後期ゴシック彫刻・市民運動・演劇教育

小学校大学教師体験から演劇教育の実践と理論、憲法九条を活かす市民運動の現在、後期ゴシック彫刻の魅力について語る。

〔742〕第3回福田緑写真展「祈りの彫刻 リーメンシュナイダーと同時代の作家たち」を終え、「没後500年・リーメンシュナイダー展」開催の夢へ邁進します。

2024年11月10日 | 美術鑑賞

  2024年10月26日(土)から11月6日(水)まで、第3回福田緑写真展「祈りの彫刻 リーメンシュナイダーと同時代の作家たち」が、西武池袋線秋津駅徒歩1分のカフェギャラリー縁(えん)で開催されました。


 来場者は1,2回目のそれぞれ約500人に比べると、今回の210人はやや減少しましたが、その分ゆったりとした雰囲気の中で、丁寧で充実した交流がそこここで展開されました。来場者と私ども主催者の満足度はマックスと言って良いと思います。なんと3回も足を運んでくださった方、さらに2回という方も数人いらっしゃいました。

  写真展の充実感を日々感じるなかで、ある確固たる念いが大きく頭をもたげてきました。それは日本で「没後500年・リーメンシュナイダー展」を開催したいという願いです。
 常々緑はあと2回は写真展をやりたいと言っています。7年後の2031年、第5回写真展は、「リーメンシュナイダー没後500年」と銘打って開催したいということでした。
  私はもちろんそれには賛成なのですが、いっそのこと「没後500年・リーメンシュナイダー展」をどこかで開いてもらえないかと思いついたのです。たとえば、国立西洋美術館とか、東京芸術大学美術館とか、大それたことを思いつきで周囲の仲間に吹聴してみました。同時に第5回写真展を開催するというのがおもしろいのではないかと考えたのです。
  こうした考えを様々な来場者(美術館でボランティアをされている方、研究者、様々な美術愛好家、ルポライター、大学教授など)に打ち明けたところ、様々な反応、情報が伝わってきました。ひょっとしたらできるかも知れないと、いまは思い始めています。

  そこでまずは少し調べてみました。いままでにどれくらいリーメンシュナイダーの作品が日本に来ているかということです。見落とししている展覧会がありましたら教えて下さい。
 新たな目標が生まれて楽しくなってきました!

 

                  来日リーメンシュナイダー作品一覧

●デューラーとドイツ・ルネッサンス展(1972年、国立西洋美術館、京都国立近代美術館)
・クリスマスの情景、十字架のキリスト 2点

●ドイツ美術展 中世から近世へ(1984年、国立西洋美術館)
・三王の礼拝、テューリンゲンの聖エリーザベト、聖ラウレンティウスと聖ステファヌス(周辺作家)  3点

●大英博物館の至宝展(2003,2004年、東京都美術館など4館)
・東方三博士礼拝を表した木製祭壇彫刻 1点

●ベルリン国立美術館展(2012年、国立西洋美術館、九州国立博物館)
・聖母戴冠、奏楽天使、龍を退治する馬上のゲオルギウス 3点


〔741〕「久々に、新しい憲法チラシができましたので、お送りします。」(塚越敏雄さんより)

2024年11月10日 | メール・便り・ミニコミ

●おはようございます。久々に、新しい憲法チラシができましたので、お送りします。                     塚越敏雄

 

 


〔740〕清瀬市議・ふせ由女の「ゆめ通信」(40号、2024年秋号)は図書館を3分の1に減らす市の暴挙と、鎌田慧さんの講演「ハンセン病と私」特集です。

2024年11月07日 | メール・便り・ミニコミ

  内容は表題の通りですが、じっくり読んでください。
 図書館削減暴挙は現在進行形です。いずれ「反攻」の市民運動を報告したいと思います。


〔739〕「佐々木松雄さん追悼 「鶴島哀歌」のうたがながれる」〈矢部顕さんより〉

2024年10月31日 | メール・便り・ミニコミ

 ■福田三津夫様

 お米の収穫作業が終わったことを、このあたりの古老たちは「秋が終わった」と言います。
 わたしは、自分の秋が終わったら、11月は亀山城跡保存会の活動が忙しくなります。6年生への亀山城歴史講座、亀山城プレーパーク(冒険遊び場)開催、五次元キーボード演奏会<宇喜多家をめぐる歌物語>協賛準備、宇喜多家法要。ほかにも、五年生の学習田のお米の収穫作業やらで、そちらのほうが忙しくなります。 
 
 先回のメールで、9月1日にあった「青い鳥楽団」復活のニュースと資料をお送りしました。10月14日には、次のようなイベントがありました。(お米の収穫作業で忙しく参加できませんでしたが) 
 長崎のキリシタンが岡山県の無人島に強制隔離されて、はげしい労働とキリスト教の棄教を迫られ、何人かの人が亡くなりました。その人たちを追悼する集いです。 その島は、愛生園がある長島の近くにある鶴島という島です。長島のことは知っていても鶴島のことは多くの人は知りません。
 じつは、先にお送りしたメールの「青い鳥楽団」の楽長・近藤宏一さんが作詞作曲した「鶴島哀歌」という歌があるのです。10月14日、約170人の巡礼参加者は追悼のミサの後、全員で「鶴島哀歌」をうたったのです。
 先にお送りした資料のうち、1968年に行われた大阪での一般市民の前での「青い鳥楽団演奏会の当日パッフレットを見ると、そこでも「鶴島哀歌」が歌われていたのです。歌ったのは、近藤宏一さんを人生の師と仰ぐ佐々木松雄さんで、彼は愛生園にあった岡山県立邑久高校長島分校(新良田教室)の卒業生でした。 
 佐々木松雄さんがお亡くなりになった(2019年)お葬式の棺の中には、わたしは「青い鳥楽団」演奏会の当日パンフレットを納めたのですが、誰か知らない人が「鶴島哀歌」の歌詞を書いた紙を納めた人がいたのには驚きました。

