもう全く自然に生えている
樹木なんだそうだ。
照葉樹林が多くを占めているのだが、
これだけ広い照葉樹林は珍しい。
今では社寺林などで
残っているそうだ。
まあだから古市のこの辺りも、
何も開発せずに放置して置いたら
こんな感じの森になるということやね。
なぜここにこんな樹木が
残ったかというと、
この後登場する誉田八幡宮との
関係に寄るのだそうです。
それはまた誉田八幡宮の
ところで書いていきましょう。
応神天皇陵の周りを歩いていて
ふと右を向くと大きな森が
見えています。
向こうから見ると、
こんな地域で
ちょっと有名なハンバーグの
お店の裏のあたりです。
この森が、「東山古墳」です。
この古墳は5世紀初頭の方墳です。
この辺りの発掘口調査では、
農機具などの鉄の製品が
よく出ているところから、
ここは農業を管理していた
えらい人が眠る古墳じゃないか
といわれています。
応神天皇の政治の中の
農林水産大臣の墓なのかもしれない
といわれているそうです。
ではさらに応神天皇陵を
回っていきましょう。
まわりが田んぼの田舎道を
歩いていきますと、途中から
まちなかへと入っていく
コースになっています。
静かなところで保育所なんかも
ありますねえ。
そしてその先に現れたのが
「誉田八幡宮」です。
この八幡宮の社殿はもともと
応神天皇陵の中にあった
といわれています。
なので、森が荒らされなかったから
天皇陵に照葉樹林の森が
残っているわけですねえ。
続く
白鳥陵古墳を見たら、
竹内街道を少し戻っていきますと、
そこに「軽羽迦神社」があります。
ヤマトタケルの仮の墓から
ついた名前で、この墓があるので
この地域はさっきも言ったように
軽墓といわれていたようです。
そして白鳥通りの羽曳野白鳥郵便局の
ところに出たところには
こんな看板も立っていました。
「古市大溝」といわれる水路跡です。
古墳の築造の少し後くらいに
人力によってつけられた溝の後が
残っているようです。
いくつかの古墳もこの溝の築造で
壊されているらしいです。
そんな看板のところから
北のところの公園のバックに
なっていた古墳が青山古墳です。
住宅街の中にひっそりとあります。
ここは5世紀中ごろに
作られたおおきな円墳です。
一部には造り出しもありますが、
詳しい調査がまだ行われていないので
不明な点が多い古墳だそうです。
その古墳から東側の方に
移動していきます。
ああここからは羽曳野の
翠鳥園遺跡が見えています。
あれは古墳時代よりも前の
石器づくりのアトリエです。
ああいろいろと過去のものが
展示されているんですねえ。
やがてその先で大きな古墳が
見えてきました。
「墓山古墳」ですね。
五世紀前半の前方後円墳で
古市古墳群の中で
第5位の規模を持つ古墳です。
まわりには深い堀があります。
この古墳は近くに羽曳野市役所
なんかもありますが、
いくつかの陪冢と思われる古墳もあります。
その一つが、この方墳である
「浄元寺山古墳」です。
墓山古墳の西側にあり、
墓山古墳の中心線が浄元寺山古墳の
北側線とぴたりと一致するところから
陪冢であろうといわれています。
そして墓山古墳をぐるりんと
回って歩いていきますと、
ちょうど墓山古墳の向こう側に
あったのが、まるきりそんな名前の
「向墓山古墳」。
浄元寺山古墳と墓山古墳を挟んで
対照的にある方墳です。
一部が墓山と重なる位置にあるので
ここも陪冢であろうといわれています。
その向墓山古墳から
さらに少し南に行ったところに、
「西馬塚古墳」があります。
墓山古墳とは少し離れた
地域にありますが、
調査からどうも墓山古墳の
付属古墳ともいわれています。
ああこんな住宅街の中に
大きな古墳がひとつあって、
そのまわりにも入り組んだ形で
陪冢や関連古墳があるんですねえ。
それにしても現役で働いていたころに
よく行った羽曳野市の市役所の
すぐ裏あたりに、
こんな陪冢もあるような
大きな古墳があったとは
今更ながら驚きですねえ。
そういえば、ここで昔に会議に出たときに、
会議室の外に見える景色が
緑が多かったことを
思い出したりしますねえ。
でもこういう取り上げ方がされないと、
ほんとにきずかないものなんですねえ。
墓山古墳の周りをまわって
市役所の横に出てきます。
え~っと資料を見てみますと、
あれ?一つ古墳が抜けていますよ。
「野中古墳」にまだ行ってません。
羽曳野市役所の横、
羽曳野警察の横の道を
登っていきますと、
静かな住宅街に出ていきます。
