後期ゴシック彫刻・市民運動・演劇教育

小学校大学教師体験から演劇教育の実践と理論、憲法九条を活かす市民運動の現在、後期ゴシック彫刻の魅力について語る。

〔70〕祝!劇団ひこばえ通信100号。でも「廃刊」とは惜しいです。

2016年01月29日 | ラボ教育センターなど
  横浜の村上芳信さんが発行する劇団ひこばえ通信100号が送られてきました。A4版で28ページ立ての写真も多数入った十分読みでのあるものです。私たち夫婦のミニコミ「啓」よりも一足早く100号に到達しました。100号とは目出度いことですが、これをもって「廃刊」と書かれています。今は残念な思いが募ります。
  *劇団ひこばえ通信90号についてはブログ〔19〕を参照してください。
  気を取り直して、内容(目次)を紹介しましょう。

●劇団ひこばえ通信100号
1 第14回横浜市中学校発表会(2015,12,17 緑区民文化センター)
   山内中学校演劇部発表  作 岡村日向「銃後の乙女と呼ばれて」報告
   「よみがえった戦時下勤労動員学徒少女たちと演劇教育の良心」
   「銃後の乙女と呼ばれて」ひこばえ親子きょういく塾 観劇感想
2 劇団ひこばえ通信100号記念特集 「教育と演劇と地域との交差点!」
  メッセージ 齋藤眞廣 サトウマコト 篠原睦洽 白井沙緒里 柴田松弥 中山のり  子 入江勝通 大溝アキラ
3 劇団ひこば支通信100号記念特集
  特集1「わたしの教育実践から「ゆとり教育」と「演劇教育」を省みて」
  特集2「教育課程の中にドラマをもうひとつの教科として増やそう」
4 社会を変える脱原発達勤の可能性を見た!小熊英二監督 映画「首相官邸の前で」
  プ・ジョン監督 韓国映画 「明日(あした)へ」
5 わたしの方丈記⑨ 今年も鎌倉にて2015年を締めくくる(東慶寺高見順墓にて)
6 わたしの方丈紀(編集後記)
    発行 2016年1月23日 よこはま演劇教育事務所

 どれも読み応えある記事なのですが、私にとってはとりわけ〔特集1「わたしの教育実践から「ゆとり教育」と「演劇教育」を省みて〕が興味深かったです。村上さんは次のように書き出されています。

●ひこぱえ15周年・100号記念特集1 わたしの教育実践
 「ゆとり教育」と「演劇教育」でのわたしの教育実践覚書
  福田三津夫さんが発行されている「啓91号」において、亡くなられた村田栄一さんを追悼されて「村田栄一論」を掲載されておられました。それを拝見してわたしは村田栄一さんへの惜別として、「劇団ひこばえ通信77号」に「国民教育論批判から、国民教育そのものの根底的批判へ」を村田栄一さんへの惜別として掲載しました。
 これにたいして福田さんから「私が興味があるのは、村上さんが横浜学校労働者組合で教育運動と同時並行で展開された教室での実践です。そこからさらに演劇教育への発展を…まとめてほしい」とのご教示をいただきました。
 そこで「劇団ひこばえ通信100号」記念特集において、わたしが教員であった1966年4月1日から2004年3月31日(再任用教員の1年間を含む)まで、そのほとんどが横浜の中学生によるホームレス連続殺傷事件に代表されるように〈子どもの変容〉が厳しい横浜の中学校現場で苦闘しながら、子どもとのかかわりをどうつくっていったのか、そしてそのかかわりをもとにどのような教育をつくろうとしたのか。私がつくってきた演劇教育とどうつながっているのか。それらについて、わたしが赴任した中学校ごとに「覚書」としてまとめたものです。

 有り難いことに、この文章のきっかけが私のメールだというのです。しかし、それに真摯に応えてくださった村上さんに頭が下がる思いです。この力作のアウトラインだけでも読者の皆様と共有したいと思います。

  村上さんは1966年、戸塚区の横浜市立中学校教員として教職をスタートさせます。学級での教育実践は、全国生活指導研究協議会の集団主義教育による「討議づくり」「核づくり」「班づくり」の学級づくりでした。集団主義的教育、学級集団づくりともいわれるこうした実践は私自身もかじった経験があります。
 ここで村上さんが力を注いだのが、「生徒会活動の活性化をめざして、学校行事・特活で『生徒会が創る文化祭』つくり」でした。
 1971年、村上さんは神奈川区の中学校に転勤します。この時期、子どもたちの荒れが社会問題になり、1982年横浜の中学生によるホームレス連続殺傷事件が起こります。集団主義的教育、学級集団づくりでもこうした子どもたちには対応できなくなったと言います。子どもの変容を前にして村上さんがとった方法は、学校の外に子どもたちの「たまり場」をつくったことです。相談員や弁護士とのネットワークを独自につくり、子どもたちの世話を徹底してやったと言います。
  この頃村上さんは、新組合をつくって教育労働運動に力を注ぎます。まさに教育労働運動と教育実践が活動の車の両輪になっていきました。
  1984年、村上さんは緑区の中学に赴任し、組合専従から教職に復帰します。
  ここで取り組んだのが「作者と語り合う読書会つくり」です。さらに、「障害児を普通学級で学ぶことを希望する保護者(団体)の要求を受けいれ、共生教育に取り組んだ」と言います。
 そして1993年、教職最後の青葉区の中学に50代で転勤します。ここでほぼ偶然的に演劇部の顧問を引き受け、演劇教育を強く意識されたようです。総合学習や「平和・人権を演劇表現で地域に結んでいく」実践などは演劇的教育実践と呼べるものでしょう。

 ごく簡単に村上原稿をなぞってきて今思うことは、凄い教育実践家だということです。通信を頂いてのとりあえずの返信メールには、劇団ひこばえ通信100号までの蓄積と「演劇と教育」に数回連載された文章をもとに、本でもブックレットでも良いのですが、教育実践記録をまとめてほしいということでした。通信を読んでない人にも是非この実践を届けてほしいと思ったのです。
 劇団ひこばえ通信100号まで、ナイス・ファイトでした。