●佐々木松雄さん追悼 「鶴島哀歌」のうたがながれる
●鶴島巡礼について取材報道された朝日新聞記事
                      を添付します。
 
                               矢部 顕


追悼佐々木松雄さん
            「鶴島哀歌」のうたがながれる
                       ―佐々木松雄さんと鶴島哀歌―
                                    
                                                                                
                                                                        矢部 顕
●鶴島哀歌 独唱 佐々木松雄
11月6日(2019年)、佐々木松雄さんが亡くなった。急性肺炎。享年73歳。新良田教室第6期生。
多磨全生園でのご葬儀に参列するという友人に頼んだ。青い鳥楽団演奏会「らいを聴く夕べ」のパンフレットを棺に納めてほしい、と。
葬儀後、友人からはていねいにもパンフレットを棺に入れた写真がメールで届いた。その写真にはパンフレットの他に、大きな活字が印字された白い紙が見てとれた。よく見ると詩が書かれているようだった。拡大してみると、なんとそれは「鶴島哀歌」の歌詞だった。「鶴島哀歌」の歌詞を棺に納めた人がいたのだ。
 愛生園盲人会の青い鳥楽団が、療養所内や病院内でなく、一般市民の前ではじめて演奏会をしたのは大阪城の近くの大阪厚生会館(現在は大阪府立青少年センター)大ホールで1968年6月のこと。交流(むすび)の家開所記念行事としてFIWC関西が主催して行われた。
 B5版20頁のこの当日パンフレットの演奏プログラムの頁のなかに「鶴島哀歌 独唱 佐々木松雄」とある。青い鳥楽団メンバー紹介の頁を見ると、「佐々木松雄(岩手県出身、新良田教室卒業、宮城県東北新生園より協力参加)」と記されている。この日のために東北新生園から大阪に駆けつけたことがうかがわれる。
 佐々木松雄さんは東北新生園で療養していたが、療養所で唯一の高校である新良田教室(岡山県立邑久高校の分校)に入学するために長島愛生園に転園した。その高校生の頃、青い鳥楽団楽長近藤宏一さんと出会う。近藤さんの高潔な人格に感銘を受け、その時から生涯の師として仰ぐようになった。近藤さんは詩人でもあった。
      盲目十年
  人間の
  ものを見るという不思議
  見えないという不思議
  これぞ まこと
  神の傑作・・・・
佐々木さんはこの詩が好きで高校時代いつも口ずさんでいたそうだ。
 近藤宏一さんがスイスでのウエルズリー・ベイリー賞(*)授賞式(2007年)に赴くときも、目の見えない近藤さんの手足となって案内した。その時の様子を『むすび便り』に原稿を依頼したのだが、出来上がった原稿は紙面に載せるにはあまりにも長かったので、エッセンスだけを抜粋して『むすび便り』(2007年12月)に掲載し、全体は『青い鳥楽団近藤宏一さんの授賞式随行記』として冊子として印刷発行した。(2008年)。
 長島愛生園でFIWC関西が実施しているように、多磨全生園の祭りのときFIWC関東はチンドン隊を編成して祭りを盛り上げた。夜の交流会で、チンドン隊に参加した若い人たちにむかって、チンドン隊の演奏曲「青い鳥行進曲」(青い鳥楽団のテーマソング)について語ったのは東北新生園から多磨全生園に移っていた佐々木松雄さんだった。若いころから、そして今も尊敬してやまない近藤宏一さんの作詞作曲のこの曲ができるまでの青い鳥楽団の歩みについての話だった。彼が近藤さんの話をはじめると、熱がこもってきてなかなか終わらない。話を聞いている若者の中に、ひとりの若くない者がいた。大阪での青い鳥楽団演奏会を主催したメンバーのひとりの私がいて、後で名乗り出たものだった。
そのころ私は東京に住まいしていたので、それ以来たびたび佐々木さんを訪ねて親交をむすんだ。病気で麻痺した手のリハビリで始めた陶芸の作品が家の内外に処狭しと置かれていたのを思い出す。

●殉教の島に歌がながれる
「むすび便り」の読者のみなさんは愛生園のある長島に行ったことのある人は多いと思うが、近くに鶴島という島があることをご存知だろうか?
長島の東5km、周囲2kmの小さな島で人は住んでいない。流刑地として明治初期の1870年、長崎の浦上地区の潜伏キリシタンがこの島に送られ、拷問の末に棄教を迫られ、死者もでた。江戸時代の弾圧だけでなく、明治政府誕生後もこんなことがあったことを初めて知った
岡山カトリック教会が主催する巡礼の旅は昨年50回を数え、岡山以外の県からもふくめて163人が参加した。なんと163人! この人数に驚いてしまった。
わたしが転居してきてから親しくしている近隣の友人がいる。その娘さん夫婦が最近近くに引っ越してきた。その若いご夫婦と話していて、彼らが巡礼に参加したことを聞いて、またびっくり。
この夫婦が日曜日に通っている岡山教会が作った『殉教地 鶴島』と題した小冊子によると、幕末にも、また明治になってからも、浦上地区の潜伏キリシタンに対する大弾圧があり、3394人が西日本の21藩に流刑者として預けられた
岡山に流された117人は牢獄に入れられた後、113人が島に送られ、貧しい食事と狭い住まいしか与えられず、開墾を強制され棄教を迫られた。激しい拷問で転ぶものが続出。その数は半数を超えたという。しかし死を通して信仰を守った人もいた。明治新政府が成立してもなおこのようなことがあったのは、神道国教主義を政府方針としてキリシタン弾圧を決定したからであった。その後、各国がまず我が国を責めたものはこのキリスト教弾圧政策であり、その解放であったと言われている。その結果、太政官布告により我が国で初めて宗教の自由が保障されたのは明治6年。鶴島の人々は、3年余の流刑から解放され、浦上に帰ることができた。鶴島に残る十二の魂は、結局我が国最後の殉教者となった訳である。
この巡礼に参加した人たちはキリシタン墓地と呼ばれる場所で、野外ミサを行った。配布された16頁のプリントにミサ式次第が詳しく書かれ、その中の1頁は「鶴島哀歌」の歌詞と音符が印刷されていた。ミサ終了後、「鶴島哀歌」を全員で合唱した。