う~んどの家も立派な家が
多いですねえ。
そんな家の合間に小山が見えています。
これが「野中古墳」です。
5世紀前半に墓山古墳の陪冢として
作られた方墳です。
資料ではここは登れる古墳と
書いてありましたが今は
フェンスなんかもあって、
中には入れそうですけど
遠慮しておきました。
ここの発掘では木箱が5つ出てきて、
その中には甲冑なんかも
あったそうです。
それにしても
ちょっとこの辺は入り組んでましたね。
整理しておくと大きな墓山古墳が
ひとつあり、その周りに陪冢として
この野中古墳、向墓山古墳、
浄元寺古墳があり、付属墓として
西馬塚古墳があったと
こうなるわけですねえ。
続く
この道標をすぎて
さらに南に進んでいきますと、
大きなため池がありました。
亀や鳥がたわむれているため池ですねえ。
奥の方に山が見えますが、
あれが古墳ですね。
「仁賢天皇陵古墳」です。
この天皇は第24代天皇です。
古墳築造は6世紀前半の頃なので、
世界遺産の古墳には入っていません。
もうこの6世紀前半頃となりますと
古市古墳群ではほぼ最終の頃の
古墳ということです。
そしてその向こうに羽曳野の
中央図書館がみえています。
ああ、この辺りにdoironが
以前住んでいたマンションがあります。
これですねえ。
当時はこの横に小さなため池があって、
その向こうに古墳がありましたが、
いまは全部公園になっています。
見晴らしもよく広い公園なので、
ちょうどここでお弁当にしましょう。
のんびりと食べます。
ああ、ここからよく見える二上山に、
あの頃はよく上ったなあ。
このマンションの屋上から
PL花火も見えていたなあ。
すこし遠くの方に外環の車の音、
背後からは笑い声や人の声と
何となく人々の暮らしを
感じるけどそれでもじわーっと
静かな感じが残っているのが
不思議な感じです。
古墳パワーかなあ。
それにしても結婚をしたときに
ここに住み、あれからもう37年。
地域の雰囲気も何となく
変わりましたねえ。
このあたりはイチジク畑が
広がっていたのですが、
いまはもう住宅だらけです。
この公園の横にあるのが
峯ヶ塚古墳です。
5世紀の末ごろに築造された
前方後円墳です。
ここでは内部の発掘調査が
行われており3500点もの
発掘がされているようです。
そんな調査から、ここは
大王クラスの人の墓だと
いわれていますが
はっきりとはしません。
ここもヤマトタケルの墓だ
という説もあるようです。
この辺りは「軽墓」といわれていました。
ヤマトタケル仮の墓が
なまってカルハカになった
という言い伝えが残っています。
そして今は「軽里」という
名前の地域になっています。
そもそも「羽曳野」は、
ヤマトタケルが没後白鳥になって
この辺りを羽を曳くように
飛び去ったということで
「南大阪市」から「羽曳野市」に
変わったというところです。
市の名前や地域の名前が
ヤマトタケルにちなんだ
そういうところなんだそうです。
没後、白鳥になって飛んだところから
この白鳥の名前の付いた古墳が
次の目的地「白鳥陵古墳」です。
峯ヶ塚とこの二つの古墳を
結ぶ古市駅に向かう道も
「白鳥通り」と名付けられています。
峯ヶ塚公園横の
「時とみどりの交流館」
(この日は休みでした)の横を通り、
交通量の非常に多い外環状道路も
こえていきます。
おおきなためいけの横の道ですねえ。
な、なんとここは日本最古の国道である
「竹内街道」なんですねえ。
ああ、ここもまだ歩いていない道です。
そのうちに出かけてこよう
と思っています。
昔働いていた松原市も通る道ですねえ。
その街道に沿って外環の
東側を進んでいきますと、
その白鳥陵古墳が見えてきます。
三重県能褒野でなくなった
ヤマトタケルは白鳥になって
飛んできて、この陵のあたりで
空へ飛び去ったといわれています。
なのでこの陵は宮内庁では
ヤマトタケル最後の墓
といわれていますが、
ヤマトタケルの生年の頃と
この古墳が築かれた5世紀後半では
年代的に100年ほどの
差があるようですから、
ヤマトタケルの墓には最初に行った
津堂城山古墳であるとか、
さっきの峯ヶ塚古墳であるとか
様々な説があるようです。
そしてさらにここは白鳥陵古墳と
陵の付く名前になっていますが、
陵は天皇の墓につけられる名前です。
しかしヤマトタケルは天皇にはなっていません。
それでも古墳に「陵」が付くのは、
まあ特別なことのようだと
様々な資料で言われているのです。
続く