梅雨時に入り、少々更新が滞っている当ブログですが、基本筆者くろこまは暑さに大変弱いため夏季には
寺社巡りはしないので、当然更新はこのありさまになるわけで・・・。でも遠出はしなくても地元舞鶴を
見直そう!ってことで、日焼け覚悟でこのところは舞鶴の延喜式内社巡りをしております。加佐郡内の
式内社は11社、そのうち舞鶴市内には10社が鎮座します。これを本日から順次あげていきたいと思います。
ではまず本日は舞鶴市女布に鎮座する日原神社から。
日原神社は城下町を流れる高野川の支流である女布川(にょおかわ)をたどって田園村落の軽自動車が
1台通れるのかも怪しい細い道の行き着く先にある。
【創建】朱鳥元年(668)または白鳳年間(650~654)
【ご祭神】天日腹大科度美神(あめのひはらおおしなどみのかみ)または日臣命(ひのおみのみこと)
※天日腹大科度美神→大国主神の子孫神 日臣命→大伴氏の遠祖神
【社格】延喜式内小社 従二位 村社
【境内】鳥居2柱 狛犬1対 灯籠1対および1基 手水舎 舞殿(籠屋)境内摂社4社1棟 拝殿 本殿など
【場所】舞鶴市女布日原
明治23年(1890)の石標に「延喜式内日原神社」とある。狛犬はこの石標より古いものと思えるが銘が不明。
二の鳥居である朱塗りの鳥居には幕末の文久元年に仁和寺宮から下賜された「日原宮」の額がかかる。
入母屋造りの拝殿がありその奥に本殿がある。拝殿脇の灯篭は倒壊防止のために木枠で囲まれているが、
文化五年戌辰六月(1808)の銘が確認できた。拝殿は明治末期に造営。
手水舎。水は枯れている。「打て.響け!女布大太鼓」の看板のある籠屋(舞殿)は明治13年に造られた。
境内摂社は四社一棟。向かって左から稲荷神社・大川神社・水無月神社・當勝神社を祀る。
本殿は安政5年(1858)の造営である。
さて、江戸時代に日原神社やその他の社の神輿の御旅所となった下森神社が同じ女布地区の、比較的開けた
住宅地の畑の中に鎮座する。石標には「延喜式内日原神社往古九社神輿御旅所」とある。
ご祭神は天日別神(あめのひわけのかみ)とされている。境内は管理が不充分なのか雑草が生い茂っていた。
<参拝メモ>
日原神社は西舞鶴駅前近くの自宅から距離にして3kmほどで自転車で行くと15分もかからない。
でも風景は一変して田んぼに囲まれた道に家が点々とある全くの田舎。こういう地区って消防団とか
地域の集まりで近隣は皆知ってる顔ばかりだろうから、よそ者が入っていくと絶対に怪しまれるだろう。
実際に農作業をしている人の視線も感じるし。だから一眼レフカメラをわざと肩からななめ掛けして、
「わたしはカメラ撮影をしにやってきてまーす」オーラを出して進む。
さて神社到着。もちろん誰もいない。こういう村の社は薄暗くてちょっと不気味だ。でもその不気味さより
くろこまが苦手なのが虫・蜘蛛の類・・・。 境内はうっそうとした森の中だからアブがぶんぶん飛んでるし、
蜘蛛もあちこち巣くってる。境内の写真とるのも虫にビビりながら…。日原神社の脇にさらに山奥に入る
細い道があったが、もちろんそこに侵入する勇気はなし。
写真にも写っているけど、鳥居ちかくの山壁づたいにボロい祭提灯が這わせてあるのがなんとも
もの哀しい。でも夏祭りが7月10日付近の土曜日にあるとか。そのときにあの「女布大太鼓」も披露される
のだろうか?行ってみたい気もあるけど、よそ者だから怪しまれるだろう・・・。
このあと行った御旅所の下森神社。こっちは住宅地の中にあるのだけれど、畑の真ん中にある。
さてこの畑のあぜ道は私有地なんだろうか?でも通らないといけないし。ここでも撮影ですよ!オーラを
出して自転車で進入。神社のすぐそばの畑で農作業をしているおばさんも視線も感じつつ、急いでお参り
して撮影をしてそそくさと退出したのでした。