瀬戸の渦潮 見下ろす丘に
石の十字架は 静かに眠る
流刑の鞭に 倒れし人の
悲しい祈りよ その声よ
ああ 鶴島に
今日も蜜柑の 花散るばかり
          
うつし世遠く 捨てし心に
秘めて指操る ロザリオひとつ
涙にぬれし 踏み絵の御母に
捧げし誓いよ その魂(たま)魂(たま)よ
ああ鶴島に
今日も海鳥 さえずるばかり
          
巡る砂浜 たたずむ小道
しのぶ歴史に かげろう燃える
永遠(とわ)永遠(とわ)の救いに 生命(いのち)生命(いのち)をかけた
せつない願いよ その歌よ
ああ鶴島に
今日もひそかに 夕凪せまる
            (作詞作曲・近藤宏一)
          
近藤さんがこの歌を作った動機が著作『ハーモニカの歌』に記されている。「他人事に思えなかった。縁もゆかりもない流刑の島に、ただ命をさえ捨ててもよいという運命と、ハンセン病によって一生を変えられ、やがて島の療養所の土に帰する私の生きざまとが、どこかで結びついているように思えた」。


  ――――――――――――
*The Leprosy Mission International(国際救らいミッション)<TLM>の創始者ウエルズリー・ベイリー氏を記念して、TLMが125周年を迎えた1999年に創設された。ハンセン病問題に対する勇気と成果、たぐい稀なる貢献をした人に贈られる。2007年には世界中から2名が選ばれ、スイスでの国際総会における特別歓迎会で授賞式が行われた。

(やべ あきら・岡山市在住)
1965年からFIWC関西に参加。青い鳥楽団演奏会(1968年)を主催した時のFIWC関西委員会委員長。NPO法人むすびの家理事。


〔738〕「九条守って世界に平和」(マスコミ・文化 九条の会 所沢)-素敵なミニコミが続きます。

2024年10月24日 | メール・便り・ミニコミ

  「九条守って世界に平和」(マスコミ・文化 九条の会 所沢)のバックナンバーをいただきました。最新が200号でしたが、ある筋からメールで201号が送られてきました。〈転送歓迎〉ということなので、紹介させていただきます。
 通常は8頁立ての隔月刊のようです。内容は多岐にわたっていますが、レベルが高く、じっくり読み込みたい記事ばかりです。
 著名人の執筆者も多いようですが、中嶋里美さん(所沢市)、植竹しげ子さん(清瀬市)など知り合いのお名前も見えて嬉しかったです。


◆映画「学校」の黒井先生
  (亡くなった西田敏行さんが日本アカデミー賞を受賞した役)

                               前川喜平(現代教育行政研究会代表)

 亡くなった西田敏行さんが日本アカデミー賞を受賞した役は、夜間中
学を描いた1993年の映画「学校」 (山田洋次監督)の黒井という教師の
役だった。
 この黒井先生のモデルは複数いる。
 塚原雄太氏は東京の夜間中学で1957年から20年以上教鞭(きょうべん)
をとり、夜間中学廃止の危機を乗り越えて夜間中学の教育を先導した人
物だ。
 毎年開かれている夜間中学の生徒のスピーチ大会は、塚原氏の詩の一
節からで「花咲け出愛(であい)」スピー チ大会と呼ばれている。

 見城慶和(けんじょうよしかず)氏は塚原氏の著書「夜間中学生」に感
銘を受けて1961年に夜間中学の教師になり、40年以上教えた。
 その様子は2003年のドキュメンタリー映画「こんばんは」(森康行監
督)に生き生きと描かれている。

 松崎運之助(みちのすけ)氏は1973年から30年以上夜間中学で教えた。
 映画の原作となった本の著者だ。田中邦衛さんが演じた「イノさん」
は、松崎氏が実際に教えた井上さんという生徒がモデルだ。
 夜間中学はこうした教師たちが作り上げてきた。文部科学省の主導で
作られた学校ではない。
 文科省は10年前に態度を改め、今では全国の教育委員会に夜間中学の
設置を促しているが、現場の教師が日々の実践から積み上げた学びのあ
り方を離れて夜間中学は作れない。
 単に昼間の中学校を夜に移したものではないのである。
              (10月20日「東京新聞」朝刊21面「本音のコラム」より)


 ◆世界終末90秒前

                       大矢英代(カリフォルニア州立大助教授)

  今年のノーベル平和賞が、全国の被爆者らでつくる日本原水爆被害者
団体協議会(被団協)に決まった。
 反核平和運動の最前線に立ってきた被爆者のみなさんに心からの敬意
と祝福を表したい。
 いま、私たちがやらねばならないのは、祝福ムードを盛り上げること
よりも、会見で委員らが語った「怒り心頭」の思いを受け止め、行動に
移すことであると思う。

 石破茂首相が言及した米国の核兵器を共同運用する「核共有及び核持
ち込み」について、田中煕巳代表委員は「論外」と切り捨てた。
 日本政府は 「共有だから保持ではない」という卑怯な口実で実質的核
保有国になりたがっている。
 被爆者への冒涜(ぼうとく)であり、犠牲者を二度殺すことと同じでは
ないか。いや、それ以上に、人類の危機を加速させるものである。

