逆順でたどる平安京の天皇たち
96代 後醍醐天皇 建武の親政 その③ 子だくさん
生殖活動の凄まじさ。歴代天皇の子だくさんランキングでもトップ3に入る。いずれ正式に集計して見ようと思うが、桓武天皇・後水尾天皇などがランキング上位に入る。
平和な時期に腰?を落ち着けて子作りする場合。政治に参加できず暇で子作りに走る場合。そして、戦闘員として多くの子が必要で子作りする場合などが考えられる。
後醍醐天皇は、倒幕から南北朝戦乱の中で戦闘員が必要だったし、生存の難しい時代に後継者を多く持つことの必要性はあった。それでもお好き?じゃなければ出来ない仕業だ。
29名以上の後宮・中宮から、43名以上の皇子・皇女をもうけている。20歳前後から吉野に降る40歳ころまで43名だから、年間2名以上のペースで産ませている。死産や妊娠中の不幸の多かった時代だから妊娠させただけなら年間3~4名ペースだろう。記録に残せない庶民のレベルでも(お手付き)同衾させているだろうから年間の回数はどれほどに及ぶか?まさに絶倫の勢いだ。
有名な長男、護良親王(大塔宮)始め、尊良親王、宗良親王は初期の頃の後宮をお相手にできた皇子たちで、主に戦闘要員となって行った。この中で征夷大将軍に2名就任させている。
後半、後に後村上天皇になる義良親王や恒良親王、成良親王は有名な阿野廉子との間にできた皇子たちで、後継者を想定している。勿論、隠岐まで連れて行き、晩年まで愛し続けた愛妾であれば、その子を後継天皇にしたかった気持ちは分かる。
因みに、皇后は藤原氏の西園寺嬉子(後京極院)であるが、皇子の誕生は記録されていない。
さらに、後醍醐帝の皇子はすべて、「良」の字がついている。これを「よし」というか「なが」というかは、明治大正の時代まで論争であった。子供の頃に読んだ「私本 太平記」(吉川英治)では、モリナガ(護良)、義良(ヨシナガ)と読ませていたと記憶する。また、明治に南朝忠臣顕彰の時代、建武中興15社の神社にはすべて「良」は、「なが」と読んでいる。しかし現在は研究が進み「よし」と読むのが主流となっているようだ。
尊氏?
なお、足利尊氏は、高氏から改名し後醍醐の尊治の一字を頂戴している。言うまでもなく高は、北条高氏の高である。佞臣尊氏の面目や如何にである。
次回は、神皇正統記から見た、後醍醐天皇を見る。