逆順でたどる平安京の天皇たち
95代 花園天皇 父や兄に翻弄された天皇
先帝 |
後二条天皇 |
次帝 |
後醍醐天皇(南朝)光厳天皇(北朝) |
生年~崩御 |
1297年 8月14日~1348年12月2日 |
在位 |
1308年12月28日~1318年3月29日 |
在位中年号 |
延慶・応長・正和・文保 |
御所 |
? 上皇になって萩原殿へ |
御陵 |
十楽院上陵 |
父・母 |
父 伏見天皇 母 洞院季子 |
花園天皇は、自ら親政を行えた時期はない。即位時は、父の伏見上皇の院政、後半は、兄の後伏見上皇の院政だった。そして盟約通り持明院統の花園天皇は、大覚寺統の後醍醐天皇に譲位する。その後の混乱は今まで書いた。
持明院統の天皇に戻れば自ら院政の希望もあった。因みに後醍醐より9歳若い花園上皇であったからだ。しかし戦乱の世に突入し政治の手腕を振るう事は叶わなかった。それでも甥の光厳天皇を熱心に教育したらしい。
しかし、この天皇の大きな功績は二つある。仏教への関心が深く、特に禅宗に帰依し宗峰妙超や関山慧玄のもと現在の妙心寺を創建した。算盤面と言われる経営上手な妙心寺は、広大な勢力を誇る臨済宗の大本山になる。その礎をつくった天皇だ。また、自らの日記「花園院宸記」全7巻を残している。鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての貴重な一次資料となっている。
異属蜂起の相次ぐ世情にあって、ひたすら自重し、文化的・宗教的活動に終始し高いレベルに達したとどの資料にも伝わる。世が世なら聖徳ある天皇として評価されたはずだった。
なお、「神皇正統記」では、『実父伏見天皇の崩御の時も喪に服さず、これは前例のない事。』と、こき下ろしている。南朝方親房公によって不当におとしめられている。
52歳まで宝寿を全うしたが、南北朝の統一は見れなかった。