 1945年、広島・長崎への原爆投下への反省から創刊された米国の科学
雑誌「原子力科学者会報」は、表紙に世界終末時計を掲載する。
 毎年更新される時計は、今年、深夜0時の90秒前で止まっている。
 深夜をまわれば、核戦争によりこの世界は破滅し、人類は滅びる。
 その時は着実に迫っている。
 世界終末時計を止める方法は「核共有」などではない。
 ノーベル平和賞受賞を機に、まずは「核兵器は抑止力」などという愚
かな考えを日本政府に捨てさせねばならない。
              (10月21日「東京新聞」朝刊19面「本音のコラム」より)


〔737〕「キラキラ星通信」(無実の死刑囚・袴田巌さんを救う会)、「茨木のり子手帖」(茨木のり子の家を残したい会)、「現代女性文化研究所ニュース」(現代女性文化研究所)いずれも素敵なミニコミです。

2024年10月20日 | メール・便り・ミニコミ

 今読んでいる素敵なミニコミを紹介します。綺羅星のようなミニコミ群です。

 トップバッターは「キラキラ星通信」。東村山市の門間夫妻を中心に結成された無実の死刑囚・袴田巌さんを救う会が発行する通信です。本114号は14頁の冊子です。
 先日袴田巌さんの再審無罪が確定しました。
 私たちの清瀬・憲法九条を守る会や清瀬・くらしと平和の会では、袴田秀子さんや門間夫妻の話を聞いたりしてきました。署名を集めたり、様々な請願葉書を送ったり、カンパを集めたりもしてきました。無罪確定は本当に嬉しいことです。
  10月26日(土)「袴田秀子さんをお迎えして」の学習会がカトリック清瀬教会であります。

  「茨木のり子手帖」は茨木のり子の家を残したい会の季刊紙です。第21号(2024夏)は茨木のり子の詩や写真が満載の手作り感溢れる34頁の冊子です。編集代表は柳田由紀子さん、国分寺での第2回福田緑写真展に来ていただいて、初めてお話ができました。

 ラストバッターの現代女性文化研究所発行「現代女性文化研究所ニュース」は以前にもブログで紹介しました。本68号は24頁です。
  講座「いま大杉栄と伊藤野枝」(講師、鎌田慧)、講座「戦争の記憶-空襲体験を語る」(講師、向井承子)などの記録が掲載されています。ちょっとしたお出かけの読み物として最適です。


〔736〕「評価できる首相なんていません。逆に評価できない首相が3人までなんて少なすぎる!」(朝日新聞掲載)という意見に共感しきり。

2024年10月20日 | テレビ・ラジオ・新聞

 土曜日の朝日新聞に「be」という別紙が付いてきます。昨2024年10月19日(土)のランキング欄は「歴代首相、評価するのは?」でした。自分が同じ質問を受けたら誰も思い当たらないので途方に暮れたことでしょう。下掲のような声が紹介されていて、いたく共感した次第です。
「『まだまし』と仕方なく選んだだけで、評価できる首相なんていません。逆に評価できない首相が3人までなんて少なすぎる!」(静岡、52歳女性)

  それでもこんな人が選ばれていました。
1位、田中角栄 601票   
2位、小泉純一郎 547票
3位、伊藤博文 440票
4位、吉田茂 408票
5位、村山富市 273票

   ちなみに「評価が低い歴代首相」のランキングは以下の通りです。
1位、安倍晋三 1114票
2位、森喜朗 714票
3位、東条英機 597票


〔735〕『言葉果つるところ』〈新版〉(石牟礼道子・鶴見和子、藤原書店)を読んでみようかと思っています。

2024年10月19日 | 図書案内

   朝日新聞の朝刊1面に鷲田清一さんの「折々のことば」というコラムがあります。図書や新聞などの一部を紹介し、コメントすることが多いようです。「天声人語」の前後に目を通すのが習慣になっています。
 なぜか、ここ数日は『言葉果つるところ』〈新版〉(石牟礼道子・鶴見和子、藤原書店)が連続して取り上げられています。宣伝になってはまずいと判断しているのでしょうか、出版社名は書かれていません。

 以前にもこのブログで紹介しましたが、藤原書店の「機」という宣伝誌が充実しています。32頁の小冊子ながら内容が実に濃いのです。
 2024年9月号(390号)の巻頭と最終頁を紹介します。5頁にわたって『言葉果つるところ』の対談の1部と推薦文が掲載されています。「折々のことば」と重ね合わせながら再読しているところです。


〔734〕第3回福田緑写真展「祈りの彫刻 リーメンシュナイダーと同時代の作家たち」がアサココに紹介されました。

2024年10月18日 | テレビ・ラジオ・新聞

   アサココは第1・第3木曜日に多摩地区(町田市と稲城市は除く)に配布される朝日新聞と一緒に届けられる多摩地区のタウン紙です。8頁の決して大きくはない新聞ですが、私たちに多くの有益な情報をもたらしてくれます。全体的にはリベラルな傾向に心落ち着きます。
  前回の第2回写真展(国分寺、司画廊)の時にも一面に大きく取りあげてくれました。アサココを読んだという読者数人が、開館前にいらしていたということを鮮明に覚えています。
  今回も編集長の長田米子さんが我が家に来てくださって、緑にインタビューをしてくれました。読みやすい記事に纏めてくれました。感謝です。