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寺社巡りはしないので、当然更新はこのありさまになるわけで・・・。でも遠出はしなくても地元舞鶴を
見直そう!ってことで、日焼け覚悟でこのところは舞鶴の延喜式内社巡りをしております。加佐郡内の
式内社は11社、そのうち舞鶴市内には10社が鎮座します。これを本日から順次あげていきたいと思います。
ではまず本日は舞鶴市女布に鎮座する日原神社から。
日原神社は城下町を流れる高野川の支流である女布川(にょおかわ)をたどって田園村落の軽自動車が
1台通れるのかも怪しい細い道の行き着く先にある。
【創建】朱鳥元年(668)または白鳳年間(650~654)
【ご祭神】天日腹大科度美神(あめのひはらおおしなどみのかみ)または日臣命(ひのおみのみこと)
※天日腹大科度美神→大国主神の子孫神 日臣命→大伴氏の遠祖神
【社格】延喜式内小社 従二位 村社
【境内】鳥居2柱 狛犬1対 灯籠1対および1基 手水舎 舞殿(籠屋)境内摂社4社1棟 拝殿 本殿など
【場所】舞鶴市女布日原
明治23年(1890)の石標に「延喜式内日原神社」とある。狛犬はこの石標より古いものと思えるが銘が不明。
二の鳥居である朱塗りの鳥居には幕末の文久元年に仁和寺宮から下賜された「日原宮」の額がかかる。
入母屋造りの拝殿がありその奥に本殿がある。拝殿脇の灯篭は倒壊防止のために木枠で囲まれているが、
文化五年戌辰六月(1808)の銘が確認できた。拝殿は明治末期に造営。
手水舎。水は枯れている。「打て.響け!女布大太鼓」の看板のある籠屋(舞殿)は明治13年に造られた。
境内摂社は四社一棟。向かって左から稲荷神社・大川神社・水無月神社・當勝神社を祀る。
本殿は安政5年(1858)の造営である。
さて、江戸時代に日原神社やその他の社の神輿の御旅所となった下森神社が同じ女布地区の、比較的開けた
住宅地の畑の中に鎮座する。石標には「延喜式内日原神社往古九社神輿御旅所」とある。
ご祭神は天日別神(あめのひわけのかみ)とされている。境内は管理が不充分なのか雑草が生い茂っていた。
<参拝メモ>
日原神社は西舞鶴駅前近くの自宅から距離にして3kmほどで自転車で行くと15分もかからない。
でも風景は一変して田んぼに囲まれた道に家が点々とある全くの田舎。こういう地区って消防団とか
地域の集まりで近隣は皆知ってる顔ばかりだろうから、よそ者が入っていくと絶対に怪しまれるだろう。
実際に農作業をしている人の視線も感じるし。だから一眼レフカメラをわざと肩からななめ掛けして、
「わたしはカメラ撮影をしにやってきてまーす」オーラを出して進む。
さて神社到着。もちろん誰もいない。こういう村の社は薄暗くてちょっと不気味だ。でもその不気味さより
くろこまが苦手なのが虫・蜘蛛の類・・・。 境内はうっそうとした森の中だからアブがぶんぶん飛んでるし、
蜘蛛もあちこち巣くってる。境内の写真とるのも虫にビビりながら…。日原神社の脇にさらに山奥に入る
細い道があったが、もちろんそこに侵入する勇気はなし。
写真にも写っているけど、鳥居ちかくの山壁づたいにボロい祭提灯が這わせてあるのがなんとも
もの哀しい。でも夏祭りが7月10日付近の土曜日にあるとか。そのときにあの「女布大太鼓」も披露される
のだろうか?行ってみたい気もあるけど、よそ者だから怪しまれるだろう・・・。
このあと行った御旅所の下森神社。こっちは住宅地の中にあるのだけれど、畑の真ん中にある。
さてこの畑のあぜ道は私有地なんだろうか?でも通らないといけないし。ここでも撮影ですよ!オーラを
出して自転車で進入。神社のすぐそばの畑で農作業をしているおばさんも視線も感じつつ、急いでお参り
して撮影をしてそそくさと退出したのでした。
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