■アサココのサイトです。クリックすると記事が実に鮮明に見ることができます。

http://asacoco.jp/wp-content/uploads/2024/10/2024_1017_286_01.pdf


〔733〕大どんでん返し、市内の公共施設に写真展のチラシ陳列がほぼ許可されました。

2024年10月18日 | 市民運動

  妻が中里地域市民センターに写真集のチラシを置いてほしいと話したところ、拒否されたということを以下のブログに書きました。

●ブログ〔728〕初めてのことです。なんと、写真展「祈りの彫刻 リーメンシュナイダーと同時代の作家たち」のチラシが公共施設に置けなくなりました。

  ところがところが、なんと大逆転、清瀬市内の公共施設ほぼすべてに置けることになったのです。その顛末を記録しておきましょう。
  10月14日(月)、清瀬けやきホールで清瀬・憲法九条を守る会と清瀬・くらしと平和の会の合同会議がありました。終了後、エントランスのチラシ置き場を見回すと、そこには清瀬市以外の様々な催し物(コンサートや演芸など)のチラシが置いてありました。そこで、写真展のチラシを置いてもらえないのか頼んだところ、快く受け取ってもらえました。
  ならばということで、再び中里地域市民センターで今度は妻と2人で再交渉です。今回は館長が対応しました。チラシ陳列は清瀬市の公立施設を利用する催し物に限るというので、ここに置かれている八王子市の東京富士美術館のチラシはどうなのかと問うたのです。東京富士美術館は創価学会・公明党と繋がりの有る美術館として周知の事実です。このあたりから館長のことばのトーンが変わってきたのを感じました。そして、あっさり、チラシ受け取りを承諾したのです。

 気をよくして野塩地域市民センター 、松山地域市民センター、下宿地域市民センターに車で回ったところ、こちらもあっさりとチラシを置かしてくれました。氏名と連絡先を用紙に記入するだけでした。
 児童センターころぽっくる、コミュニティプラザひまわりもオーケーでした。
 そしてさらに市役所ではこの手のチラシは置かないが、地域の公共施設に掛け合ってくれということでした。不可解なのは中清戸地域市民センターでした。私は車番で、妻だけで交渉した時は煮え切らない態度で、再度2人で出向くことになりました。市役所から近くて、議員などが会議などで訪れることが多いので、難しいというのです。これはまったく意味不明です。春頃に、やはり市内の公立施設の催し物しかチラシは置けないという通達があったというのです。市役所との言い分の違いに唖然とするばかりでした。

  地元清瀬での無料の写真展に一人でも多く来てほしいという願いで市内を回遊してみたことで、清瀬市の文化に対する考えが透けて見えてきました。市長はじめ市の管理職と現場で働く人たちの思いのズレなども感じました。今は市民の様々な文化要求に応える市政であってほしいと願うばかりです。


〔732〕「伊勢大神楽」という国指定重要無形民俗文化財があるのはご存知でしょうか?(矢部顕さんのメール)

2024年10月15日 | メール・便り・ミニコミ

 矢部顕さんから以下のようなメールが届きました。岡山県の「伊勢大神楽」という国指定重要無形民俗文化財についての情報です。懐かしい日本の原風景とでも言えるものでしょうか。


    「伊勢大神楽」という国指定重要無形民俗文化財
        があるのはご存知でしょうか?


 毎年9月16日、朝、川向うの隣の村から笛の音が聞こえてくると、やがて獅子舞の一行が橋を渡ってわが村に入って来るのが見えます。
 100年もそれ以上の昔から、毎年毎年、獅子舞が来るのは9月16日と決まっているのです。
 この日は、沼村のすべての家庭を1軒1軒訪ねて、それぞれの家の玄関で獅子が舞い、お祓いをしてまわり、御神札を配布していきます。
 午後には、村の鎮守のお宮の境内で、総舞という芸能、舞や踊りや漫才や曲芸などを見せてくれます。
 わたしが子どもの頃(高度経済成長の前)には、村中の老若男女が1年に1回の楽しみで大勢の人たちがお宮に集まりました。昔から変わらない、まさに村の原風景ともいえるものでした。
 我が家にくるこの獅子舞の講社の人たちは、滋賀、和歌山、三重、大阪、岡山と、ほとんど1年中旅から旅へと歩き続け、獅子舞を各地に届けるのです。

下記をクリックすると動画を見ることが出来ます。
https://www.youtube.com/channel/UCrwvf2XYVCEZdykEIFPiPJg
伊勢大神楽講社【公式】旅する獅子


谷川雁がこだわった「村」がここにある気分になります。
                           矢部 顕


〔731〕「とこ地区まちかど保健室」のお知らせが正嘉昭さんから届きました。

2024年10月13日 | 語り・演劇・音楽

 こんなチラシが正嘉昭さんから届きました。随分前に秋津駅近くで会ったことがあるのですが、お元気のようです。


〔730〕復活「青い鳥楽団」―近藤宏一さん作詞作曲の楽曲のCD化―〔矢部顕さんのメールより〕

2024年10月12日 | メール・便り・ミニコミ

 久しぶりの矢部顕さんのメールです。じっくり目を通してください。

●福田三津夫様
 いつ終わるともしれない酷暑の夏でしたが、すっかり秋らしくなってきました。
ご無沙汰していますが、お元気でお過ごしでしたでしょうか。私のほうは、9月にブドウの収穫、10月のお米の収穫、と1年中で一番忙しい季節です。

 さて、―交流(むすび)の家の活動も息の長い活動ですねーと言ってくださった方がいますが、その長い活動を思い出す出来事が9月1日にありました。
 
 それに関しての、資料を送ります。
◇9月1日のイベントの新聞記事

◇そのイベントに関しての小生の文章 復活「青い鳥楽団」(下掲)
◇らいを聴く夕べ ・青い鳥楽団演奏と講演 当日パンフレット(B5版20頁)
   表紙、1頁、2頁のみコピーを送ります。(ほんとは20頁全部送りたいのですが)
   <2頁のごあいさつの文章はすばらしい文章で、とても私などが書けるものではありません。山上憲一という仲間で友人のものです>

   
 先月の2024年9月1日と、1968年6月24日の出来事です。                     矢部 顕


                復活「青い鳥楽団」
                    ―近藤宏一さん作詞作曲の楽曲のCD化―
                                        
 長島愛生園にかつてあったハーモニカバンド「青い鳥楽団」が再発見され、楽長・近藤宏一さんが作詞作曲した楽曲がCDとして復活されようとしている。
 2024年9月1日、CD化に向けて、ボランティアの人たち20人くらいが集まって合唱し録音が行われた。録音は、青い鳥楽団の代表曲「あおいとり行進曲」。録音会場は愛生園の愛生会館。呼びかけ人は、NHK連続テレビ小説の主題歌や舞台音楽で人気の作曲家・阿部海太郎さん。
 参加したのは、歌のプロではなく、かつて愛生園に「青い鳥楽団」があったことを知り興味を持った人たち。参加者の自己紹介を聞いていると、若い人が多く、「青い鳥楽団」が活動していた時のことを知っている人はいない。呼びかけ人の阿部海太郎さんも然りである。「青い鳥楽団」は1953年に結成され、1978年の解散まで園内外で公演を重ねた。活動を停止してから45年にもなるのだから、当然のことだろう。
 ただ一人を除いて。その人とはわたくしである。
 らい快復者社会復帰セミナーセンター交流(むすび)の家を4年の歳月をかけて素人の手で建設したワークキャンプ団体のフレンズ国際労働キャンプ(FIWC)関西のメンバーだった。
 交流(むすび)の家の竣工後、開所記念行事として<「『らい』を聴く夕べ」・青い鳥楽団演奏と講演>を開催した。1968年6月24日のことだった。
 この演奏会は、愛生園盲人会「青い鳥楽団」が療養所や病院ではなく、一般市民の前で公演した初めての試みだった。大阪城に近い大阪府厚生会館大ホール(現在名・大阪府青少年センター)の聴衆は一般市民であふれたことは特筆されるべきことであった。強制隔離を定めた「らい予防法」が廃止(1996年)されるよりも、はるか昔の28年前のことであった。
 演奏会当日のパンフレット(B5版20頁)が残っていて、近藤宏一さんのお葬式(2009年10月5日)の通夜のとき棺に入れさせていただいた。納めようとしたとき、近藤さんと縁の深い参列者の方々がそれを見てビックリされ、「コピーをさせてほしい」と懇願されたことを覚えている。
 長島愛生園の夏祭りを盛り上げようと、毎年、FIWC関西はチンドン隊を編成して、園内を練り歩いた。チンドン隊のメインテーマ曲は「あおいとり行進曲」。作曲者の近藤宏一さんとは、毎夏、亡くなられる前年まで指導を仰ぎ交流を深めた。チンドン隊の活動は、コロナ禍で夏祭りが中止になるまで24年間にわたって続けられた。
 「青い鳥楽団」とFIWC関西は、1968年から始まって2021年までの長きにわたるお付き合いだった。
  「青い鳥楽団」を知らない世代が、阿部海太郎さんの再発見をきっかけに、病気で強制隔離された苦悩さらに目の不自由という絶望的な状況から、音楽に光を見出して生きがいとして歩んできた歴史を知ろうとしている姿を見て、私が嬉しくなってしまっている。 
                                                                      2024.9.20.
                                                                        矢部 顕


〔729〕お待たせしました。塚越敏雄さんからの新しい腰越九条ニュースです。

2024年10月10日 | メール・便り・ミニコミ

 神奈川県腰越で地道に反権力、護憲の闘いを続ける塚越敏雄さんから腰越九条ニュースが届きました。鎌田慧さん、前川喜平さんのコラムと共にお読みください。

■鎌倉の塚越です。
9条ニュースができましたのでお送りします。
今回は総選挙が迫っているので、それに関連して書いてみました。

                    塚越敏雄

 ◆原発は災難つづき まるで転落の始まり  沈思実行(209)

                                      鎌田 慧(ルポライター)

 原発は災難つづき。まるで転落の始まりの様相である。福島(第一)
原発のメルトダウン事故から13年たっても、溶けだした核燃料棒はいま
だ圧力容器を破って、格納容器の底で凝固したまま。猛毒デブリと
なって高濃度の放射線を放っている。
 8月下旬、2号炉のデブリを採取する作業に入った。といってもた
かだか3mg度を試験的に回収するだけだった。
 ところが、伸縮式のパイプをつなぐ順番をまちがっていた、というこ
とでご破算、延期となった。
 そばにいるだけでも致命的というほどのデブリの量は、880トン以上と
推定されている。廃炉作業の入口で、あえなくダウン。さらにデブリ量
の多い3号機、それに1号機も順番待ちの状態だ。
 廃炉作業は30年から40年がかかる、といわれている。それさえうま
くいくかどうか、わからない。たとえ、それがうまく行ったにしても、
取り出したデブリをどうするか、それも未定だ。
 岸田文雄首相の無知、無謀な「原発回帰」政策にもかかわらず、各
地の原発の再稼働はなかなか進まない。
 東海第二原発は、防波堤工事がいかにいい加減だったか、工事関係者
からの内部告発があってから1年。今のところ再稼働の見通しはない。
 それに追い討ちをかけたのが、8月上旬の福井県敦賀2号炉の「再
稼働不許可」。
 原子力規制委は原子炉直下に活断層があるとして、再稼働を認めな
かった。
 これで日本原電の敦賀原発は全滅。残るは東海第二だけだが、先行き
の経営は困難になろう。
 いまのところ、全国の原発27基が再稼働を申請している。かつて建
設された約半分になったが、このうち、再稼働したのが12基だけだ。
 ところが、その使用済み燃料の処分施設としての六カ所村(青森県)
の再処理工場は、27回目の延期宣言がされた。
 建設開始から31年。こんどは本当だ、こんどは本当だ、との狼少年。
 その完成を誰も信じていない。
 それぞれの原発が、自分の構内に「乾式貯蔵」となりそうだ。
 危険物を他所にやる、という自分勝手が、ブーメランのように返って
くる。           (9月11日「週刊新社会」第1370号より)

 ◆  証拠捏造(ねつぞう)の袴田事件
  証拠は「捜査機関(注)による偽造の疑い」(判決文)
               沈思実行(210)
                                 鎌田 慧(ルポライター)

 今月26日、静岡地裁は、死刑囚・袴田巖さんの再審判決で、無罪判決
を出す。それにはまちがいはない。
 しかし、問題なのは、検察側が抗告しないかどうかだ。
 10年前の2014年3月、静岡地裁は再審開始決定を出した。
 が、検察側が抗告して、東京高裁が再審決定を取り消した。そのため、
10年間も無罪判決が引き延ばされてきた。
 それでも、袴田さんは「これ以上、拘置を続けるのは耐え難いほど正義
に反する」との村山浩昭裁判長の英断によって、即時釈放となった。

 47年ぶりに姉ひで子さんと暮らせるようになった。判決文に、証拠は
「捜査機関による捏造の疑い」があると断じている。袴田さんは無実の
「死刑囚」として、巷(ちまた)の人たちに見守られながら街を闊歩
している。不思議だ。
 事件発生は1969年6月。清水市(現静岡市)で発生した「味噌工場」
専務一家4人の殺人と放火事件だった。その容疑者として従業員の袴田
さんが逮捕されて、すでに58年2ヶ月がたった。

 最高裁で死刑が確定してから袴田さんは、まるで死刑執行の恐怖
から逃れるように、意識が世間から乖離して夢の中にいるようだ。
 村山裁判長によって、「偽造」と判断された証拠とは。味噌タンクの
中に隠されていた、5点の衣類である。
 最初の「証拠」は袴田さんのパジャマだった。
 ところが、それには4人を刺殺したにしては、血痕の付着がなかった。
 それで後から「証拠」とされたのが下着など5点の衣類だった。

 しかし、それらは1年以上も味噌に漬けられていたというにしては、
血液の赤みが残っている、というものだった。本来なら、酸化して黒ず
むはずである。
 そればかりか、袴田真犯人を証明するために出してきたのが、味噌漬
けになっていた半ズボンの「とも布」である。袴田さんの実家から押収
した生地と同一のものだ、と鑑定された。
 しかし、その「とも布」も家宅捜査の時に警察官がもちこんだ
ものだった。
             (9月18日「週刊新社会」第1371号より)
   (注):「捜査機関」とは、警察と検察を指す。

◆客観報道の罪
  捏造による死刑判決は殺人罪にも匹敵する

                                鎌田 慧(ルポライター)

 再審無罪判決のあと「東京新聞は」との主語で、毎日新聞は編集局長
名で、袴田巌さんへ「おわびします」と文章を発表した。筆者が知る限
り再審報道で初めてだ。
 一家4人殺害や放火。この大事件の報道は連日マスコミで続けられた。
 担当した地裁裁判官が、無実の心証をもちながらも容疑者を犯人視す
るマスコミの影響力を挙げ、死刑の判決文を書いた、と告白する悲劇も
あった。
 誤報と司法とが1人の人間の一生を破壊した。

 読売新聞は謝罪しなかったが、1面中央に社会部長名で「検察は控訴
断念を」と主張した。58年も費やされた冤罪の証明のあと、いま最大の
不安は検察側が冷酷無謀な控訴に持ち込まないかだ。

 ところが謝罪のなかった朝日新聞は、10年前に再審開始を決定した村
山浩昭元裁判長の、今回判決の「捜査機関の捏造」説を支持する
コメントに対置し「今回の事件は自白を除いても、有罪方向の証拠がた
くさんある…上級審の判断を仰ぐべきではないか」「控訴をする可能性
は十分考えられる」(元最高検次長検事・伊藤鉄男氏)と後輩を激励さ
せている。

 捜査機関の発表記事に対する、冤罪被害者の無実を叫ぶ声が取り上げ
られることはない。
 捏造による死刑判決は殺人罪にも匹敵する。
 その加害者の「控訴の可能性」を示唆する両論併記は、あまりにも
権力寄りだ。  (10月1日「東京新聞」朝刊17面「本音のコラム」より)

◆石破茂氏の国賦人権説

                              前川喜平(現代教育行政研究会代表)

 2013年ごろ、文部科学省の官房長として自民党の石破茂幹事長に何か
を説明に行った際、石破氏が日本の憲法では天賦人権説を採るべきでな
いと語るのを聞いて驚いたのを覚えている。
 天賦人権説とは、人権はすべての人が人であるがゆえに生まれながら
に当然に有する権利だという思想だ。
 これは世界人権宣言や国際人権規約の基本的な思想だ。

 ところが、それは日本には当てはまらないという。
 日本において人権とは、国が国民に与える権利だというのだ。
 確かに、2012年4月の自民党「憲法改正草案」の「Q&A」には、国
民の権利は、共同体の歴史、伝統、文化の中で生成されてきたものだか
ら、現行憲法の天賦人権説に基づく規定は改める必要があると書いて
ある。
 この「国賦人権説」によれば、国民ではない外国人には人権がないこ
とになる。また、国の都合で「公益」や「公の秩序」を理由に人権を制
限することも許される。

 さらに国は国民に人権を与えると同時に義務も課す。
 国民の人権と義務は表裏一体なので、義務を果たさない国民は人権を
主張できない。国民の最大の義務は国を守る義務だ。
 国が戦争を始めたら、国民は戦場で戦わねばならぬ。それが人権の代
償だ。
 石破首相が目指す改憲は、こんな人権観に依拠する、危険極まりない
ものなのである。(10月6日「東京新聞」朝刊17面「本音のコラム」より)

◆人を大事にする司法へ
                              鎌田 慧(ルポライター)

 静岡地裁の「袴田事件」再審無罪判決に対し検察側が控訴するかどう
か、期日が明後日に迫った。検察は無実の人間を44年間も死刑囚として
きた。誤りを率直に認め、同じ過ちを犯さないための教訓とすべきで
あろう。
 いくつかの冤罪(えんざい)事件があった。
 いまも無実を訴える声が続いている。警察や検察が逮捕した容疑者か
ら自供をとるまで勾留する「人質司法」が、まだ罷(まか)り通っている。

 大阪のプレサンスコーポレーションの「業務上横領事件」では、検察
官が「検察なめんなよ」「ふざけるな」と机を叩いたと、民事事件でも
訴えられている。特別公務員暴行陵虐罪で刑事裁判がはじまる。
 取り調べの可視化や弁護人の積極的な関与がさらに必要だ。

 袴田事件は静岡地裁の再審開始決定から、10年もたってようやく無罪
判決となった。検察側が即時抗告して審理が長引いたからだ。これから
の課題は、検察官の不服申し立てなどを規制する再審法の改正である。

 もうひとつは、長い間、冤罪を主張している事件の早期解決だ。
 鹿児島県の大崎事件は3度も再審開始が決定されてなお、検察側が抗
告して裁判が始まらず、97歳の原口アヤ子さんは病床に伏して無罪判決
を待っている。
 狭山事件の石川一雄さんは85歳。脅迫状が最大の証拠とされたが、当
時、非識字者の石川さんにはとても書けない文章だった。
         (10月8日「東京新聞」朝刊「本音のコラム」より)


〔728〕初めてのことです。なんと、写真展「祈りの彫刻 リーメンシュナイダーと同時代の作家たち」のチラシが公共施設に置けなくなりました。

2024年09月30日 | 市民運動

   数日前のことです。
 10月26日(土)から始まる、福田緑写真展「祈りの彫刻 リーメンシュナイダーと同時代の作家たち」のチラシを清瀬市内の公共施設に置いてもらおうと車で出かけました。今回で3回目の写真展なので我々も手慣れたものです。10箇所ほどの施設をどう回るのか家で「作戦」を練りました。今年は清瀬市の野塩で開催するので、市内の3つの大学にも置いてもらおうかということも話していました。
  最初に向かったのは我が家から近い中里地域市民センターでした。車の運転は私で、チラシを持参しての交渉係は緑でした。
  車に戻ってきた緑が血相を変えています。市長が替わってチラシが置けなくなったというのです。入場無料の写真展のお知らせです。唖然とするだけでした。そして猛然と怒りが沸いてきました。

 澁谷桂司市長になって、図書館6館のうち4館が閉鎖されます。市が所有していた立科の宿泊施設も閉鎖です。そこを利用していた小学5年生の移動教室はなくなりました。学校プールも廃止、市民に開放していた体育館の使用料が来年から1時間850円になります。消費生活センターもアミューに統合するなど、信じられない市民無視の市政が続いています。今までブログに書いてきたとおりです。

 さすがに連れ合いも怒り心頭、ブログに次のように書きました。
 さて、どうしてくれよう。

https://blog.goo.ne.jp/riemenschneider_nachfolgerin

▶驚きました…。

リーメンシュナイダーを歩く 

リーメンシュナイダーを歩く 

ドイツ後期ゴシックの彫刻家リーメンシュナイダーたちの作品を訪ねて歩いた記録をドイツの友人との交流を交えて書いていく。【リーメンシュナイダーを歩く 】

goo blog

 

▶夢にも疑わないことが起こりました。

 台風16号が近づいているという天気予報で、今日、9月26日の内に清瀬市内の公共施設に写真展のチラシを置いてもらいに回ることにしました。写真展までちょうど一ヶ月なのです。
 写真展は今回が3回目ですが、今まで一度もチラシを拒否されたことはなく、20枚、30枚と置いてくることができました。受け取った事務の方が「わぁ、きれい!」と叫んでくださったこともありました。ここ清瀬市は、緑が多く、自然にめぐまれており、こうした温かな人柄に触れることも度々でしたので、引っ越してきて良かったと思っていました。住み始めてもう43年目になります。

 ところが最初の地域市民センターで受け付けにいた女性は私の写真展チラシを手に取ると困った顔で同僚の所に持っていって相談し始めました。「あら、どうしたんだろう?」と思っていますと上司らしき方が来て「個人のこうした催し物のチラシは置けなくなったんですよ」と言います。驚いてしまって、「でも今回は3回目ですが、今まではどこでも置いてくださったんですが」と答えると、「市内の施設で開催するものに関するチラシはおくことができるのですが、2年ほど前からこうした個人の展示などは無料であっても置いてはいけないことになりまして、申し訳ありません。」とのこと。驚くと同時に「ここまできたか」と思いました。

 振り返ってみると、前市長の急逝後の選挙で渋谷桂司市長になってから市議会の雰囲気もガラッと変わりました。今年の3月には市内に6館あった図書館がいきなり2館に減らされるという議案がでてきたのでした。しかも一部の議員には直前まで全く知らされずです。こうした議会の陰険な進め方には驚きを通り越して怒り心頭。その前後の市報を見てもどこにも「図書館を6館から2館に減らします」ということばは見あたらないのです。「家庭が図書館になります」とか、「地域市民センター内の図書館がサロンになります」とか、「日本で初めて無料宅配サービスで本を借りたり返したりできます」とか、いかにも図書館が利用しやすくなるというイメージを振りまきながら、事実をきちんと伝える文章は見つけられません。市民の多くはまだ図書館が6館から2館に減らされるという事実を知らないままのようです。


 そして今日は、私の写真展のような無料の文化行事のチラシさえ置けないと言われてしまったのでした。年々文化度が低くなっていく清瀬市に暗澹とした気持ちになりました。木々も伐採され、緑もずいぶん減ったようです。大好きだった清瀬が遠のいていくのは寂しい限りです。できる範囲で行動していかなければと改めて思った出来事でした。

 トップ写真のペンタスは7月に買った花ですが、今でもこうして可憐な花を咲かせてくれています。心痛む日々、このような花を見ると少し気持ちが和らぎます。爽やかなままの清瀬であり続けて欲しいと心から思います。